高級アジ消失事件
源さんが競り落とした特上アジの干物が、ある朝きれいに消えてしまう。現場には、みゅいを犯人に見せるような足跡、灰色の毛、白い尻尾の毛が残されていた。猫たちの疑いは一気にみゅいへ向かい、一等ひなた使用権まで停止される。だが、ミケコは現場に漂う羽の匂いに気づき、チビスケは夜の防波堤へ向かうシャケヤンの姿を目撃する。
翌朝、潮鳴町の港に、魚屋の源さんの怒鳴り声が雷みたいに落ちた。
「おい、誰だ! 特上アジを全部持ってったやつは!」
干物工場の軒先には、昨日までずらりと並んでいた高級アジの干物が、一枚も残っていなかった。
潮風に揺れているのは、空っぽの竹ざると、ぷつりと切れた干物紐だけ。朝日がまだ低い角度から差し込み、濡れたコンクリートを白く光らせている。海から吹く風には、香ばしいアジの匂いがまだ残っていた。そこにないはずの干物の匂いだけが、まるで犯人の置き手紙みたいに漂っている。
杏が青ざめた顔で軒先を見上げた。
「これ、昨日のせりで源さんが競り落とした、一番いいアジだよね……?」
「ああ。身が厚くて脂も乗ってた。干物にしたら、町外からも客が来るやつだ」
源さんは腕を組み、眉間に深いしわを寄せた。
「ふざけやがって。こいつは、ただの魚泥棒じゃねぇ。俺たちに喧嘩売ってやがる。こんな事しやがるのは、一体どこのどいつだ!」
源さんは、犯人は人間だと思っている。
大地はしゃがみ込み、軒下の土を見つめた。夜露で湿った地面に、小さな足跡が点々と残っている。魚の脂が落ちたのか、ところどころが薄く光っていた。
そのころ、みゅいは魚屋裏の木箱の上で、何食わぬ顔で毛づくろいをしていた。
前足を舐め、耳の後ろをこする。朝の木箱は少し湿っていて、腹にひやりと冷たかった。遠くでは源さんが怒鳴り、カモメがぎゃあぎゃあと騒いでいる。
「……朝からうるさいなぁ」
みゅいは大きくあくびをした。
そこへ、ブチローがどすどすと走ってきた。白黒ぶちの大きな体が木箱にぶつかり、空き箱がかたんと鳴る。
「みゅい、まずいぞ」
「なにが?」
「干物工場のアジが消えた」
「それは知ってる。源さんの声がでかいから」
「現場に、おまえっぽい足跡がある」
みゅいの舌が止まった。
「猫の足跡なんて、だいたい似てるでしょ」
「灰色の毛も落ちてた」
「灰色の猫も探せばいるし」
「白い尻尾の毛もあった」
みゅいは自分の白い尻尾の先を見た。
「……ちょっと、あたしっぽくなってきたね」
「あと、魚の脂の匂いがした」
「それは港の猫なら全員する」
「いや、なんか……みゅいっぽい脂だった」
「それは、こじ付けじゃない?」
言い返しながらも、みゅいの胸の奥に小さな引っかかりが生まれた。自分はたしかに魚を盗む。いや、調達する。だが、高級アジの干物を丸ごと持っていくほど雑ではない。そんな派手なことをすれば、次の日から魚屋裏に近づけなくなる。みゅいは魚泥棒ではあるが、長期的な魚供給ルートを破壊するほど愚かではなかった。
干物工場の裏には、すでに猫たちが集まっていた。
シラタマは白い毛を汚さないよう、乾いた石だけを選んで歩いている。トラキチは腕を組むように前足を広げ、鼻息を荒くしていた。ミケコは軒下の影に座り、細い目で現場を見ている。
「あら、泥んこ姫」
シラタマが涼しい声で言った。
「今朝はずいぶん香ばしい噂をまとっていますこと」
「食べてない」
「まだ何も聞いておりませんわ」
「言い方がもう聞いてるじゃん」
「わたしじゃないもん」
みゅいはむっとして耳を下げた。
そこへ、茶白の丸い猫がゆっくり現れた。シャケヤンだった。毛並みはつやつやで、口元、目元にはいつもの柔らかい笑みが浮かんでいる。
「いやぁ、これは困りましたなぁ」
シャケヤンは、足跡のそばに座って首を傾げた。
「わし、みゅいはんがそんなことする猫やとは思いたくないんですけどなぁ」
「思いたくないなら、黙ってて」
「せやけど、証拠がなぁ。足跡、灰色の毛、白い尻尾の毛、魚の脂。これだけそろうと、みんな不安になりますやろ?」
声はやさしい。まるで、みゅいをかばっているようにも聞こえる。
けれど、みゅいは妙な気持ち悪さを覚えた。
シャケヤンは少しも責めていない。なのに、言葉を重ねるたびに、みゅいの逃げ道が少しずつ細くなっていく。網で囲まれる魚みたいに。
ミケコが地面に鼻を近づけた。
「……変だね」
「何が?」
みゅいが聞くと、ミケコは足跡を見たまま答えた。
「足跡の深さがそろいすぎてる。魚をくわえて走った猫なら、もっと乱れる。特にあんたなら、食い意地で前のめりになる」
「分析が失礼だ!」
「それに、匂いが混ざりすぎてる。猫の脂、魚の脂、それから……」
ミケコは一度、言葉を切った。
「鳥の匂いーー?」
その瞬間、屋根の上でカモメが一羽、ぎゃあと鳴いた。白い羽が朝日に光り、干物工場の影をかすめて飛んでいく。
みゅいは耳を立てた。
だが、猫社会の判断は早かった。
昼前、猫神社で臨時の尻尾会議が開かれた。石段はすでに太陽で温まり、いつもならみゅいが真っ先に腹を伸ばす一等ひなたが、黄金色に輝いていた。
ゴンザは賽銭箱の上に座り、片目でみゅいを見下ろした。そして、一呼吸おいて沙汰を下した。
猫社会には、裁判官も、陪審員もいない。それゆえに猫会長が総合的に、状況を加味して沙汰を下すのだ。
「疑いが晴れるまで、みゅいの一等ひなた使用権を停止する」
境内がざわついた。
「一等ひなたなし!?」
みゅいは叫んだ。
「じゃあ昼寝は?」
「二等石段、または裏の半日陰じゃ」
「それ、ほぼ罰じゃん!」
「罰じゃ」
シラタマは黙っていた。シャケヤンは困ったような顔で、そっとため息をついた。
「早く疑いが晴れるとええですなぁ、みゅいはん」
その声はやさしかった。
やさしすぎて、みゅいの背中の毛が少しだけ逆立った。
その夜、チビスケは寝ぼけて魚屋裏を出た。近くの民家の窓から、テレビの相撲中継の声が漏れていたのだ。
「はっけよい……のこった……」
チビスケは眠い目をこすりながら、小さな前足で相撲の真似をしていた。そのままふらふら路地を曲がったとき、ふと動きを止める。
月明かりの下、防波堤へ向かう猫がいた。
茶白の丸い背中。ゆっくりした歩き方。いつもにこにこしているはずの顔は、夜の影に沈んで見えなかった。
「……シャケヤンさん?」
呼びかけようとしたが、なぜか声が出なかった。
チビスケの足元に、白い羽が一枚落ちていた。夜露に濡れ、月明かりを受けてぼんやり光っている。
翌朝、チビスケから話を聞いたミケコは、しばらく考え込んだ。
「灰色のお嬢ちゃんだけの話じゃなさそうだね」
港では、いつも通り魚の匂いがしていた。
けれどその奥に、誰かが仕込んだ罠の匂いが、静かに混じり始めていた。




