情報屋ミケコと防波堤の噂
夜の港で、チビスケは相撲の夢を見ながら寝ぼけて外へ出てしまう。月明かりの路地を歩いていると、昼間とは別の顔をしたシャケヤンが、防波堤へ向かっているのを見かける。足元には白いカモメの羽。さらに防波堤の方からは、ただの鳴き声ではない低い声が響く。チビスケの無邪気な夜散歩は、やがてミケコを動かす大きな手がかりとなる。猫社会の裏側が、ついに覗き見される章である。
その夜、潮鳴町はいつもよりも一層の静寂に包まれていた。昼間は人の喧騒や魚の水気が渦巻く朝市通りも、夜の闇が降りると魚箱の塩辛い残り香だけを残し、深い眠りに落ちたかのように静まり返っていた。夜露で濡れた凹凸の石畳には、薄らと月明かりが伸びて細長い影を描き、遠くの防波堤では波が穏やかに岸辺に打ち寄せ、「どん、どん」と腹の底まで響くような低い音を立てていた。
魚屋裏の木箱置き場では、猫たちがそれぞれの場所で丸まって眠っていた。大きな黒猫のブチローは、ふくよかな腹をゆっくりと上下させながら、鼻先から細かい鼻息を漏らしている。白い毛並みが夜露で少しぴっしょりと湿ったみゅいは、柔らかい白い尻尾の先を鼻の上に乗せ、小さな体を震わせるように眠っていた。昼間は港の冷蔵庫に閉じ込められて大変な思いをしたせいで、いつも活発なみゅいも、今は深い眠りに沈んでいた。
その横で、唯一チビスケだけが、小さな口をむにゃむにゃと動かしながら寝言を言っていた。
「はっけよい……のこった……」
夢の中でも、昼間に見た相撲番組の横綱の試合を追っているらしい。
近くの古い民家の薄いカーテン越しから、古いブラウン管テレビの音がかすかに漏れていた。夜の再放送か、録画した相撲中継か、行司のはっきりとした声と客席のどよめきが、静寂の夜に浮かぶように聞こえてくる。
「のこった……のこった……」
チビスケは半分眠ったまま、小さな体をむくりと起こした。寝ぼけた目をこすりながら、木箱の縁から足を伸ばし、ふらふらと路地へと降り立った。潮風が小さな体をそっと撫で、夜露で濡れた石畳が肉球をひやりと冷やした。
普通なら、子猫が夜の港の路地を一匹で歩くのは危険なことだ。けれどチビスケは、夢の中で大横綱になっていたのだ。自分は強い、誰にも負けないという自信が、小さな胸を膨らませていた。
「ぼくは……つよい……」
そう呟きながら、小さな前足を「ぱん」と合わせて、相撲の仕切りのような姿勢をとった。
「猫だまし……!」
その声は、静寂に包まれた夜の路地に、あまりにも小さく響いて消えていった。
チビスケは民家の窓下をそっと通り、魚屋の角を曲がり、干物工場の裏抜けを歩いていった。昼間は魚の生臭さと人間の汗の匂いでいっぱいだったこの場所も、夜になるとまるで別の町のように静かで、干物の香ばしい匂いは薄れ、代わりに古い漁網の繊維の匂い、海藻の塩辛い匂い、錆びた金具の金属臭が濃く漂っていた。
そのとき、チビスケは突然足を止めた。
前方の月明かりが照らす先に、一匹の猫の影があった。丸く膨らんだ茶白の背中。ゆったりとした、いつものような歩き方。昼間なら、にこにこ笑いながら町の猫たちに声をかけてくれる、あの猫だった。
「……シャケヤンさん?」
チビスケは口を開けて呼びかけようとしたが、すぐに口を閉じた。なぜなら、その夜のシャケヤンは、いつものような笑顔を浮かべていなかったのだ。
月明かりの下を歩くシャケヤンの背中は、いつもよりもずっと低く、重そうだった。足音もいつもよりも静かすぎて、石畳に踏み込む音さえほとんど聞こえない。魚を配るときの陽気な声も、猫たちに頭を下げる柔らかさも、その背中からはまったく感じられなかった。ただ、何かを隠すように、防波堤へ向かってまっすぐに歩き続けていた。
チビスケは寝ぼけた頭で考えた。夜のお散歩かな。でも、シャケヤンさんはいつもなら魚屋で眠ったり、猫神社の境内でゆっくりしたりするのに、どうして防波堤へ行くのだろうか。
そのとき、足元で何か白いものが月明かりに反射して光った。チビスケはしゃがみ込んで見ると、夜露に濡れた白いカモメの羽が、石畳の隙間に引っかかっていた。チビスケは鼻を近づけて匂いを嗅いだ。潮の塩辛い匂いと羽の柔らかな匂い。それから、ほんの少しだけ、干物工場から漂うような干物の匂いがした。
「これ……冷蔵庫にもあったやつ?」
昼間みゅいが冷蔵庫の中で見つけたのと同じような羽だった。チビスケはその羽をくわえた。
その瞬間、防波堤のほうから低い声がした。猫の声ではない。「ぎゃあ」と鳴くような、けれどただの鳴き声ではない、荒れたようなドスの効いた声だった。
チビスケの小さな背中に、冷たいものが走った。夢の中の大横綱の自信は一瞬で消え、ただの弱い子猫に戻ってしまった。
「……帰ろ」
チビスケは羽をくわえたまま、来た道を必死に走った。石畳を蹴る小さな肉球の足音が、静寂の夜にやけに大きく聞こえていた。
魚屋裏へ戻る途中、網置き場の暗い影から声がした。
「こんな夜更けに、どうしたんだい」
網置き場の上に座っていたのは、三毛猫のミケコだった。古い漁網の上に細い体を乗せ、細い目でチビスケをじっと見つめている。夜の闇に包まれたミケコは、昼間よりもずっと静かで、まるで影そのもののようだった。
「お散歩……?でもないよね」
チビスケは混乱しながら、くわえていた羽を地面に置いた。
「シャケヤンさんが、防波堤のほうに行ってた。あと、これが落ちてた」
ミケコの細い目が、すっと細くなった。彼女は前足で羽をつまみ上げ、鼻を近づけて匂いを嗅いだ。潮の匂い、白い羽の匂い、そして薄い干物の匂い。昼間みゅいが冷蔵庫で見つけた羽と、まったく同じ匂いだった。
「……やっぱりね」
「やっぱり?」
「チビスケ、今見たこと、みゅいにもブチローにも、まだ言うんじゃないよ」
「なんで?」
「言えば、誰かが慌てる。慌てると、相手に気づかれる。それじゃ、まったくうまくないんだよ。」
ミケコは、羽を前足でしっかりと押さえた。
「こういう時はね、先に相手の尻尾をつかむんだ。もっとも、カモメに尻尾はないけどさ」
チビスケはミケコの言う意味がわからず、小さな首を傾げた。
「ぼくも行く?」
「だめだよ。あんたは帰って寝な。寝ぼけた子猫が二度も夜道を歩いたら、今度こそ海に落ちてしまう。」
「ぼく、強いよ。猫だましできるし」
「ふふふ。それは、いつか役に立つかもね」
ミケコは少しだけ唇を曲げて笑った。だがその笑いはすぐに消え、元の厳しい表情に戻った。
彼女は古い網の間をするりと抜け、防波堤へ向かって歩き始めた。湿ったロープの匂いが鼻を刺し、冷たい潮風が耳元をすり抜ける。遠くの海からは、カモメの悲しげな鳴き声が聞こえてくる。港の闇は、昼間の明るさとは違い、深くて何かを隠しているようだった。
防波堤の下には、使われなくなった大きな漁網が山のように積まれていた。ミケコはその網の隙間に身を滑り込ませ、静かに息を殺した。網のざらつきが背中の毛に絡み、潮の塩辛い匂いが鼻の奥まで刺してくる。
そのとき、上から声が聞こえた。
「ギャアスはん、約束通り来てくれましたなぁ」
シャケヤンの声だった。いつものにこにこした声だけれど、夜の防波堤の静寂の中で聞くと、昼間よりもずっと冷たく、どこか陰険な響きがした。
ミケコはさらに息を殺し、網の隙間から上を見上げた。月明かりの下で、白いカモメの殺気のこもったぎらついた目が月明かりに照らされて光っている。そして、羽が一枚、風に舞い上がり、闇の中をゆっくりと漂っていった。




