4.電話帳
一時五十五分。俺は家から徒歩五分のファミレス前に立っていた。
一時間前から自宅でソワソワし、ファミレス前に丁度約束の五分前に到着するように家を出た。
今雪原はどの辺りにいるのか、果たして本当に来るのか、確認したいが携帯のない俺にはそれができない。
今日はバイトはないので、間違えて来たと思われないようにファミレスの中から見えない位置に立った。
腕時計で時刻を確認する。
一時五十七分。
まだ雪原の姿は見当たらない。
からかわれたのでは? という思いが頭をよぎった。
もしそうだとしても、俺はTシャツを汚してしまったという借りがあるので仕方がない。二時十五分まで待って来なかったら帰ろう。
そう心の中で思うのに、雪原が来るのではないかと緊張している。
二時――。
雪原は来ない。
時間が経つにつれ、騙されたかもという気持ちが膨らんでいく。
俺はじっと時計を見ていた。
二時三分。
そのとき、向こうから走ってくる人影が見えた。俺は目を凝らす。それは紛れもなく雪原だった。
「ごめん! 電車一本乗り遅れて……! 連絡もできないしマジで焦った……」
両肩で息をしながら雪原は謝った。早速携帯を持たない相手に対する不便を実感しただろう。
けれど俺は誰かとこうして待ち合わせをすること自体、随分久しぶりということを思い出した。雪原が今日ここに来てくれただけでも俺にとっては凄いことだ。
「本当に来た……」
俺が呟くと、「いやいや、来るでしょ」と雪原は笑って言った。
「でも遅れてごめんな。行こっか。どっち?」
今から雪原が本当に俺の家に来ると分かり、あの家を見せて大丈夫だろうかと急激に不安が襲ってきた。
「うち、ばーちゃんいるよ。狭くて古くてボロくて驚くと思う」
歩きながら俺はそう言って予防線を張った。雪原は「ふーん」と大して気にしていなさそうだ。
アパートに到着し、二階建ての二階へ外階段を登る。錆びた縞鋼板の階段は男子高校生二人が登るとガンガンと音が響いた。いつもはなんとも思わないひび割れた外壁やシミだらけのコンクリートが今日はやたらと気にかかる。
俺は一度も振り向かずに歩いたが、後ろの雪原が既に引いているかもしれないと気がかりだった。
二階の端から二番目の部屋の前で俺は立ち止まった。ポケットから鍵を取り出して扉を開く。
「ばーちゃん同じこと何度も言うけど無視してていいから」
そう言いながら部屋に雪原を招き入れた。
「お邪魔しまーす」
雪原はキョロキョロと家を見回している。祖母がいると思っていたが、襖で仕切られた奥の部屋を見ても誰もいない。どうやら買い物に出かけているようだ。
「こんなボロ屋珍しいだろ」
俺が苦笑しながらそう言うと、雪原は笑って「珍しいっちゃ珍しいかな」と返事をした。
「なあ、これ……もしかして電話だったりする?」
雪原が黒電話を触りながら尋ねた。
「そう。それが我が家の電話。これがあるから俺は携帯を持ってない。うちには携帯買う余裕はねぇの」
雪原は一瞬固まって、「マジか……」と呟いた。しかし彼はすぐに俺に向き直った。
「この番号教えて!」
今度は俺が固まった。
「い……、いいけど聞いてどうすんだよ」
「え? 電話かける」
さも当然と言う風に答える雪原に俺は眉根を寄せた。
「用がないだろ。てかなんで俺に絡んでくるんだ?」
朝からずっと気になっていた事を俺はようやく口にした。
「みんなみたいに連絡付かないしバイトばっかだし……。つまんねーと思うよ」
「それはまだ分かんねえだろ」
続く俺の言葉に被せるように雪原が口を挟んだ。
「昼も言ったけどただ仲良くなりたいなーと思って。いいじゃん。番号教えてよ」
「お前、女子にもそんな感じで聞くのか……」
俺は赤くなった顔をぱっと逸らして誤魔化すようにそう口走った。
「言ったことねーよ!」
雪原は大声で否定した。女子に連絡先を聞けばいくらでも教えてもらえそうなのに。焦って否定する姿が俺にはとても意外だった。
「仲良くなりたい」と言われたのがむず痒くて、片手で口を押さえたまま俺は黒電話の横に置いてある電話帳の表紙を指し示した。そこに黒電話の番号が書いてある。
「これ?」
俺は頷いた。雪原は携帯を取り出して登録している。操作を終えると雪原は黒電話を指差した。
「これって電話番号登録できたりすんの?」
「できるわけねーだろ」
思わず笑ってしまった。このアナログな機器にそんな機能はない。
「じゃあ緑が俺に電話したい時はどうすんの?」
勝手に緑と呼ばれている事も、俺が雪原に電話したくなる前提なのも突っ込みたかったが、俺はひとまず聞き流した。
「電話帳見てかける」
「へー、これが電話帳ね……。アプリしか見たことねー」
俺も自分の家以外で紙の電話帳を見たことはない。
雪原はそう言いながら勝手に電話帳の“や行”のページを捲り、自分の名前と電話番号を置いてあるボールペンで書き始めた。
「勝手な奴だな……」
「いいじゃん、いつでも電話して」
俺は笑いながら鷹也が書く番号を見つめていた。
雪原鷹也 XXX-XXXX-XXXX
濃くて大きな字が記された。
この電話帳に友達の番号が刻まれるのは何年ぶりだろうか。
そのとき雪原の携帯が鳴った。雪原は携帯を見て怪訝そうな顔をした後「ちょっとごめん」と俺に断ってから通話を始めた。
雪原は「えぇ?」「今日? いま?」「だる……」などと話し、最後に「……分かった」と言って電話を切った。
「最悪……。入学祝いの食事会だって。出かけるから今すぐ帰ってこいだってさ」
「それは行けよ」
こいつはきっと、大切に育てられているんだろう。
雪原はとても残念がっていてずっと家族の悪態をついていたが、俺は「はいはい」と言いながら家から雪原を追い出した。
雪原が帰ったあと、俺は電話帳の新しい番号を指でそっとなぞった。
友達とどれだけたくさん話しても、遊んでも、俺は帰宅すると孤独になる。みんなは家でもメッセージをやり取りして繋がっている中で、俺だけはいつもその輪の外にいる。
黒々と書かれたその番号が、ほんの少しだけ俺の孤独を照らしてくれたような気がした。
その日俺は何度も電話帳の番号を見返した。
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