漁師の恋とチビスケの相撲
若い漁師・大地は、魚屋の杏に好意を抱いているが、肝心なところで言葉が出ない。みゅいはそれを魚供給ルートの強化と見なし、恋の手紙を届ける作戦に乗り出す。一方、チビスケは民家のテレビで相撲に夢中になり、「猫だまし」を覚える。笑える日常の裏では、ブチローがシャケヤンに呼び出され、魚と恐怖で縛られていく。小さな伏線が、静かに積み重なっていく章である。
朝市通りの空気は、朝の潮風に混じって焼きサバの脂がぱちぱち弾ける香りが充満していた。炭火の熱気が顔にかかると、鼻の奥までその旨みがしみ込み、足が自然と止まりたくなるような誘い方だった。
源さんの魚屋の店先は、氷粒がキラキラ輝く木箱がずらりと並んでいる。真っ白な氷の上には、銀色の鱗が太陽を反射するサバや、背中が青く輝くアジがぎっしりと重なり、潮の冷たい香りが立ち込めていた。包丁がまな板をカチカチ叩く切り身作りの音、漁師たちが昨夜の漁の話で笑いあう太い声、上空を旋回するカモメのギャーギャーとした鳴き声が混ざり合い、潮鳴町の朝はいつものように賑やかな騒がしさに包まれていた。
その喧騒の中だけが、妙に静かな存在がいた。若い漁師の大地だった。
身長が180センチを超す大きな体で、サバが詰まった木箱をギュッと抱え、魚屋の前にぽつんと立っている。日焼けで小麦色に染まった腕は太く、漁船の重たいロープでも軽々と引き上げられるくらいの筋肉が張っているのに、杏の前に立つとなぜか指先が細かく震え、足元もぎこちなくなっていた。
「大地くん、今日も早いね。昨夜の漁は順調だったの?」
杏が白いエプロンを着て、手に包丁を持ったまま笑いかける。その笑顔は朝の陽射しをまとったように柔らかく、大地の耳の先が一瞬赤く染まった。
大地は三秒間、杏の顔を見つめて無言のままだった。喉元を何度も動かして声を出そうとしているのが見える。
「……今日のサバ、脂がのってていいですね」
「うん。昨日もそれ言ってたね? 毎日同じこと言ってると、大地くんはサバ好きなのかと思っちゃうわ」
「……はい。好きかもしれません」
たった二つの会話で、空気はまた静かになってしまった。大地は木箱を床におろすと、すぐに目を逸らして漁船の方を眺め始めた。本当は、サバは口実で、あなたが一番好きなんです。とそう言えれば楽になるのだろうか。
みゅいは木箱の陰に体を隠し、黒い前足を額に当てて大地の様子を観察していた。琥珀色の目は鋭く、まるで、国家機密を暴く探偵のような真剣な表情だった。
「弱い。波に叩かれてもへこたれないくせに、こんなに弱い。さざ波よりも弱い」
隣のブチローは、地面に落ちていた鶏の骨をかじりながら、茶色い首をかしげる。口の周りには骨のカスがついている。
「何がだ? あの大きい人間が?」
「あの人間、杏に好意があるんだ。ハートがバクバク跳んでるのが、こっちからでもわかる」
「こうい? 好意って何?うまいのか?」
「仲良くなりたいってこと。一緒にいたいって思ってるんだ」
「仲良くなると魚が増えるのか? 俺の食べる魚が、もっと手に入るのか?」
みゅいは、きらりと琥珀色の目を光らせた。細い尻尾をゆっくりと左右に振りながら、確信に満ちた声で答えた。
「増える。絶対に増える」
大地はみゅいにだけ妙に優しかった。雨の日には倉庫の軒下を自分より先に空けてくれるし、魚を切るときに出る小さな切れ端を、人目を避けてこっそりくれることもあった。そんな大地が杏と仲良くなれば、魚屋との関係はさらに強くなり、みゅいたち猫たちが食べる魚の量も確実に増えるはずだ。
つまり恋愛とは、魚供給ルートを補強するための重要な工事なのである。
「作戦名、大地・杏・くっつき魚増量計画。これで、わたしたちの食糧事情はより補強される。」
「名前が全部そのままだな。少しでもカッコよくしろよ」
ブチローは骨を地面に捨てて、真顔でつっこんだ。
そのころ、チビスケは魚屋の横にある古い民家の窓下に座っていた。木製の窓からは、古いブラウン管テレビの光が漏れており、相撲中継の歓声と解説者の大きな声が外に響いていた。
「はっけよい、のこった!」
テレビの中で力士が勝利の掛け声を上げると、チビスケは茶色い目をキラキラ輝かせ、小さな前足をぱん、と強く合わせた。
「みゅい姉ちゃん! 見て! 猫だまし! これで強い敵を倒せるんだ!」
「猫じゃなくて力士でしょ。それは相撲の技だよ」
「でも猫もだませるかな? 大きな猫がボクを追いかけてきたとき、ぱんってやると逃げられるかな?」
「猫をだましてどうするの。そんな技で敵が逃げるわけないだろ!すぐに捕まっておしまいだよ。」
「強い敵が来たとき、ぱんってやって気を散らせて逃げるんだ! 絶対に成功する!」
みゅいは適当にうなずきながら聞き流した。チビスケの遊びはいつも変わっていて、昨日は空き缶を敵だと思って戦って、最後に空き缶に足を引っ掛けて転んで負けていたのを見ていたからだ。
だが、チビスケは本気だった。テレビの中の大きな力士たちがぶつかり合うたび、鼻をひくひくさせて緊張し、細い尻尾をぴんと立てて力士の動きを真似ていた。
昼前、大地は魚屋の裏の人目の届かない場所に来て、みゅいの前に大きな体をしゃがみ込んだ。その太い手のひらには、小さく折りたたまれた白い紙があった。
「……みゅい」
大地は緊張して声が震えている。みゅいは尻尾を少しだけ振り、「みゃ」と小さな声で答えた。
「これ、杏さんに……いや、なんでもない。何でもないから」
大地は紙をポケットにしまおうとした。だが、みゅいはその瞬間に素早く飛びつき、紙の端をくわえた。
紙を広げると、鉛筆でぎこちなく書かれた「杏さんへ」という文字が目に入った。
手紙だ。人間の恋愛において、最も重要な道具であり、高級マグロに相当する存在だ。
「みゃ」
みゅいは紙をくわえたまま、大地を見つめた。任せて!とは言っていない。猫なので言葉は出せない。
しかし大地は勝手に目を潤ませて感動した顔になった。
「わかるのか、みゅい……お前だけは俺の気持ちをわかってくれるんだな」
わかる。魚のためなら、何でもする。みゅいは紙をしっかりとくわえ、朝市通りを小走りに走った。杏は店の奥で切り身を包んでいるはずだ。そこへ紙を落とせばいい。計画は完璧だった。
ただし、途中で焼きアジの香りが鼻に突き刺さった。
干物工場の横に置かれた紙皿の端に、小さな焼きアジの身が一切れ残っていた。焦げ目のついた茶色い皮から、香ばしい脂がじゅわりと滲み出し、風に乗ってみゅいの鼻の奥まで届いた。
みゅいの足が勝手に止まった。
任務。恋愛、魚供給ルート、未来開拓。
だが、一瞬で焼きアジの香りとイメージが頭の中を駆け巡った。
「……確認だけ。これが新鮮かどうか確認するだけだ」
みゅいは紙を地面にいったん置いた。前足で紙を押さえて、焼きアジの方を見つめていた。
「それ、泥棒猫の言い方だよ。みゅい姉ちゃんは誘惑に負けちゃってるんだ」
チビスケが後ろから小走りにやってきて、指摘した。
「うるさい。これは現場判断だ。焼きアジが腐っていたら、食べると体調を崩して任務ができなくなる。だから確認する必要があるんだ」
みゅいが言い訳をしながら、焼きアジに一口だけかじりついた瞬間、港から強い潮風が吹き込んできた。
地面に置かれていた紙がふわりと舞い上がった。
「あ」
だが、実際に人間に聞こえる言葉は、「みゃっ」だった。
みゅいは焼きアジを吐き出して紙を追いかけたが、紙は魚箱を越え、源さんの足元をすり抜け、ちょうど店先に出てきた杏の足元へポロリと落ちた。
杏は不思議そうに紙を拾い上げ、手のひらに広げて読み始めた。
「なにこれ……大地くんから?」
杏が店の裏を見ると、みゅいを追いかけてきた大地はそこに立ちすくんでいて、顔が茹でダコみたいに真っ赤になっていた。
「ち、違……いや、違わなくて……その……俺は……」
大地は口ごもって言葉が出せない。手を後ろに隠して、足元を見つめていた。
杏は手紙を読み終わって、少しだけ唇を上げて笑った。その笑顔は太陽をまとったように輝いていた。
「ありがとう。あとで、ちゃんと返事するね。今は仕事が忙しいからね」
大地は声にならないような小さな歓声を漏らし、頭を深く下げた。
みゅいは焼きアジを口に含んで飲み込み、胸を張った。尻尾を高く上げて得意げな様子だった。
「ふふんっ計画通り。魚供給ルートは万全になった」
みゅいはつんと鼻を得意げに突き上げた・
「絶対違うと思う。みゅい姉ちゃんはただ焼きアジを食べたかっただけだよ。」
チビスケは小さな前足で頬をついて、呆れたように言った。
その日の夕方、大地は照れた顔のまま、みゅいにいつもの倍の量のアジの切れ端をくれた。恋というものはよくわからない。でも、魚は確実に増えた。それだけはみゅいにとって最も重要な事実だった。
日が沈み、港の路地が青く冷えはじめたころ。
ブチローは、倉庫裏に誰かに呼び出されていた。錆びたドラム缶の匂いと、古い漁網の潮臭さがこもった薄暗い場所で、風が網をなびかせる音だけが響いていた。
そこに、シャケヤンがにこにこ笑いながら段ボールの上に座っていた。黒い毛には白い斑点があり、目は細くなっているが、その奥には冷たい光が宿っていた。
「ブチローはん。今日もよう魚の切れ端を食べてはりましたなぁ。みゅいはんのお陰やろ?」
「……ああ。みゅいが大地からくれたんだ」
「魚、欲しいですやろ? 毎日こんなに美味しい魚を食べ続けたいですやろ?」
シャケヤンの前足の下には、脂の乗った新鮮なアジの切れ端が二つ置かれていた。ブチローは喉を鳴らしながらそれを見つめていた。
「欲しいなら、わしの言うこと、ちゃんと聞いてもらわんと困りますねん」
シャケヤンの声はやさしいように聞こえた。
けれど、ブチローの茶色い尻尾は小さく震えていた。シャケヤンの目が笑っていないことが、わかっていたからだ。
「みゅいはんに余計なこと、言うたらあきまへんで。わしがこの港の猫の会長になったとき、あんさんの居場所がなくなっても知りまへんからなぁ。お前の家族も、この港から追い出されるかもしれまへんで」
シャケヤンはまたにこにこ笑った。
倉庫裏の闇の中で、その細い目だけが、少しも笑っていなかった。冷たい光が闇に映り、ブチローは体を震わせて耳を深く下げた。




