満月の干物大戦争
満月の夜、防波堤には大量のアジ干物箱が並べられる。その匂いは海へ流れ、ヌシを呼び寄せる道となっていた。浜辺では、ギャアス率いるカモメ組が魚を待っている。彼らは飢えた仲間を救うため、シャケヤンを信じていた。しかし、砂の下には投網が隠されている。シャケヤンはギャアスすら裏切るつもりなのだ。みゅいたちは屋根の上からすべてを見つめ、シャケヤンが本性を現す瞬間を待つ。
満月の夜、潮鳴町の港は、銀色に濡れていた。
昼間は漁師たちの声と魚箱の音で騒がしい港も、夜になるとまるで別の生き物になる。黒い海は音もなく息を潜め、防波堤だけが月明かりを受けて白く浮かんでいた。波が、どん、どん、と防波堤にあたり低く腹に響く音を立てるたび、濡れた石畳がかすかに震える。
潮風には、いつもより濃い匂いが混じっていた。
アジの干物。
焼く前なのに、もう香ばしい。潮に干され、旨味をぎゅっと閉じ込めた匂いが、夜の空気にねっとり溶けている。猫なら誰でも、鼻の奥から理性を引っ張られる匂いだった。
倉庫の屋根の上で、みゅいは前足に力を込めた。
「……すごい匂い」
隣のブチローは、涎を垂らして口を半開きにして固まっていた。
「じゅる。。。食べたい」
「今それ言う?」
「本能が言った」
「本能、黙らせて」
ミケコが低く笑った。
「その本能を利用するのが、シャケヤンのやり方さ」
防波堤の上では、シャケヤンの手下猫たちが、大きな木箱をいくつも運んでいた。箱は一つではない。二つ、三つ、さらに奥にも積まれている。どれも蓋の隙間から、濃いアジ干物の匂いを漏らしていた。
木箱が防波堤の上を引きずられるたび、ぎぎ、と湿った音が夜に響く。
その中央に、シャケヤンが座っていた。
茶白の丸い体。つやつやした毛並み。いつものにこにこ顔。けれど月明かりを浴びたその笑顔は、昼間よりずっと白く、冷たく見えた。
「丁寧に置きなはれ。ヌシ様は鼻がええ。匂いの道をまっすぐ海へ流すんや」
手下猫たちは黙って木箱を並べる。誰も逆らわない。防波堤の先へ、浜辺へ、そして海へ、匂いの線が伸びるように配置されていく。
シラタマが、屋根の影から目を細めた。
「あれだけの量、普通の猫が集められるものではありませんわ」
「人間から盗んだ魚と、カモメ組から流れてきた魚と、黒崎の金」
みゅいは小さく言った。
「ぜんぶ混ざってる匂いがする」
黒崎が渡した封筒。猫カフェへ猫を流す話。シャケヤンの笑顔。ブチローの傷。全部が、今この防波堤の上に積まれている気がした。
浜辺のほうでは、ギャアスとカモメ組が集まっていた。
白い羽が月明かりを反射し、砂浜の上でちらちら光る。ギャアスは胸を張り、仲間たちを見渡していた。片足に絡んだ青い漁網が、夜風に揺れている。
「聞け! 今夜、魚が浜へ押し寄せる。若いのも、年寄りも、腹いっぱい食えるぞ!」
カモメたちは、ぎゃあぎゃあと嬉しそうに鳴いた。
みゅいは、その声に少しだけ胸が重くなった。
ギャアスは嫌なやつだ。魚を奪うし、態度もでかい。カモメ組を率いて朝市を荒らしたこともある。
でも、あの声には嘘がなかった。
仲間を食わせたい。腹を空かせた若いカモメを助けたい。そういう本気の焦りが、荒っぽい鳴き声の奥にあった。
だからこそ、だまされている。
シャケヤンは、それすら利用している。
やがて、シャケヤンが防波堤から浜へ降りていった。砂を踏む足音は柔らかい。顔は相変わらずにこにこしている。
「ギャアスはん、準備はよろしいか?」
「当然だ。魚が来たら、空の者が先に取る」
「ええ、ええ。約束通り、打ち上がった魚はきっちり分けまひょ」
「信用しているぞ、シャケヤン、一応だがな。」
「ありがたいことですわ」
シャケヤンは深く頭を下げた。
その姿だけ見れば、協力者に見えた。仲間のためにシャケヤンと交渉し魚を待つギャアスと、猫社会のために動くシャケヤン。何も知らない者が見れば、美しい同盟に見えたかもしれない。
けれど、ミケコの目は砂浜の一角を見ていた。
「あそこ」
ミケコが小さく言う。
みゅいは目を凝らした。
月明かりの下、砂の表面がわずかに不自然だった。波打ち際から少し離れた場所に、細い筋が走っている。流木でも、貝殻でもない。砂が、そこだけ薄く盛り上がっている。
網だ。
砂の下に、投網が隠されている。
みゅいの背中の毛が逆立った。
「ギャアスたちの足元……」
「そうさ」
ミケコの声は冷たい。
「あの位置なら、船が動いた瞬間、網が一気に持ち上がる。カモメ組はまとめて絡め取られる」
ブチローが震えた。
「シャケヤン、ほんとに裏切る気なのか」
「最初からそのつもりですわ」
シラタマの声も硬かった。
「魚を二分する気などありません。猫も、カモメも、人間も、すべて自分の道具だと思っていますのね」
防波堤の先では、シャケヤンの手下が最後の干物箱を置いていた。その箱だけ、ほかより大きい。蓋の隙間から漂う匂いも、ひときわ濃い。
みゅいの鼻が、勝手にひくついた。
食べたい。
いや、違う。
危ない。
その二つが、頭の中で喧嘩する。
チビスケは屋根の影で小さく震えていた。だが、その目は逃げていない。前足には、昨日こっそり皆に伝えた“いい考え”のための小道具を隠している。
「みゅい姉ちゃん」
「なに?」
「まだ?」
「まだ」
みゅいは短く答えた。
作戦の中身は、誰も大きな声では言わない。シャケヤンに聞かれるわけにはいかないからだ。
けれど、全員がわかっていた。
今はまだ動けない。
シャケヤンが本性を出す瞬間。
ギャアスを裏切る瞬間。
笑顔の下から、本当の爪が見える瞬間。
そこまで待つしかない。
待つのは、走るより難しかった。
ブチローが小さく息を吐いた。
「俺、怖い」
「知ってる」
みゅいは海を見たまま答えた。
「でも、ここにいる」
「……ああ」
ブチローの声は震えていた。けれど、前のように逃げる気配はなかった。大きな体を屋根に伏せ、チビスケの前に少しだけ出ている。何かあれば、自分が先に受けるつもりなのだ。
シラタマは白い毛を風に揺らしながら、静かに言った。
「泥んこ姫」
「なに、白い姫さま」
「あなた、さっきから海を見すぎですわ」
みゅいは、はっとした。
いつの間にか、視線が沖へ吸い寄せられていた。黒い海の奥。月の道の向こう。何も見えないはずなのに、何か巨大なものがこちらを見返しているような気がする。
タコ八の言葉が蘇る。
海の奥を見すぎるな。
足元を見よ。仲間を見よ。戻る場所を見よ。
みゅいは視線を屋根の上へ戻した。
ミケコがいる。シラタマがいる。ブチローがいる。チビスケがいる。遠くの神社にはゴンザがいる。魚屋裏には、みゅいの木箱がある。源さんの怒鳴り声がある。一等ひなたがある。
戻る場所は、ちゃんとある。
「ありがと」
みゅいが言うと、シラタマはすました顔で尻尾を巻いた。
「別に。あなたが海に見とれて防波堤から落ちたら、後味が悪いだけですわ」
「素直じゃないね」
「お互い様です」
そのころ、浜辺ではシャケヤンがゆっくり歩き回っていた。
ギャアスたちの配置を確認し、砂の盛り上がりをちらりと見る。その目が、一瞬だけ冷たく光った。
ギャアスは気づいていない。
若いカモメたちは、これから魚が来ると信じ、羽を膨らませて待っている。中には嬉しそうに砂浜を跳ねているものまでいた。
「なあ、シャケヤン」
ギャアスが言った。
「本当に、魚は来るんだろうな」
「来ますとも」
シャケヤンは笑う。
「ヌシ様が動けば、魚は逃げる。逃げる魚は浜へ寄る。浜へ寄った魚は、あんたらとわしらで分ける。単純な話ですわ」
「うちの若いのは、三日まともに食ってない」
「今夜で変わります」
シャケヤンの声はやさしかった。
「腹いっぱい食べさせてやりまひょ」
ギャアスの鋭い目が、ほんの少しだけ和らいだ。
それを見たみゅいは、歯を食いしばった。
「ひどい」
チビスケが小さく呟いた。
「ギャアス、悪いやつだと思ってたけど……うれしそう」
「悪いやつでも、守りたいものがあるんだよ」
ミケコが言った。
「だから、そこを利用するやつが一番たちが悪い」
風が変わった。
海から吹く潮風が、一瞬だけ重くなる。アジの干物の匂いが沖へ流れ、防波堤の先で渦を巻くように広がった。
シャケヤンが、防波堤の上に戻る。
大きな干物箱の前に立ち、手下猫たちへ合図した。
「押しなはれ」
木箱が、ぎし、と音を立てた。
防波堤の縁へ、少しずつ近づいていく。
その瞬間。
海が、低く唸った。
みゅいは息を止めた。
沖の水面が、山のように少しだけ盛り上がる。月明かりが、黒い海の上で歪んだ。波ではない。風でもない。
何かが、下から海を押し上げている。
ブチローが喉を鳴らした。
「来た……のか?」
シラタマの白い毛が、ふわりと逆立った。
「ヌシ……」
チビスケがみゅいの横にぴたりと寄った。
「みゅい姉ちゃん」
「大丈夫」
本当は、全然大丈夫ではなかった。
海の向こうで動いているのは、十メートルを超えるシャチ。しかも一匹ではない。そんなものを相手に、猫の小さな肉球で何ができるのか。
でも、ここで逃げたら、シャケヤンの思い通りになる。
魚も。猫も。カモメも。チビスケも。
全部、あの笑顔の下に飲み込まれる。
みゅいは尻尾を低く構えた。
「まだ動かない」
ミケコがうなずく。
「まだだね」
シャケヤンは、防波堤の上で満月を見上げた。
「さあ、ヌシ様。ええ匂いでっしゃろ」
木箱が、さらに縁へ押し出される。
浜辺では、ギャアスたちが魚を待って羽を震わせている。砂の下では、投網が静かに息を潜めている。沖では、巨大な海の影が近づいている。
潮鳴町の港全体が、息を止めた。
魚の匂い。
裏切りの匂い。
そして、巨大な海の気配。
満月の下、すべてがひとつの場所へ集まっていく。
みゅいは、チビスケの小さな前足をちらりと見た。
作戦の時は、近い。
でも、まだ。
まだ、シャケヤンの笑顔は剥がれていない。




