幻の巨大魚と海の交渉
ついにシャケヤンの手下猫たちが船を動かし、砂浜に隠された投網がカモメ組を絡め取る。ギャアスたちは海へ引きずられ、シャケヤンは「用済み」と冷たく笑う。だが、みゅいは見ていられず飛び出し、網を噛んでカモメたちを助けようとする。ブチローも恐怖を超えて加勢する。シャケヤンが驚いた瞬間、防波堤の下からチビスケ、シラタマ、ミケコが現れ、秘密の作戦が発動する。猫だましの一撃で、シャケヤンは海へ落ちる。
防波堤の上で、アジの干物箱がぎしりと音を立てた。
満月の光を浴びた木箱は、まるで生き物みたいに少しずつ海へ押し出されていく。蓋の隙間から漏れる干物の匂いは、夜風に乗って沖へ流れ、黒い海の奥へ細く伸びていた。
みゅいは倉庫の屋根の上で息を殺した。
海が、また盛り上がる。
波ではない。風でもない。黒い水面の下から、何か巨大なものが押し上げている。月明かりが歪み、遠くの水面に黒い背びれのような影が浮かんだ。
「ヌシ……」
チビスケが小さく震えた。
十メートルを超えるシャチ。しかも、一匹ではない。黒い海の下に、いくつもの影がゆっくり動いている。魚たちはその気配から逃げるように、湾の奥へ、浜のほうへ、白い波を立てて走り始めていた。
浜辺では、ギャアス率いるカモメ組が羽をばたつかせていた。
「来たぞ! 魚だ! 若いの、前へ出すぎるな! 年寄りから食わせろ!」
ギャアスの声は荒いが、そこには本気の喜びがあった。仲間を飢えさせずに済む。その安堵が、白い羽の群れ全体に広がっている。
その姿を見て、みゅいの胸がきゅっと痛んだ。
嫌なやつだと思っていた。魚泥棒だと思っていた。けれど、ギャアスは仲間のためにここへ来たのだ。
だが、防波堤の上でシャケヤンは笑っていた。
「ええ眺めですなぁ」
その声は、干物の匂いより甘く、海風より冷たかった。
シャケヤンの背後で、猫やくざの手下たちが動き出す。停泊していた小さな作業船に、二匹、三匹と飛び乗った。ひとりが係留ロープを外し、もうひとりが船の端に結ばれた細い綱をくわえる。
みゅいは目を細めた。
「あれ、投網につながってる……」
ミケコが低く言う。
「始まるよ」
船が、ゆっくり海のほうへ滑り出した。
最初は静かだった。月明かりに照らされた船体が、波に押されるように防波堤から離れていく。ただ、その舳先には細かい投網が結ばれていた。砂浜の下に隠されていた網が、船に引かれて、ずるり、と持ち上がる。
次の瞬間、浜が跳ねた。
砂の下から、投網が一気に広がる。
「ぎゃっ!?」
「なんだ、足が!」
「羽が絡まった!」
カモメ組が一斉に騒ぎ出した。白い羽が月明かりの下でばたばた暴れ、砂が舞う。網はカモメたちの足元を絡め取り、羽に引っかかり、逃げようとするほどさらに絡みついた。
船はそのまま海へ流れ、網を引く。
カモメ組は、じわじわと水際へ引きずられていった。
「ぎゃあぎゃあ!」
「離せ!」
「海に落ちる!」
ギャアスも網に足を取られていた。片足に絡んだ青い漁網が、さらに投網と絡み、動きを封じている。
「シャケヤン! これは何だ! 騙したのか?」
ギャアスが怒鳴った。
防波堤の上で、シャケヤンはにやりと笑った。
「おおきに。あんたらは用済みや」
その声は、いつもの柔らかい関西弁のままだった。だからこそ、ひどく冷たく聞こえた。
「ヌシはんと仲ような」
カモメたちが凍りつく。
その向こうで、黒い海がさらに盛り上がった。ヌシたちの影が、浜へ引きずられる白い羽の群れに近づいている。
「おのれ……!」
ドン・ギャアスの目が、怒りで燃えた。
「シャケヤン! 貴様、最初から俺たちを――!」
「最初から?」
シャケヤンは前足で口元をぬぐうように笑った。
「当たり前やないですか。この港に頭は二匹もいりまへん。猫も、カモメも、魚も、全部わしが仕切るんですわ」
みゅいは屋根の上で、歯を食いしばった。
まだだ。
まだ、作戦の時じゃない。
そう思っていた。
けれど、網に絡まった若いカモメが、海へ半分引きずられた瞬間、みゅいの体は勝手に動いていた。
「空に逃げて! 罠よ!」
みゅいは屋根から飛び出し、砂浜へ駆け下りた。
「みゅい!」
シラタマの声が背後で弾ける。
みゅいは投網に飛びついた。歯で太い網目を噛み、全身の力で引き戻そうとする。潮と砂とカモメの羽の匂いが口いっぱいに広がった。網は濡れて重く、船に引かれてびくともしない。
「くっ……!」
肉球が砂に沈む。爪を立てても、体が少しずつ海のほうへ引っ張られる。
ギャアスが叫んだ。
「小娘、何をしている! おまえまで巻き込まれるぞ!」
「うるさい! 空に逃げてって言ってるでしょ!」
「逃げられるなら逃げている!」
「じゃあ、諦めないで黙って暴れてて!」
「命令するな!」
こんな時まで口が悪い。
だが、ギャアスは羽を大きく広げ、絡まった網の中で仲間を押し上げようとしていた。
みゅいの顎が限界に近づいた。網は重い。カモメが十羽以上絡まっている。船はまだ少しずつ沖へ流れている。
「みゅい!」
大きな影が横へ飛び込んできた。
ブチローだった。
白黒ぶちの大きな体が砂を蹴り、みゅいの隣で網に噛みつく。普段は食べ物以外に本気を出さないブチローが、腹を震わせ、全身で後ろへ引いた。
「ブチ兄!」
「俺だって……たまには役に立ちたいんだよ!」
ブチローの前足が砂にめり込む。頬の傷が月明かりに浮かび、目には涙がにじんでいた。
「もう、見てるだけは嫌なんだよ!」
二匹で引くと、網がわずかに戻った。
カモメたちが必死に羽をばたつかせる。
「今! 上に!」
みゅいが叫ぶ。
ギャアスが若いカモメを押し上げる。何羽かが網の隙間から抜け出し、ふらつきながら夜空へ舞い上がった。
防波堤の上で、シャケヤンの笑顔が消えた。
「……なんや」
彼の目が細くなる。
「なんで、みゅいはんがカモメを助けてますのん?」
声から、甘さが消えていた。
「なんで、ブチローはんまで逆らってますのん?」
ブチローの体が一瞬震える。
だが、網を離さなかった。
シャケヤンの目が、氷みたいに冷たく光った。
「ほんま、使えん猫やな」
その時だった。
防波堤の下、暗い石の隙間から、小さな顔がひょこりと出た。
チビスケだった。
続いて、白い顔。
シラタマ。
さらに、細い目のミケコ。
三匹は、防波堤の下からシャケヤンの背後へ回っていた。
シャケヤンがぎょっとして振り返る。
「な、なんやおまえら。どこから湧いてん?」
チビスケは小さな前足を踏ん張った。
「相撲で見たんだ」
「はぁ?」
シラタマは不本意そうに、けれど覚悟を決めた顔で前に出た。ミケコは口元だけで笑う。
チビスケが、すっと息を吸った。
「せーの!」
その瞬間、三匹の前足が同時に動いた。
ぱんっっっっっっっつ!!!
いや、それはただの前足の音ではなかった。
チビスケの小さな猫だましに合わせて、シラタマが隠していた小さなシンバルを鳴らし、ミケコが鍋のふたを叩いた。さらに、チビスケの足元で風船がぱんっと割れる。
鋭い音が、同時に満月の防波堤に炸裂した。
猫の体は、考えるより先に反応する。
どれほど冷酷でも。
どれほど計算高くても。
どれほど猫やくざでも。
シャケヤンは、猫だった。
「うわっなんやぁっ!?」
茶白の大きな体が、逆立ち大きく上に跳ねた。
その瞬間だけ、時間がゆっくりになった。
シャケヤンの丸い目が見開かれる。にこにこ笑っていた口元が歪む。月明かりを受けたひげが一本一本浮かび、前足が空をかく。後ろ足が防波堤の縁を踏み外す。
みゅいには、その光景がスローモーションのように見えた。
シャケヤンの体が、ふわりと浮く。
白い満月を背に、茶白の影が一瞬だけ空に止まる。
「な……なんでや……」
その声は、波音より小さかった。
次の瞬間。
どぼん。
シャケヤンは海に落ちた。
黒い水面が大きく跳ね、月の光がばらばらに砕ける。防波堤の上の手下猫たちは凍りつき、浜辺のカモメたちも一瞬だけ鳴くのを忘れた。
しかし、海は静かではなかった。
落ちた場所の向こうで、巨大な黒い影が動く。
ヌシだ。
みゅいは網を噛んだまま、目を見開いた。
シャケヤンの罠は崩れ、海の王たちはもう、すぐそこまで来ていた。




