カモメ組、空から来襲
翌朝、カモメ組が朝市通りを襲撃する。魚箱はひっくり返り、氷が飛び散り、観光客は悲鳴を上げる。だが、その混乱の中でシャケヤンは、さりげなくみゅいとカモメの関係を疑わせる言葉を投げる。人間側では猫の餌やりや接触を制限する話まで出始め、猫たちの自由は揺らぎ始める。ミケコはみゅいに密約の疑いを伝えるが、証拠はまだ足りない。見えない網は、猫社会全体へ広がっていく。
翌朝、潮鳴町の空はやけに低く垂れ込んでいた。灰色の雲が厚く積み重なり、港の石畳までが薄暗く沈んでいるように見えた。
港にはいつも通り、塩気混じりの生臭い魚の匂いが鼻を刺す。氷粒がジュワリと溶ける木箱の上で、新鮮なアジが朝日の僅かな光を反射させ銀色に輝き、魚屋の源さんの包丁がまな板をトントンと小気味よく叩いていた。肌に塩風を浴びた漁師たちが太い声を張り合って荷物を運び、杏は干物を並べたざるを丁寧に整え、大地は無言で重たい魚箱を肩に担いで歩いていた。
けれど灰色猫のみゅいの尖った耳は、それらの喧騒をかき分けて別の音を拾っていた。
翼が空気を切り裂く音。
それも、一羽や二羽のささやかな音ではない。空の雲の隙間から漏れる光の向こうで、白い羽が束になって風を切り裂くような、シュウーという重たい音が近づいてくる。
「……来る」
みゅいが霜の張り付いた木箱の上で、体を低くして背中を丸めた瞬間だった。
ぎゃあああああっ——。
空から白い影が一気に降り注いできた。
カモメ組だった。
先頭にいるのは、片足に青い漁網の切れ端がぐるぐると絡まった大きなカモメ、ギャアス。月の夜に茶白猫のシャケヤンと防波堤で密談していた、あのガラガラとした荒い声の主だ。ギャアスが翼を全開に広げると、朝市通りの半分が一瞬だけ黒い影に覆われた。
「魚だ! 魚を隠せ!」
源さんが包丁を手に挙げて怒鳴ったが、それはすでに遅かった。
カモメたちは魚箱へまるで嵐のように突っ込み、アジをくわえて空へ舞い上がり、サバをさらって逃げ、干物のざるをひっくり返して干物を散らかした。氷が石畳にごろごろと散らばり、魚の脂が朝日に照らされてぬらりと光り輝く。観光客たちが悲鳴を上げて逃げ惑い、スマホを構えて撮影していた人間たちも慌てて後ずさり、カモメの襲撃から身を守った。
「なんだよ、これ!」
「先日の猫の騒ぎのせいで、鳥まで荒れてくるんじゃないの?」
「怖い、魚が空に飛んでるみたい!」
みゅいは慌てて木箱の下へ飛び込んだ。すぐ隣に、小さな茶トラのチビスケが転がり込んでくると、尻尾をぴくりと跳ね上げて叫んだ。
「みゅい姉ちゃん、空から鳥が降ってきた!」
「違う。カモメたちが魚を奪ってるの!」
ブチローが、倒れた魚箱の陰で体を丸めていた。大きな体なのに、耳はぺたりと伏せられ、目を細めて不安げに周囲を見回していた。
「ブチ兄、こっち!」
みゅいが小声で呼ぶと、ブチローは一瞬こちらを見た。けれど、その視線はすぐに、おびえたように別の場所へ逃げ、また体をさらに丸め込んだ。
朝市の端、人通りの少ない防波堤の入り口。
そこに、シャケヤンがいた。
茶白の丸い体をゆったりと立たせ、混乱する猫たちをゆっくりと見回している。眉間を少し皺めて心配そうな表情だった。けれど、みゅいには、その細い目の奥が少しも慌てていない、むしろ計画通りに進んでいるような冷たさが見えた。
「えらいことになりましたなぁ」
シャケヤンは、わざとらしく大きく息を吐いて、前足で額を撫でるような仕草をした。
「カモメ組がここまで大胆に朝市に飛び込んでくるとは……わしも予想外です」
白い毛がふわふわのシラタマが、倒れた干物ざるの影から顔を出して、疑い深げにシャケヤンを見た。
「あなた、ずいぶん落ち着いていますのね。みんなが慌てているのに」
「慌てても魚は戻りまへんやろ? 落ち着いて状況を見極めるのが先だと思うんや」
そのとき、ギャアスが魚屋の赤い看板に降り立った。くちばしに銀色のアジをくわえたまま、鋭い黄色い目で港全体を見下ろした。
「港の魚は、全部、我々のものだ!」
人間にはただのカモメの鳴き声にしか聞こえない。けれど猫たちには、その言葉がはっきりと頭に響いた。
みゅいは歯をむいて、前足で地面を爪で引っ掻いた。
「勝手なこと言ってる! この港の魚は、漁師たちが海から取ってきたものだよ!それを、わたしたちは貰っている。みんなのものだよ!」
だが、次の瞬間、シャケヤンが小さく首をかしげて、みゅいの方を向いた。
「あれ? みゅいはん」
「なに?」
「そういえば、最近ようカモメの羽の近くにおりましたなぁ。先日の干物が盗まれた事件のときも、冷蔵庫から魚が消えたときも、みゅいはんが現場の近くにいたような……」
周囲の猫たちの視線が、一斉にみゅいへ向いた。疑い、不安、そして少しの恐怖が混じった視線だった。
「ちょっと待って。あたしがカモメを呼んだって言いたいわけ? そんなバカなことを言わないで!」
「いやいや、そんな恐ろしいこと、わしは言うてまへん。ただ、皆が不安になってる時は、疑いを晴らす努力も必要かなぁと思っただけだ。みゅいはんも、自分が無実だと証明できはるといいんやけど」
やさしいような声で、困ったような顔をしていた。けれど、その言葉は確実にみゅいを追い込み、周囲の猫たちの疑いを深めていった。
そこへ、町役場の佐伯さんが眼鏡を鼻に押しながら駆け込んできた。タブレットを抱えた手が震えていて、額には汗がにじんでいた。
「これは困ります! 観光客がSNSに動画を上げています。猫たちがカモメと一緒に魚を荒らしているように見えて、批判のコメントが殺到しているんです!」
「荒らしてるのは鳥だろうが! 猫たちはただ逃げてるだけだ!」
源さんが包丁を机に叩きつけて叫んだ。
「しかし、このままでは潮鳴町の観光客が減ってしまいます。猫への餌やりや接触について、一時的な制限を検討する必要があります。例えば、魚屋裏での餌やりを禁止したり、観光客が猫に餌をあげることを制限したり……」
その言葉に、周囲の猫たちの空気が一瞬凍った。
餌やり制限。
接触制限。
つまり、魚屋裏で毎日もらえていた魚の切れ端も、観光客からもらえる煮干しも、公園の一等ひなたでくつろぐことも、人間に管理されて自由が奪われるかもしれないということだった。
みゅいは喉の奥で低く唸り、爪を地面に深く刺し込んだ。
「冗談じゃない……そんなの。絶対に許さない」
昼過ぎ、カモメたちが空へ飛び去り、騒ぎが少し収まったころ、三毛のミケコが港の倉庫裏でみゅいを呼び止めた。古いロープのにおいと錆びた金具の鉄臭さがこもった、薄暗い場所だった。
「灰色のお嬢ちゃん。あんた、シャケヤンには絶対に気をつけな。あの猫は、表面だけはやさしそうだけど、裏ではなにか企んでるんだ。悪い猫だよ」
「ミケコ、何か知ってるの?」
「昨夜、防波堤の暗がりで、シャケヤンとギャアスが会ってたんだ。二人でひそひそと話していて、ギャアスが持っていた魚をシャケヤンに渡してるのを見たんだ」
みゅいの耳がピンと立って、目を大きく見開いた。
「それ、本当?」
「本当さ。ただ、今はまだ証拠が足りない。あの茶白は、何をするにも計算高く、簡単には尻尾を出さないんだよ。本当に気をつけなよ」
「猫なのに、なんでカモメと手を結ぶのよ?」
「そういう問題じゃないよ。あの猫が狙ってるのは、この港の猫たちの支配権なんだ。魚を握ることで、みんなを自分の思い通りに操ろうとしてるんだ」
ミケコは地面に落ちていた白いカモメの羽を前足で押さえて、厳しい表情でみゅいを見開いた目を見つめた。
「魚を動かしてるのは、あの猫かもしれない。カモメ組を使って、港を混乱させて、みんなを不安にさせて……そして自分が救世主になろうとしている」
そのころ、港の暗い路地では、ブチローがシャケヤンの前にひざまずくように座らされていた。路地の壁には汚れた落書きが残っていて、ゴミ箱からは生ゴミのにおいが漂っていた。
シャケヤンはにこにこ笑いながら、脂の乗った新鮮なアジの切れ端を前足で転がしてブチローの前に運んだ。
「ブチローはん。今日もようやってくれましたなぁ。みゅいはんを疑わせるのも、大変だっただろう」
「……もう、やめてくれ。こんなことを続けたら、みゅいたちが可哀想だ」
「何をです? わしはただ、この港の猫たちが安心して魚を食べられるように、計画を立ててるだけなんや」
「みゅいを疑わせるのも、魚で猫たちを釣るのも……こんな卑劣なことをする必要があったのか?」
シャケヤンの笑顔が、少しだけ薄くなった。目の奥に冷たい光が宿り、声も低くなった。
「口が軽い猫は、居場所をなくしますで。わしが猫の会長になったら、誰が魚を食えるか、誰が日陰に追いやられるか、全部決められるんや。ブチローはんも、わしの味方になれば、いつでも新鮮な魚を食べられるんでっせ?」
ブチローの体が震えて、耳をさらに伏せた。自分がシャケヤンの計画に加担してしまったことへの後悔と、みゅいたちに隠していることへの罪悪感が、胸を締め付けていた。
朝の港には、まだ塩気混じりの魚の匂いが残っていた。
だがその匂いの奥で、猫たちの自由を縛る見えない網が、静かに確実に広がり始めていた。




