漁協冷蔵庫、極寒の密室会議
港全体で管理する巨大な銀色の冷蔵庫。その扉の向こうから流れてくる魚の匂いに、みゅいたちはつい忍び込んでしまう。中はマグロ、アジ、サバ、イカの匂いが詰まった夢の空間。しかし扉が閉まり、三匹は極寒の密室に閉じ込められる。寒さで言い合いながらも、みゅいは魚箱の減り方に違和感を覚える。奥の箱だけ抜かれている。そして床には、また白い羽が落ちていた。
漁協事務所の裏側、波の音が遠くまで響く港の片隅には、港全体の漁獲物を一時的に保管する大型冷蔵庫が佇んでいた。
それを冷蔵庫と呼ぶのも、人間の家庭にあるような白い四角い箱とは全然違う。身長が高い大人が五人も余裕で入れるほどの巨体で、銀色の鋼鉄製扉は小さな倉庫の入口並みに分厚く、周囲には常に白い冷気が煙のように纏わりついていた。前を通るたび、みゅいの細いひげが冷気に撫でられるように、ひやりとした感触が鼻先まで伝わってくる。
この重厚な銀色の扉の向こうには、一体何が広がっているのだろう。
みゅいは数ヶ月前から、この扉のことをずっと気になっていた。
漁師たちが扉を開けるたびに、中から魚の匂いが空気を圧迫するほど濃厚に流れ出てくる。脂ののったアジ、青々としたサバ、赤黒く艶やかなマグロ、弾力のあるカツオ、ぬめりの残るイカ、身の白いタイ……。匂いだけでお腹がいっぱいになりそうなのに、不思議とさらに空腹感が増してくる。港の猫たちにとって、この扉の向こうはまさに禁断の魔窟だった。
「……確認だけ。。。」
みゅいは銀色の扉の前で、小さな声で囁くように言った。
隣に佇む茶トラのブチローは、すでに口からよだれがひたひたと垂れていて、目は扉の方向に釘付けになっていた。
「確認は大事だな。特に高級なマグロの在庫確認はな」
ブチローの後ろから、白い毛に黒い斑点のシラタマが、しなやかな尻尾を優雅に揺らしながら近づいてきた。
「あなたたち、本当に品がないわね。港全体で管理している重要な冷蔵庫に忍び込むなんて、猫としての矜持がありませんわ」
「じゃあ、帰れば?」
みゅいがじとっとシラタマを見ると、シラタマは鼻を鳴らして少し背筋を伸ばした。
「……品質管理の観点から、あなたたちが何かバカなことをしないか少しだけ見届けますわ」
「言い方を変えただけじゃん、白い姫さま」
ちょうどその時、作業着を着た人間の作業員が、魚箱を積んだ台車を押してやってきた。濡れたコンクリートの床を台車の車輪がきゅるきゅると鳴らし、作業員が扉の取っ手を握って力を込めると、銀色の扉がギーッと重たい音を立てて開いた。
ぶわりと、冷たい空気が一気に流れ出してきた。
その冷気の中には、魚の鮮度と脂の香りがぎっしりと詰まっていて、みゅいの鼻先が勝手に上を向き、肉球が無意識にピクッと動いた。
「今」
みゅいの合図と同時に、三匹の猫は床を滑るようにして冷蔵庫の中に込み入った。
冷蔵庫の中は、外の港とは別の世界だった。
床は冷たいステンレス製で、肉球を置いた瞬間、冷たさが足の先から骨の髄まで刺さるように伝わってくる。壁も天井も銀色の鋼板張りで、高く積み上げられた段ボール箱の表面には白い霜が薄くついていた。箱と箱の隙間からは、赤黒いマグロの濃厚な匂い、青魚の清らかな脂の香り、イカのぬめった海の塩気が混ざり合って漂っていて、みゅいの頭がフワフワしてくる。
みゅいは琥珀色の目をキラキラと輝かせ、周囲を見回した。
「ここ、夢の中?」
「寒すぎる夢だな。。ぶるるっ」
ブチローは体を震わせながら、魚箱の上に前足をかけて言った。
「でも魚がいっぱいある。これは最高の夢だ」
シラタマは床に触れた前足をすぐに浮かせて、尻尾を少し膨らませていた。
「床が冷たすぎますわ。わたくしの上品な肉球が庶民の氷のように凍りつきそうです」
「姫さまの肉球、庶民の肉球じゃなかったんだね」
みゅいは、じとっと白い姫様を再び見た。そして、魚箱の側面に前足をかけて、箱の中を覗き込もうとした瞬間、背後で鈍い音がした。
ごん。
重たい銀色の扉が、閉まる音だった。
三匹は同時に体を凍らせて振り向いた。
「……ブチ兄が閉めたの?」
「オレじゃねぇ! オレは魚を見るのに精いっぱいだったんだ」
「シラタマ?」
「わたくしでもありませんわ。そもそも、こんな重い扉を閉めるだけの筋肉力は、わたくしには備わっておりません」
「と言うか、まぁ、猫には無理だよね。」
みゅいは慌てて扉の前に飛びつき、爪を立てて扉を掻こうとした。だが、ステンレス製の扉の表面はつるつると滑らかで、爪が全然立たない。前足で押しても、頭で突いても、扉はびくともしなかった。
冷たい空気が腹の下からじわじわと体の中に浸み込んできて、みゅいの体が小刻みに震え始めた。
「鳴けば、外の人間が来てくれるかも?」
ブチローは情けないような声で、にゃあああ……と鳴いた。
声は冷蔵庫の中で反響して、魚箱の隙間に吸い込まれるように消えていった。
シラタマがため息をついて、ブチローを斜め目で見た。
「その哀れな鳴き声では、三等煮干しも貰えないわよ。人間に聞こえるわけがない」
「じゃあ姫さまが、美しい鳴き声で呼んでよ」
シラタマは胸を張り、猫として完璧な角度で頭を上げて鳴こうとした。
「ぎゃ……っ」
寒さが喉に走って、声が震えてしまった。高らかな鳴き声になるはずが、小さな子猫のような細い声になってしまった。
みゅいは笑いをこらえきれなくて、クスクスと笑い出した。
「今の、ちょっとドジな子猫みたいで可愛いかったよ」
「笑う余裕があるなら、扉を開けなさい! わたくしはこの寒さに耐えられませんわ」
「だから開かないってば。そっちこそ毛が長いんだから、暖房係になってよ」
「わたくしを毛布扱いしないでくださる? わたくしは港の猫たちの中で一番上品なシラタマなのです」
「じゃあブチ兄、壁になって冷気を遮ってよ」
「オレは魚を食うために生まれたんであって、防寒具になるためじゃねぇ! オレも寒いんだぞ」
寒さが厳しくなるにつれ、三匹の言い合いはどんどんくだらない内容になっていった。けれど、体は正直で、寒さに耐えられなくなった三匹は、結局魚箱の陰の少しだけ暖かそうな場所で、ぴったりと身を寄せ合った。シラタマの長い毛は悔しいほど温かく、ブチローの太い腹はさらに悔しいほど頼りになっていた。
みゅいは体を震わせながら、ふと頭を上げて棚に積まれた魚箱を見上げた。
「ねぇ、この箱の並び、変じゃない?」
ブチローは鼻を鳴らして、魚箱の方を見た。
「魚がいっぱいあるから、正しいだろ」
「そうじゃなくて。手前の箱は全部そのまま残ってるのに、奥の段だけ半分くらい抜かれてるんだよ」
シラタマの青い目が細くなり、棚の方をじっと見つめた。
「人間が作業するなら、普通は手前の箱から順に取るはずですわ。奥の箱だけを選んで取るなんて、不自然です」
人間が一時的に冷蔵庫の代わりにに使っているスペースとはいえ、一応、窓と呼ばれるスペースが上の方についており、その窓は換気の為か少しだけ開いていた。
「誰かが、人間に見つからないように、こっそり奥から魚を持ち出してるんじゃない?」
みゅいは床に鼻を近づけて、匂いを嗅いだ。冷たいステンレスの床に鼻先が触れて、思わずひげがピクッと跳ねた。
魚の脂の匂い。氷の冷たい匂い。人間の長靴のゴムの匂い。
そして、それらの匂いの隙間から、かすかに羽の匂いが漂ってくる。
「カモメ……?」
みゅいがその言葉を口にすると、ブチローの体がびくりと大きく揺れた。
「ブチ兄? 何か知ってるの?」
「なんでもねぇ。寒さで体が震えただけだ」
「本当に?」
みゅいはブチローの頬の小さな傷を見つけた。先日ブチローが「港の縁石で転んだ」と言っていた傷だが、その形は転んでできた傷とは少し違うように見えた。
「知らねぇ! 聞くな!」
ブチローは思い切り大きな声を出したが、冷蔵庫の中で反響するのを怖がって、すぐに口を閉じた。
「……いや、何でもない。もう聞くな」
冷蔵庫の中には、冷凍機の低い唸り声だけが響いて、三匹の間に沈黙が訪れた。
その時、外から源さんの声がした。
「おい、冷蔵庫の中で何か鳴いてねぇか? なんか変な音がしたんだが」
扉がギーッと重たい音を立てて開いた。
外の温かい港の空気が一気に流れ込み、カモメの鳴き声と魚市場の人々のざわめきが耳に届いてきた。
三匹は一瞬で前足をそろえて、扉の前に座り込み、大きな目を丸くして源さんを見上げた。
「みゃあ……」
源さんは額を押さえて、三匹の猫を呆れたように見下ろした。
「おまえら、港の重要な冷蔵庫で何やってんだ。ここは猫が入っちゃいけない場所だぞ」
みゅいは源さんの質問に答えなかった。
ただ、扉の近くのステンレスの床に落ちているものを見つめていた。
白いカモメの羽が一枚。
銀色の床の上で、周りの氷よりも静かに、淡い光を放っていた。




