防波堤潜入、チビスケ大失敗
ミケコは防波堤の網の下に身を潜め、シャケヤンとドン・ギャアスの密会を盗み聞きする。ギャアスは仲間の飢えを救うため、シャケヤンと手を組んでいた。満月の夜、ヌシを呼び、魚を浜に追い込む計画。会長になった後、魚を二分するという密約。だが、シャケヤンの目には分け合う気配などなかった。みゅいに罪を着せる計画まで語られ、ミケコは笑顔の裏に隠れた本当の危険を知る。
夜の防波堤は、昼間のにぎやかな港とはうって変わり、冷たく無愛想な顔を向けていた。潮風が身をすり抜けるたびに、肌に細かい寒気が走り、波の音だけが広い闇の中で孤独に響いていた。
月明かりを吸い込んだコンクリートの壁は青黒く濡れており、波が防波堤の腹を叩くたびに、やはり、今日も「どん、どん」と低く沈む音が骨まで伝わるのだった。そして潮風には潮の塩気と、水底に沈んでいる海藻の生臭さ、さらに錆びた鉄製の係留柱の独特な匂いが混ざり合い、防波堤の端に垂れ下がる古い漁網は海水を吸い込んで重たく垂れ、網目から細かい水滴が滴り落ちていた。
その漁網の下の暗がりに、ミケコは体を小さく縮めて潜んでいた。背中には網の麻の繊維がざらざらと絡みつき、鼻先には潮の塩気と魚の生臭さに加え、かすかに白い羽の匂いが漂ってくる。息を吸い込むたびに、網に染み込み込んだ何年も前の海の匂いが肺の奥まで届き、喉の奥が苦くなる。
防波堤の上のコンクリートの段差には、シャケヤンが太い尻尾を巻きつけて座り、にこにこと笑っていた。その笑い声は潮風に乗って遠くまで響き、闇の中で不気味に反響した。
「ギャアスはん、約束通り来てくれましたなぁ」
その声が落ち着くと、街灯の白い光が照らす電線の上から、大きなカモメが一羽、静かに舞い降りた。
ドン・ギャアス。
その体は普通のカモメの二倍以上の大きさで、片足には青い漁網の切れ端がぐるぐると絡まり、月の光が白い羽根に当たるたびにぎらりと冷たい輝きを放つ。鋭い目つきは闇の中でも殺気を帯びてギラリと光り、くちばしの先は魚の骨のように尖っていて、少し動かすだけで空気を切る音がする。
「無駄話は嫌いだ、茶白の猫」
ギャアスは低く鳴き声を上げ、その声には飢えた群れを背負うリーダーの威厳が込められていた。
「本当に魚は戻って来るんだろうな。うちの若いのは腹を空かせてる。浜に落ちた魚の皮まで奪い合う始末だ」
ミケコは網の下で耳を鋭く立てた。ギャアスの声には怒りがあったが、それだけではない。飢えた仲間たちの姿を思い浮かべる焦りと、自分がリーダーとして責任を持たなければならない切実さが、荒っぽい声の裏に隠れていた。
シャケヤンは前足をそろえて腰を上げ、柔らかく笑いながらギャアスの前に進み出た。
「もちろんですわ。わしが嘘つくような猫に見えますかいな」
「見える」
「ひどいなぁ」
シャケヤンはくつくつと鼻の下から笑い声を漏らし、太い尻尾をゆっくりと左右に揺らした。
「けれど、話は本物です。満月の大潮の夜、ヌシ様が湾の近くまで来る。ヌシ様はアジの干物が大好物。防波堤から干物箱を落とせば、必ず湾へ寄ってくる」
「ヌシとは、あの海の化け物か」
「十メートルを超える大物ですわ。しかも一匹やない。あれが近づけば、小魚どもは逃げ場を失う。湾の奥へ、浜へ、どっと押し寄せる。そのとき、浜は魚が山のようになる。。。そういう寸法ですわ」
ギャアスの黄金色の目が鋭く光り、羽根が少しだけ膨らんだ。
「そこを俺たちがさらう」
「せや。カモメ衆は腹いっぱい食えるし、猫はそのおこぼれを頂戴する。。。と。ええ話ですやろ」
シャケヤンは夜風に吹かれてひげを揺らし、薄ら笑いを浮かべてギャアスの目をじっと見つめた。
「段取りは、ワシに任せてください。その時は、カモメ衆共々、腹いっぱい召し上がってください。その代わり、これまで通り、ワシが猫会長になるまでは、魚を少しだけ、冷蔵庫から調達して、わしに渡して欲しいんですわ。猫票は、魚の数で決まりますからなぁ」
「猫会長になったら、港の魚の一部はカモメ組に回す。表向きは猫の管理。裏では、あんたらにも分ける。この港の魚は我々で管理していきましょ」
そう言って、シャケヤンは、昼間とは違う不気味な笑みを浮かべた。そう、ドン・ギャアスには、素顔を隠す必要がないのだから。
ミケコの背中に、冷たい水が流れるような感覚が走り、背中がぶるっと震えた。
二匹で分ける。
それは猫たちにも、人間にも、勿論。みゅい達にも知らされていない秘密の約束だった。この港の魚は、すべての猫とカモメが平等に分けるはずだったのに。
ギャアスはしばらく黙って波を眺めた。波が防波堤を叩き、白いしぶきが月の下で細かく散り、コンクリートの壁に水滴がついていく。
「ひとつ、聞いておく」
ギャアスは、シャケヤンに、氷のように冷たい目を向けた。並みの猫ならばすくみ上るだろう。
「茶白猫よ、なぜ、我々と組みたがるのだ。本来、猫とカモメは魚を奪い合う敵同士だ。」
シャケヤンは、ペロリと太々しく一回舌なめずりして答えた。交渉に慣れている猫のしぐさだった。
「困りましたなぁ。ワシ信用されてへんねんなぁ。」
少し間をおいて、シャケヤンは、じっとギャアスの目を見て答えた。
「実はな、ワシは、旭町、咲州町を抑える猫ヤクザのトップやねん。」
旭町、咲州町は、潮鳴町と同等の規模か少し小さいくらいの隣町だ。
「信用せんでもええ。ただ、これは、事実や。空から調べてくれてもええで。ここ潮鳴を手に入れてな。勢力を拡大するつもりやねん。」
「できれば、平和的に、且つ効率的にな。」
「平和的にか」
ギャアスの目が少し笑ったような気がした。
「せや、こう見えて、ワシ、実は結構平和主義者やねん」
「ククク、平和主義者か」
ドン・ギャアスは大きな羽をひと羽ばたきさせて、笑った。
実際には、傍から人間が見れば、カモメがギャアギャア騒いでいるように見えただろう。
「ただ、腹を空かせた仲間は待ってくれまへんやろ?明日にも餓えて倒れる子が出るかもしれまへんで。」
シャケヤンの声はやさしかったが、その裏には冷たい計算が隠されていた。
「魚が欲しい。仲間を食わせたい。あんたはそのためにここにおる。ちゃいますか?」
ギャアスの羽がわずかに揺れた。風が羽根の間をすり抜け、細かい音がした。
「……その通りだ」
「なら、手を組む理由は十分ですわ」
その言葉を聞いて、ミケコは歯を食いしばった。
うまい。シャケヤンはギャアスの弱みを見事に突いている。欲ではなく、仲間を思う責任感に入り込んで、ギャアスを自分の思い通りに操っているのだ。
ギャアスは首を傾げて問うた。
「だが、猫どもはどうする。あの灰色の小娘、みゅいとかいう猫は、鼻が利く。この計画に気づかれたら、この計画は頓挫するぞ」
「そこは心配いりまへん」
シャケヤンの笑みが少しだけ深くなり、目の奥に冷たい光が宿った。
「高級アジの件で、もう疑いはかけてあります。足跡、毛、魚の脂。あとはもう一押し。みゅいがカモメと通じて魚を荒らした、そういう空気を作ればええ。そうすれば誰もみゅいの言葉を信じなくなりますわ」
「おまえ、同じ猫を売るのか」
ギャアスの目が鋭くシャケヤンを捉えた。
「売るやなんて人聞き悪い。政治ですわ」
シャケヤンはにこにこしたまま言い、尻尾をギャアスの足元に軽く触れさせた。
「魚を一番持ってきた猫が、港を動かす。そのルールを皆が望んだ。なら、わしが一番持ってきたらええだけです。みゅいを追い出せば、誰もわしに反対できない」
「本当に、魚を分けるんだろうな」
「もちろん」
シャケヤンはあまりにも自然にうなずき、笑顔を広げた。だが、その目は笑っていなかった。細い瞳が闇の中で冷たく光り、何かを計算するような鋭さが宿っていた。
ミケコにはわかった。
あれは、分ける者の目ではない。
独り占めする者の目だ。シャケヤンはギャアスを利用して港の魚をすべて手に入れようとしているのだ。
そのとき、ミケコの前足の下で、古い網の麻の繊維が小さく鳴った。
きし。
ギャアスの首が一瞬で動き、黄金色の目が網の下の暗がりをじっと見つめた。
「誰かいる」
ミケコは息を止め、体をさらに小さく縮めた。網の繊維が背中に張り付き、汗と海水のにおいが鼻に詰まった。
カモメの羽音が近づく。網の隙間から、白い影がこちらを覗き込もうとする。ミケコは腹を低くし、濡れたロープの下をするりと抜け出し、防波堤の暗い影に隠れた。
「気のせいですわ。夜の港は、波の音や網の音、虫の音まで、様々な音が混ざってるんですから」
シャケヤンの声がした。助け舟のようにも聞こえたが、ミケコはぞっとした。
気づいている。シャケヤンは誰かが隠れていることに気づいている。だけどなぜ、黙っているのか。その疑問が頭をよぎると同時に、寒気が背中を伝った。
ミケコは音を立てずに防波堤の影を走った。肉球に冷たい水が跳ね上がり、足元には小さな波が寄せてくる。背後では、ギャアスの荒い声と、シャケヤンの柔らかい笑い声が、波音に混じって徐々に薄れていく。
港の猫たちが住む小屋へ戻るころ、ミケコの口には、夜露に濡れた白い羽が一枚くわえられていた。それはギャアスの羽根だった。
みゅいに知らせなければならない。この計画を阻止しなければ、みゅいは追い出され、港の魚はシャケヤンの独り占めになってしまう。
だが、相手はただの悪い猫ではない。笑顔で周りを騙し、港を丸ごと飲み込もうとしている狡猾な猫だった。ミケコは小屋のドアを開ける前に、深く息を吸い込んだ。闇の中で、戦いの準備を始めた。




