第31話 間に合った
茂はケースを地面に落とし、留め具を弾く硬い音とともに蓋を開いた。
中の槍は二本に分かれている。
そのままでは届かない。
組むしかない。
茂は膝をついた。ケースから槍を引き抜き、分割された二本の継ぎ目へ静かに指をかける。
十秒。
その十秒の間に、音が変わった。
ガラスの割れた窓から、黒い腕が突っ込まれる。
指じゃない。
掴むための形。
窓枠が鳴いた。
薄い鉄が、悲鳴みたいに歪む。
中の人間が引っ張られる。
影が前に倒れ、体が持ち上がる。
出てくる――はずだった。
だが止まった。
シートベルトだ。
肩だけが先に抜ける。
腰は残る。
身体が半分、車内に噛み込んだままぶら下がる。
次の瞬間。
引きちぎる音はしない。
ただ、抜ける。
腕だけが出てきた。
肩口から、肉が裂けている。
血が一本、空に引かれた。
黒い腕がそれを握り、振った。
ためらいなく。
そしてそれを棍棒のように振るった。
ゴン。
ゴン。
ゴン。
軽が跳ねる。
電柱に刺さったまま、車体だけが痙攣する。
そのたび、赤いものが飛ぶ。
血、骨、それと肉片。
それらが交差点のアスファルトに散る。
コンビニの光の下で、それだけが妙に鮮やかだった。
茂は視線を逸らさなかった。
逸らす余裕もなかった。
ジョイントが噛み込む。
回す。
締まる。
固定される。
――終わった。
茂は槍を持ち上げた。
重心が前に寄っている。
雷光の重さ。
それが、今の拠り所だった。
黒い塊がこちらを向く前に――
間に合う。
一歩、踏み出した。
茂は息を殺した。
走った肺がまだ熱い。
それを、ゆっくり冷やす。
視界の中心にあるのは、黒い背中。
肩。
盛り上がった筋肉。
拳が車体を叩くたび、背中が波打つ。
こちらを見ていない。
まだ。
槍を水平に構える、全長2メートルが最低限の間合いを作る。
一歩。
二歩。
靴底が砂利を踏まない場所を選ぶ。
交差点の白線の上。
滑るが音が少ない。
車内に、まだ動く影がある。
助手席か。
運転席か。
どっちでもいい。
まだいるうちは、間に合う。
茂の頭の中で、計算が回る。
助けるためじゃない。
刺すための時間だ。
黒い塊は獲物を壊すことに夢中だ。
怒りの方向が、車に固定されている。
だから背中が空く。
さらに近づいた。
ゆっくり。
速くしない。
速くすると音が出る。
音が出ると振り向かれる。
振り向かれたら、もう刺す距離じゃない。
交差点の反対側。
クロスボウの男が、まだ立っていた。
狙いは外れている。
構えたままではない。
矢を外し、半歩だけ下がっている。
逃げるか。
残るか。
顔がそう言っている。
登録の腕章、ベスト胸元の反射材――公認の印。
逃げたい。
でも逃げたら終わる。
そんな葛藤が見える。
ペナルティが溜まってるのかもしれない。
インボイスを貰うために最低限の義理を果たしていた。
男の目線が、茂に一瞬だけ飛んだ。
気づいたのか。
それとも、何かを期待したのか。
茂は返さない。
目を合わせない。
合わせた瞬間、繋がりが発生する。
それはいらない。
順番だけでいい。
槍を持つ手の指を、スイッチの位置に添えた。
冷たい樹脂。
押せる距離。
押すだけの指。
黒い背中まで、あと数歩。
車内の影が動いた。
ドアを押している。
開かない。
歪んでいる。
その動きで判断できる。
まだ生きている証拠だ。
茂は最後の一歩を、さらに遅くした。
背中の死角。
車体と電柱の影。
コンビニの光が、逆に茂の輪郭を薄くする。
――今。
息を殺したまま、背中へ入った。
白い光は撃たない。
撃てば、気づかれる。
気づかれれば、間合いが消える。
槍を送る。
距離。
角度。
そして――背中。
刃が入った感触が手元に返った。
硬い皮膚。
その奥で、抵抗が一段落ちる。
刺さった。
茂はすぐに、指を探した。
刃先近くのトリガー。
V-Gelの――引き金。
だが雷光のスイッチを意識してたから一拍、遅れた。
その一瞬で、黒い背中が震えた。
筋肉が跳ね、肩が捩じれる。
来る。
振り向いた塊が腕を振った。
槍が弾かれる。
金属が鳴った。
手首ごと持っていかれる。
反射で柄を離さず、身体ごと後ろへ跳んだ。
一歩。
二歩。
距離を作る。
刃先が抜ける。
刺突は成立している。
だが、死はまだ追いついていない。
黒い塊が振り向いた。
真正面。
拳の先に、血がついている。
自分のじゃない。
車内の誰かの。
目が合った。
瞬間、時間が細くなる。
瞳孔の黒。
濡れた膜。
怒りではない。
捕食の色は消えている。
ただ、敵を見ている。
息を吸いそうになって、やめた。
逃げるな。
逃げたら追われる。
追われたら終わる。
交差点の向こうで、クロスボウの男が半歩退いた。
逃げる方向を探す足。
だが、身体が残っている。
登録だ。
逃げたら安定がなくなる。
だから、死ぬ可能性が残る。
車内で、何かが叩く音がした。
ガラスじゃない。
内張りを叩いている。出たがっている。出られない。
声は聞こえない。
でも――まだ生きてる気配だけがある。
茂はその情報を、感情に変えなかった。
順番に戻す。
指が、スイッチの位置を探す。
迷わない。
もう迷わない。
押す。
雷光が爆ぜた。
白い閃光がそれを塗りつぶし、
黒い塊の輪郭が一瞬だけ切り刻まれる。
動きが止まる。
止まったのは足じゃない。
目線の処理が遅れる。
身体が命令を失う。
――止まった。
確認した瞬間、踏み込んだ。
槍を前へ送る。
腹。
柔らかいところ。
皮膚の下に重さが溜まる場所。
刃が入る。
抵抗が落ちる。
躊躇しない。
手元のトリガーを――引いた。
指が動いた。
今度は引けた。
槍の奥で、機械が作動する気配。
遅れて、圧が走る。
茂は踏み込みを止めない。
抜かない。
離さない。
順番は、守った。
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