表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
18/20

満月の干物大戦争

満月の夜、防波堤には大量のアジ干物箱が並べられる。その匂いは海へ流れ、ヌシを呼び寄せる道となっていた。浜辺では、ギャアス率いるカモメ組が魚を待っている。彼らは飢えた仲間を救うため、シャケヤンを信じていた。しかし、砂の下には投網が隠されている。シャケヤンはギャアスすら裏切るつもりなのだ。みゅいたちは屋根の上からすべてを見つめ、シャケヤンが本性を現す瞬間を待つ。

満月の夜、潮鳴町の港は、銀色に濡れていた。


 昼間は漁師たちの声と魚箱の音で騒がしい港も、夜になるとまるで別の生き物になる。黒い海は音もなく息を潜め、防波堤だけが月明かりを受けて白く浮かんでいた。波が、どん、どん、と防波堤にあたり低く腹に響く音を立てるたび、濡れた石畳がかすかに震える。


 潮風には、いつもより濃い匂いが混じっていた。


 アジの干物。


 焼く前なのに、もう香ばしい。潮に干され、旨味をぎゅっと閉じ込めた匂いが、夜の空気にねっとり溶けている。猫なら誰でも、鼻の奥から理性を引っ張られる匂いだった。


 倉庫の屋根の上で、みゅいは前足に力を込めた。


「……すごい匂い」


 隣のブチローは、涎を垂らして口を半開きにして固まっていた。


「じゅる。。。食べたい」


「今それ言う?」


「本能が言った」


「本能、黙らせて」


 ミケコが低く笑った。


「その本能を利用するのが、シャケヤンのやり方さ」


 防波堤の上では、シャケヤンの手下猫たちが、大きな木箱をいくつも運んでいた。箱は一つではない。二つ、三つ、さらに奥にも積まれている。どれも蓋の隙間から、濃いアジ干物の匂いを漏らしていた。


 木箱が防波堤の上を引きずられるたび、ぎぎ、と湿った音が夜に響く。


 その中央に、シャケヤンが座っていた。


 茶白の丸い体。つやつやした毛並み。いつものにこにこ顔。けれど月明かりを浴びたその笑顔は、昼間よりずっと白く、冷たく見えた。


「丁寧に置きなはれ。ヌシ様は鼻がええ。匂いの道をまっすぐ海へ流すんや」


 手下猫たちは黙って木箱を並べる。誰も逆らわない。防波堤の先へ、浜辺へ、そして海へ、匂いの線が伸びるように配置されていく。


 シラタマが、屋根の影から目を細めた。


「あれだけの量、普通の猫が集められるものではありませんわ」


「人間から盗んだ魚と、カモメ組から流れてきた魚と、黒崎の金」


 みゅいは小さく言った。


「ぜんぶ混ざってる匂いがする」


 黒崎が渡した封筒。猫カフェへ猫を流す話。シャケヤンの笑顔。ブチローの傷。全部が、今この防波堤の上に積まれている気がした。


 浜辺のほうでは、ギャアスとカモメ組が集まっていた。


 白い羽が月明かりを反射し、砂浜の上でちらちら光る。ギャアスは胸を張り、仲間たちを見渡していた。片足に絡んだ青い漁網が、夜風に揺れている。


「聞け! 今夜、魚が浜へ押し寄せる。若いのも、年寄りも、腹いっぱい食えるぞ!」


 カモメたちは、ぎゃあぎゃあと嬉しそうに鳴いた。


 みゅいは、その声に少しだけ胸が重くなった。


 ギャアスは嫌なやつだ。魚を奪うし、態度もでかい。カモメ組を率いて朝市を荒らしたこともある。


 でも、あの声には嘘がなかった。


 仲間を食わせたい。腹を空かせた若いカモメを助けたい。そういう本気の焦りが、荒っぽい鳴き声の奥にあった。


 だからこそ、だまされている。


 シャケヤンは、それすら利用している。


 やがて、シャケヤンが防波堤から浜へ降りていった。砂を踏む足音は柔らかい。顔は相変わらずにこにこしている。


「ギャアスはん、準備はよろしいか?」


「当然だ。魚が来たら、空の者が先に取る」


「ええ、ええ。約束通り、打ち上がった魚はきっちり分けまひょ」


「信用しているぞ、シャケヤン、一応だがな。」


「ありがたいことですわ」


 シャケヤンは深く頭を下げた。


 その姿だけ見れば、協力者に見えた。仲間のためにシャケヤンと交渉し魚を待つギャアスと、猫社会のために動くシャケヤン。何も知らない者が見れば、美しい同盟に見えたかもしれない。


 けれど、ミケコの目は砂浜の一角を見ていた。


「あそこ」


 ミケコが小さく言う。


 みゅいは目を凝らした。


 月明かりの下、砂の表面がわずかに不自然だった。波打ち際から少し離れた場所に、細い筋が走っている。流木でも、貝殻でもない。砂が、そこだけ薄く盛り上がっている。


 網だ。


 砂の下に、投網が隠されている。


 みゅいの背中の毛が逆立った。


「ギャアスたちの足元……」


「そうさ」


 ミケコの声は冷たい。


「あの位置なら、船が動いた瞬間、網が一気に持ち上がる。カモメ組はまとめて絡め取られる」


 ブチローが震えた。


「シャケヤン、ほんとに裏切る気なのか」


「最初からそのつもりですわ」


 シラタマの声も硬かった。


「魚を二分する気などありません。猫も、カモメも、人間も、すべて自分の道具だと思っていますのね」


 防波堤の先では、シャケヤンの手下が最後の干物箱を置いていた。その箱だけ、ほかより大きい。蓋の隙間から漂う匂いも、ひときわ濃い。


 みゅいの鼻が、勝手にひくついた。


 食べたい。


 いや、違う。


 危ない。


 その二つが、頭の中で喧嘩する。


 チビスケは屋根の影で小さく震えていた。だが、その目は逃げていない。前足には、昨日こっそり皆に伝えた“いい考え”のための小道具を隠している。


「みゅい姉ちゃん」


「なに?」


「まだ?」


「まだ」


 みゅいは短く答えた。


 作戦の中身は、誰も大きな声では言わない。シャケヤンに聞かれるわけにはいかないからだ。


 けれど、全員がわかっていた。


 今はまだ動けない。


 シャケヤンが本性を出す瞬間。

 ギャアスを裏切る瞬間。

 笑顔の下から、本当の爪が見える瞬間。


 そこまで待つしかない。


 待つのは、走るより難しかった。


 ブチローが小さく息を吐いた。


「俺、怖い」


「知ってる」


 みゅいは海を見たまま答えた。


「でも、ここにいる」


「……ああ」


 ブチローの声は震えていた。けれど、前のように逃げる気配はなかった。大きな体を屋根に伏せ、チビスケの前に少しだけ出ている。何かあれば、自分が先に受けるつもりなのだ。


 シラタマは白い毛を風に揺らしながら、静かに言った。


「泥んこ姫」


「なに、白い姫さま」


「あなた、さっきから海を見すぎですわ」


 みゅいは、はっとした。


 いつの間にか、視線が沖へ吸い寄せられていた。黒い海の奥。月の道の向こう。何も見えないはずなのに、何か巨大なものがこちらを見返しているような気がする。


 タコ八の言葉が蘇る。


 海の奥を見すぎるな。

 足元を見よ。仲間を見よ。戻る場所を見よ。


 みゅいは視線を屋根の上へ戻した。


 ミケコがいる。シラタマがいる。ブチローがいる。チビスケがいる。遠くの神社にはゴンザがいる。魚屋裏には、みゅいの木箱がある。源さんの怒鳴り声がある。一等ひなたがある。


 戻る場所は、ちゃんとある。


「ありがと」


 みゅいが言うと、シラタマはすました顔で尻尾を巻いた。


「別に。あなたが海に見とれて防波堤から落ちたら、後味が悪いだけですわ」


「素直じゃないね」


「お互い様です」


 そのころ、浜辺ではシャケヤンがゆっくり歩き回っていた。


 ギャアスたちの配置を確認し、砂の盛り上がりをちらりと見る。その目が、一瞬だけ冷たく光った。


 ギャアスは気づいていない。


 若いカモメたちは、これから魚が来ると信じ、羽を膨らませて待っている。中には嬉しそうに砂浜を跳ねているものまでいた。


「なあ、シャケヤン」


 ギャアスが言った。


「本当に、魚は来るんだろうな」


「来ますとも」


 シャケヤンは笑う。


「ヌシ様が動けば、魚は逃げる。逃げる魚は浜へ寄る。浜へ寄った魚は、あんたらとわしらで分ける。単純な話ですわ」


「うちの若いのは、三日まともに食ってない」


「今夜で変わります」


 シャケヤンの声はやさしかった。


「腹いっぱい食べさせてやりまひょ」


 ギャアスの鋭い目が、ほんの少しだけ和らいだ。


 それを見たみゅいは、歯を食いしばった。


「ひどい」


 チビスケが小さく呟いた。


「ギャアス、悪いやつだと思ってたけど……うれしそう」


「悪いやつでも、守りたいものがあるんだよ」


 ミケコが言った。


「だから、そこを利用するやつが一番たちが悪い」


 風が変わった。


 海から吹く潮風が、一瞬だけ重くなる。アジの干物の匂いが沖へ流れ、防波堤の先で渦を巻くように広がった。


 シャケヤンが、防波堤の上に戻る。


 大きな干物箱の前に立ち、手下猫たちへ合図した。


「押しなはれ」


 木箱が、ぎし、と音を立てた。


 防波堤の縁へ、少しずつ近づいていく。


 その瞬間。


 海が、低く唸った。


 みゅいは息を止めた。


 沖の水面が、山のように少しだけ盛り上がる。月明かりが、黒い海の上で歪んだ。波ではない。風でもない。


 何かが、下から海を押し上げている。


 ブチローが喉を鳴らした。


「来た……のか?」


 シラタマの白い毛が、ふわりと逆立った。


「ヌシ……」


 チビスケがみゅいの横にぴたりと寄った。


「みゅい姉ちゃん」


「大丈夫」


 本当は、全然大丈夫ではなかった。


 海の向こうで動いているのは、十メートルを超えるシャチ。しかも一匹ではない。そんなものを相手に、猫の小さな肉球で何ができるのか。


 でも、ここで逃げたら、シャケヤンの思い通りになる。


 魚も。猫も。カモメも。チビスケも。


 全部、あの笑顔の下に飲み込まれる。


 みゅいは尻尾を低く構えた。


「まだ動かない」


 ミケコがうなずく。


「まだだね」


 シャケヤンは、防波堤の上で満月を見上げた。


「さあ、ヌシ様。ええ匂いでっしゃろ」


 木箱が、さらに縁へ押し出される。


 浜辺では、ギャアスたちが魚を待って羽を震わせている。砂の下では、投網が静かに息を潜めている。沖では、巨大な海の影が近づいている。


 潮鳴町の港全体が、息を止めた。


 魚の匂い。

 裏切りの匂い。

 そして、巨大な海の気配。


 満月の下、すべてがひとつの場所へ集まっていく。


 みゅいは、チビスケの小さな前足をちらりと見た。


 作戦の時は、近い。


 でも、まだ。


 まだ、シャケヤンの笑顔は剥がれていない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ