白い姫さまの出馬宣言白い姫さまと笑うシャケヤン
観光客に人気の白猫シラタマは、朝市通りで完璧な可愛さを見せつける。一方、みゅいは自分も可愛いのに納得がいかない。そこへシャケヤンが近づき、みゅいやシラタマに「もっと割のいい暮らしがある」と甘い言葉をかける。人間に可愛がられる仕事、あたたかい部屋、ふかふかの寝床。その誘いは魅力的だが、シラタマとミケコは、彼の言葉の奥に冷たい値踏みの視線を感じ始める。
昼前の朝市通りは、潮風に乗って漂う魚の生臭さよりも先に、カメラを構えた観光客たちのにぎやかな声が道を満たし、ふくよかに膨らんでいた。
「ほら見て、あの真っ白な猫!」
「すごい、毛がふわふわで天使みたい!」
「こっち向いてー、チーズ!あれ、猫ってチーズ好きじゃなかったっけ?」
シャッター音が連続して弾け、港から舞い降りたカモメの尖った鳴き声と混ざり合って朝空に響く。干物工場の在庫が半分盗まれた事件で、魚屋の源さんは朝一から眉間に深いシワを寄せて機嫌が悪かったが、観光客たちにとってそんな港のトラブルなど、まるで他人事であり。氷塊の上で銀色に輝くアジ、魚屋の包丁がまな板に叩きつけられるタンタンという音、潮風に混じった焼きイカの香ばしい匂い。そんな朝市の喧騒を背景に、シラタマは通りの真ん中で完璧なポーズで座り込んでいた。
真っ白な長毛が朝日に透けて細かな金粉をまとったように輝き、青いサファイヤのような目を少しだけ細めて観光客たちを見下ろしている。前足は一本線にきちんとそろえられ、ふわふわの尻尾は体の側面に沿って優雅に巻きつけられていた。まるで自分がこの街一の可愛さを持っていることを自覚し、その魅力を一ミリも無駄にしないよう計算しているかのような、気取った猫だった。
みゅいは魚屋裏に積まれた汚れた木箱の陰から、そんなシラタマの様子を、耳を少し尖らせながら覗き込んでいた。
「……こりゃあ、営業力がすごいな」
隣でブチローが、観光客が落とした魚の骨をぼりぼりとかじりながら、うなずくように答えた。
「見られてるだけで煮干しが手に入るんだから。あいつは本当に強いな」
「納得いかない。あたしだってこんなに可愛いのに」
「みゅいは可愛いけど、顔に『このクソ人間どうしたの』って悪だくみが出てるんだよ」
「出てない!」
そのとき、ピンクのリボンをつけた小学生の女の子が、シラタマの前に小さな紙袋から取り出した煮干しを静かに置いた。シラタマはすぐには食べない。まず、頭を少し下げて礼をするようにまぶたをゆっくり伏せ、それから、ほんの少しだけ柔らかな唇を煮干しにつけて、細かくちぎって食べ始めた。
みゅいなら、煮干しが置かれた瞬間から三秒で丸のみしてしまっただろう。
「お上品って、効率悪くない?」
「でも見て、魚はどんどん増えてるぞ。あいつの前の紙袋はもう半分以上になってる」
「……そこが腹立つんだよな」
みゅいが不機嫌そうに木箱の上にあごを乗せたとき、背後から砂糖を溶かしたような柔らかい声が響いた。
「みゅいはんも、ほんまにええ素材してはりますのになぁ」
振り返ると、茶白の毛がつやつやと輝く丸い体のシャケヤンが、にこにこ笑いながら近づいてきていた。その笑顔は誰にでも優しく見えるように作られていて、声も甘くて心地よい。
「素材?」
「顔も可愛いし、体も身軽いし、人間の気持ちを読む目もある。せやのに、この魚屋裏だけでくすぶってるのは、もったいない話ですわ」
「魚屋裏はくすぶる場所じゃない。源さんの魚を守る重要拠点なんだ」
「もちろんもちろん。けどな、世の中にはもっと割のええ仕事もありますんや」
みゅいは好奇心から耳を少し動かした。
「割のいい仕事?」
「人間に可愛がられる仕事ですわ。あったかいエアコンの効いた部屋、毎日決まった時間に皿に盛られる美味しいごはん、ふかふかの毛布が敷かれた寝床。魚を泥まみれになって追いかけんでも、向こうから手元に皿に乗ってくるんですわ」
ブチローがかじっていた魚の骨をポトリと地面に落とした。
「皿に……乗ってやってくる?」
みゅいも一瞬だけ、そんな光景を想像した。雨に濡れることのない暖かい寝床、寒さを感じない冬の夜、源さんの怒鳴り声もカモメの羽音も聞こえない、静かな場所。
けれど、すぐに鼻をハッと鳴らして否定した。
「魚を追いかけない猫なんて、猫としてどうなの。そんなの飼い猫同然だ」
「そういう強がり、若いうちは可愛いですなぁ」
シャケヤンはさらに大きく笑う。その笑顔に嫌味は一つもないはずなのに、みゅいはなんとなく尻尾を体の側面にしまい込むように寄せた。
その後、シャケヤンはシラタマのところへゆっくりと足を運んだ。
「いやぁ、シラタマはん。今日も人間の心を鷲づかみですなぁ」
「猫ですのに、鷲づかみとは物騒な言葉ですわね」
シラタマは目を細めて優雅に返す。
「せやけど、ほんまのことですわ。あんさんほどの猫なら、この港の猫町内会だけでなく、もっと大きな場所で輝ける。港の魚を取り合うような暮らしだけやなんて、もったいない」
「大きな場所?」
「人間に愛される場所ですわ。港の魚を泥まみれになって取り合うより、ずっと安全で、ずっと上等な暮らしがあるんですわ」
シラタマの青い目が、ほんの少しだけ冷たく凍りついた。
「わたくしは、人間の飾り物になるつもりはありませんわ」
「おお、失礼失礼。そんなつもりやありませんねん」
シャケヤンはすぐに頭を深く下げて謝った。その仕草は丁寧で、どこにも隙がない完璧なものだった。
でも、みゅいは見た。
頭を下げる直前の一瞬、シャケヤンの目がシラタマのつやつやと輝く白い毛並みを、何かの商品を値踏みするように、冷たくスキャンしているのを。
夕方、猫神社の裏の古い塀の上で、みゅいとシラタマは肩を並べて座っていた。港から吹く風は昼間より少し冷たくなり、遠くの桟橋からは大型船の低いエンジン音が轟いている。
「ねぇ、白い姫さま。シャケヤンって、本当にいい猫だと思う?」
シラタマは前足の毛づくろいを止め、青い目をみゅいの方に向けた。
「少なくとも、言葉遣いはお上手ですわ」
「言葉は?」
「ええ。言葉だけは、誰をも惹きつけるような上手さがあるわ」
みゅいは塀の下を見下ろした。石畳の隙間には、昼間の朝市でこぼれた魚の脂が黒く固まって残っていて、小さなアリがその周りをウロウロと動いていた。
「人間に可愛がられる仕事って、具体的に何だろうね。シャケヤンが言うような、飼い猫になること?」
「さあ。でも、あの猫が勧めるものなら、わたくしは絶対に慎重になります」
「意外だね? シラタマなら、ふかふかの寝床とか好きそうなのに」
「好きですわ。でも、自分で選んで手に入れたふかふかの寝床と、誰かに売られて得たふかふかの寝床は、全然別のふかふかです」
みゅいは言い返せなかった。
その言葉が、胸の奥のどこかに妙に引っかかり、なんだか気持ちが重くなった。
少し離れた土蔵の屋根の上で、ミケコがその一部始終を、耳を尖らせて見ていた。港の夕日が赤く沈み、空はオレンジ色に染まる中、シャケヤンの丸い影が路地をゆっくりと横切っていく。
シャケヤンはまだ笑っていた。
魚屋の店員にも、観光客にも、通りを歩く猫たちにも、誰にでも同じような、砂糖菓子のような甘い笑顔を浮かべていた。
けれど、その笑顔が路地の暗がりへと入った瞬間、ほんの一瞬だけ、その笑顔が消えて、冷たい瞳だけが残ったのを、ミケコは見逃さなかった。
ミケコは細く息を吐いて、低く囁いた。
「あの茶白、やっぱりあやしい匂いがするねぇ」
港には魚の生臭さと潮の塩辛い匂いが満ちている。
けれどその奥に、シャケヤンの甘い言葉で包まれた、何か冷たくて不気味な別の匂いが、ほのかに混じっていた。




