猫人気格差と魚政治
観光客が増えるほど、猫社会の格差ははっきり見えてくる。映える猫、白い猫、人間に愛される猫には魚が集まり、老猫や地味な猫は日陰へ追いやられる。そんな中、シャケヤンは大量の魚を配り、猫たちの支持を集めていく。だが、その魚には羽の匂いが混じっていた。ブチローの怪我、ミケコの疑い、チビスケの猫だまし練習。表向きは賑やかでも、港の裏では不穏な気配が濃くなっていく。
観光客の足音が潮風に乗って港に溢れ始めると、いつもの朝市通りの音は、賑やかに変わり始めた。
前までは、朝の6時を回る頃、通りに響くのは、魚屋の源さんが下手な新人漁師に向けて講釈を垂れる「その魚の捌き方は何だ!」というがなり声や、漁師同士が昨夜の飲み会の話で弾けるゲラゲラとした笑い声、重たい木製の魚箱がガタガタと石畳を擦りながら運ばれる音、空を旋回するカモメたちが獲物を狙って上げるぎゃあぎゃあとした鳴き声だけだった。けれど今は、それらの音の隙間に、観光客のはじける様な話声やシャッター音がカチャカチャと細かく混じり込み、通り全体の空気をざわつかせている。
「いた! 動画で見たみゅいちゃん!」
「あっ、白い子もいる! シラタマちゃんだ!」
「茶白の丸い子、こっち向いてー!」
塩気の強い朝の潮風が通りを吹き抜けるたび、生魚の鮮やかな匂いと、観光客たちが猫たちに向ける甘ったるい声が、風に乗って遠くまで流れていく。
みゅいは魚屋の店先に並べられた、汚れた木箱の隙間に体をすり込ませて隠れ、茶色と白のまだら模様の尻尾だけを、箱の下から細く出していた。観光客たちの靴がゴツゴツと石畳を踏むたび、木箱を伝って小さな振動が足裏に伝わり、みゅいは耳を少し伏せてしまう。以前ならこの時間、魚屋裏の日当たりの良い木箱の上で、腹を大きく伸ばして朝日を浴びていられたのに。だが今は、少しでも耳や顔を出しただけで、すぐに人間たちが持つ黒い四角い目――スマホのレンズが、ギュッとこちらに向けられてしまう。
「みゅいちゃん、こっち向いて!お菓子買ってあげるから!あ、猫は、チュールの方がいいのか。」
みゅいは木箱の暗い隙間の中で、小さくため息をついた。
「魚をくれるなら向くけど、お菓子なんて猫には合わないんだから」
みゅいは、食に関しては保守的だった。
「人間には聞こえてないぞ、お前の愚痴は」
隣の木箱の陰から、低い声が響いた。いつもより少し元気がない、ブチローの声だった。みゅいが隙間から目を覗かせると、黒と茶色のブチ模様のブチローが、壁にもたれて座っていた。いつもはキレイに整えられている前足の毛がぐちゃぐちゃに乱れていて、右の頬には細い引っかき傷が一つ残り、そこからは薄い血の匂いが漂っていた。
「ブチ兄、その顔どうしたの?昨日は漁師のおじさんから焼き魚もらって喜んでたのに」
「転んだ」
「猫が顔から転ぶなんて、初めて聞くよ。崖の上から落ちたの?」
「……そういう日もある」
ブチローは目をそらして、港の方を見つめた。耳の先が少し垂れていて、いつもの威張った様子が全く見えない。
みゅいはじっとブチローの顔を見つめた。何か明らかに変だ。けれど、ブチローはそれ以上何も言わず、腹がグウーと大きく鳴るのを聞かせるだけだった。
そのころ、朝市通りの中央の広場では、シラタマが十数人の観光客に囲まれていた。真っ白な毛並みが朝日に照らされてピカピカと輝き、青い宝石のような目が、観光客たちのスマホの光に少し細まっている。その前足の前の石畳には、観光客たちが持ってきた煮干し、小さなかつお節、パックに入った猫用おやつが、次々と置かれていく。
みゅいは木箱の隙間からその光景を見て、口を尖らせた。
「ただ白いってだけで、こんなに人間からおやつをもらえるなんて、経済効果すごいね。不公平だよ」
シラタマは遠くからその声が聞こえたのか、涼しい顔でみゅいの隠れている木箱の方を見た。
「美しさも努力ですわ。わたしは毎朝、毛繕いに一時間はかけているのよ」
「朝から昼まで寝てるだけに見えるけど」
「寝姿を崩さないように体勢を維持する努力です。それがわからないのは、あなたが努力不足なだけ。」
言い返そうとしたみゅいの前を、年老いた黒猫がゆっくりとそっと通り過ぎた。背中の毛は年齢と共に薄くなり、片耳の先が少し欠けていて、足腰も少しふらついていた。観光客たちはその老猫をちらりと見ただけで、またすぐにシラタマの方へスマホを向け、シャッター音を鳴らした。
老猫は何も言わず、魚屋の影になった日陰のほうへ、ゆっくりと歩いていった。
みゅいの口の中に、魚の小骨を誤って噛んだような、ザラザラとした違和感が残った。
昼過ぎ、港の奥にある猫神社の裏の共同魚置き場に、港の猫たちが集まった。平らな石の上には、いつもより多くの魚が積まれていた。脂ののったアジ、身の詰まったサバ、小さなイワシが山のようになっていて、魚の脂の濃い匂いが周囲に充満している。ブチローの腹がまたグウーと鳴り、彼は喉を鳴らしながら魚を見つめていた。
「皆はん、お待たせしましたなぁ」
2本ほど入った路地裏では、シャケヤンが、にこにこ笑って並べられた魚の山の前に座り、大きく自慢げに伸びをした。
「最近は漁師たちの漁獲量も減って、魚が少ない時代やからこそ、猫同士の分け合いが大事ですわ。今日は、わしが少しばかり伝手を使って集めてきましたんや」
「おお、シャケヤンすげぇ!こんなに多くの魚を集められるなんて」
「やっぱり魚を持ってくる猫は違うな。いつもより腹が減ってたから助かるわ」
「次の猫の会長はシャケヤンでいいんじゃないか?今の会長は何もしてくれないし」
猫たちの尻尾が次々に立ち上がり、喜びの鳴き声が置き場全体に響いた。
シャケヤンは照れたように前足で顔をこすり、耳の先を垂れた。
「いやいや、わしなんて。ただ、腹を空かせて哀れそうにしてる猫を見てられへんだけですわ。さあ、皆さん持って行って下さい。」
その横で、ブチローは黙って魚の山を見つめていた。喉をゴロゴロと鳴らしているので、明らかに食べたいはずなのに、なぜか前へ一歩も出ない。
「ブチ兄、食べないの?一番好きなサバがあるんだよ」
「……あとでいい。お前たちが先に食べろ」
「変なの。昨日は焼き魚を二匹分も食べてたのに」
みゅいは魚の山に鼻を近づけて匂いを嗅いだ。魚は新鮮で、脂の香りが鼻の奥まで広がる。だが、港の朝市で売られている魚の匂いとは少し違う。魚の脂の奥に、かすかに、何か違う匂いが混じっている気がした。
同じことに気づいたのか、三毛猫のミケコがゆっくり目を細めてシャケヤンに向かった。
「シャケヤン」
「はいな、ミケコはん。何かご用でっか?」
「この魚、どこから持ってきたんだい?港の漁師たちは最近、こんなに多くの魚を獲れてないはずだし、くれないはずだ。」
「それはまあ、ちょっとした企業秘密ですわ。魚を動かすには、人間や他の港の猫たちとの顔の広さが必要ですからなぁ。詳しいことは気にせんで、食べましょ」
シャケヤンは大きく笑って、前足で魚を一つ取り上げた。猫たちは感心してシャケヤンを見上げている。けれどミケコだけは、その笑顔の奥に何か隠しているように見えて、眉を少しひそめたまま魚を見つめていた。
港には魚が増えた。
猫たちは喜んで、毎日たっぷりと魚を食べていた。
けれど、その魚の濃い脂の匂いの奥に、みゅいはたしかに別の匂いを感じていた。
白い海鳥の羽のような、乾いた匂い。
そして、笑顔で隠した鋭い爪のような、冷たい金属のような匂いだった。




