ぷにぷに肉球包囲網
満月前夜、猫神社の奥で秘密作戦会議が開かれる。正面からシャケヤンに挑めば勝ち目はない。だが、彼が本性を出す瞬間を猫たち全員に見せれば、笑顔の仮面を剥がせる。そんな中、チビスケが相撲から得た「いい考え」をみんなに耳打ちする。作戦の詳細は声に出せない。だが、みゅい、ミケコ、シラタマ、ブチローはそれぞれ動き始める。小さな肉球たちの反撃準備が、静かに始まった。
猫神社の奥には、人間がほとんど来ない小さな祠がある。
昼間は木漏れ日が落ち、老猫がひっそり昼寝をするだけの場所だ。けれどその夜は、潮風が木々の葉をざわざわ揺らし、古い鈴が、ちりん、と弱々しく鳴っていた。
港からは、いつもの魚の匂いが流れてくる。
けれど今夜の匂いは、ただの魚ではなかった。
干物だ。
アジの干物。
香ばしく、濃く、甘く、猫の頭をくらくらさせる匂い。その匂いが、夜風に乗って神社の奥まで届いていた。
みゅいは祠の前に座り、白い尻尾の先を小さく揺らした。
集まっているのは、ミケコ、シラタマ、ゴンザ、チビスケ、ブチロー。
みんなの顔が、いつもより少し硬い。
無理もなかった。
相手は、ただの猫ではない。
にこにこ笑いながら魚を配り、裏ではギャアスと密約を結び、黒崎から金を受け取り、邪魔な猫を港から消そうとしている猫。
シャケヤン。
しかも、あの猫の後ろには荒くれ猫たちがいる。ブチローの話では、呼べば五十匹は集まるという。
正面からぶつかれば勝ち目はない。
ゴンザが低く言った。
「満月まで、あと一晩じゃ」
その声に、境内の空気がさらに重くなった。
ミケコが前足で地面に線を引く。線の先に小石を置き、貝殻を並べる。いつもの猫会議なら、どこかふざけた空気になるのに、今夜だけは誰も笑わなかった。
「ここが防波堤。こっちが浜。シャケヤンは、このあたりにアジの干物箱を置くはずだよ」
ミケコは小石を前足で押した。
「ヌシを呼ぶためにね」
チビスケが小さく震えた。
「ヌシって、ほんとにシャチなの?」
「タコ八が言うにはね」
みゅいは答えた。
「十メートルを超えるシャチ。しかも一匹じゃない」
「十メートル……」
チビスケは目を丸くした。
「源さん何人分?」
「だから、源さんで測らないで」
シラタマが呆れた声を出す。
けれど、誰も本気で笑えなかった。
十メートルを超えるシャチ。
満月の大潮。
アジの干物の匂い。
ヌシが湾へ近づけば、魚たちは逃げ場を失い、浜へ押し寄せる。シャケヤンはそれを利用し、「自分が魚を集めた」と猫たちに見せるつもりだ。
さらに、ギャアスには分け前を約束している。
「問題は、証拠ですわ」
シラタマが静かに言った。
「シャケヤンが危険な猫だと、わたくしたちは知っています。でも、他の猫たちはまだ信じていますわ。魚を持ってきてくれる、親切な猫だと」
「だから、全部見せる」
みゅいは言った。
「あいつが何をするつもりなのか。誰を利用して、誰を裏切るのか。猫たちにも、ギャアスにも、見せる」
「簡単に言うねぇ」
ミケコがひげを揺らした。
「見せる前に見つかったら、こっちが海へ落とされるよ」
ブチローが、びくっと肩を震わせた。
その反応を見て、みゅいは胸の奥が少し痛くなった。
ブチローの頬には、まだ傷が残っている。前足の毛も抜けていた。何度も「転んだ」と言っていたけれど、もう誰もそれを信じていない。
シャケヤンがやった。
笑いながら。
魚を与えながら。
逆らえば居場所をなくすと脅しながら。
「ブチ兄」
みゅいが声をかけると、ブチローは慌てて顔を上げた。
「な、なんだ」
「怖い?」
ブチローはすぐには答えなかった。
境内の奥で、風が木の葉を揺らす。遠くから、カモメの鳴き声が一つだけ聞こえた。
「……そりゃ、怖い」
やっと、ブチローは言った。
「怖いに決まってるだろ。俺は強くねぇし、走るのも遅ぇし、腹はでかいし。あいつに逆らったら、また……」
言葉が途切れる。
チビスケが、そっとブチローの隣に寄った。
「ブチ兄ちゃん、ぼくも怖いよ」
「おまえも怖いよな。。。子猫なんだから」
「でも、みゅい姉ちゃんが帰ってきたから、ちょっとだけ平気」
みゅいは照れくさくなって、顔をそらした。
「別に、あたしは魚臭い港が性に合ってるだけ」
「それがいいんだよ」
チビスケはまっすぐ言った。
その声が、小さな祠の前にぽんと落ちた。
ゴンザが、低く喉を鳴らす。
「逃げぬ猫が一匹いると、弱い猫は一歩だけ前に出られる」
「じじい、たまにいいこと言うね」
「たまにとは何じゃ」
ほんの少しだけ、空気がゆるんだ。
けれど、すぐにミケコが話を戻した。
「正面からは無理だよ。シャケヤンは力もある。後ろには荒くれ猫もいる。しかも、防波堤にはヌシが来る。海に落ちたら終わりだ」
「じゃあ、近づかないで証拠だけ取る?」
みゅいが言うと、シラタマが首を振った。
「それでは足りませんわ。シャケヤンは言い逃れます。『誤解ですわ』『皆のためですわ』と笑って終わりです」
「やりそう」
「ですから、あの猫が自分の爪を出す瞬間が必要ですわ」
みゅいは黙った。
シャケヤンが爪を出す瞬間。
笑顔を捨てる瞬間。
でも、その瞬間は、たぶん危険のど真ん中だ。
しばらく誰も話さなかった。
すると、チビスケが急に前足を上げた。
「あのさ」
全員が見る。
「ぼく、いい考えがある」
みゅいは瞬きした。
「チビが?」
「うん」
「空き缶に負けて転んでたチビが?」
「あれは缶が強かったの!」
チビスケはむっとしたが、すぐに真剣な顔になった。
「でも、ほんとにあるんだ。みんな、少しだけ耳を貸して?」
みゅいは少し迷ってから、耳を立て、顔を近づけた。
チビスケは、まずみゅいの耳元で何かを囁いた。
みゅいの目が、丸くなった。
「……それ、ほんとに効くの?」
チビスケは自信たっぷりにうなずく。
「絶対大丈夫!自分より体の大きい強い奴を倒す技だから!」
次に、チビスケはミケコへ囁いた。ミケコは最初、疑わしそうな顔をしたが、途中でひげをぴくりと動かした。
「なるほどねぇ。子猫の遊びにしちゃ、悪くない」
シラタマは耳元で聞いたあと、しばらく沈黙した。
「……上品ではありませんわ」
「だめ?」
「いいえ。だからこそ、効くかもしれません」
ブチローは聞いた瞬間、口を半開きにした。
「おまえ、そんなこと考えてたのか」
「へへへ」
最後にゴンザが聞いた。
老猫はしばらく何も言わなかった。
やがて、片目を細めて笑った。
「よかろう。真正面から勝てぬなら、猫らしく勝つまでじゃ」
作戦の細かい内容は、誰も声に出さなかった。
ただ、そのあと皆の動きが変わった。
みゅいとチビスケは、商店街裏へ向かった。古いおもちゃ、人間の子どもが落とした小物。チビスケが必要だと言ったものを、みゅいは半信半疑で探した。
ミケコは定食屋の裏口へ消えた。魚の煮汁の匂いが染みついた古道具の中から、何か使えるものを探しているらしい。
シラタマは観光客が置き忘れた赤い風船を、汚れないように前足で押して運んできた。
「わたくしがこんなものを運ぶ日が来るとは」
「似合ってるよ、白い姫さま」
「褒めていませんわね」
ブチローは、最初こそおどおどしていたが、やがて重そうなものを運ぶ役を引き受けた。
「俺、これくらいならできる」
「それ、助かる」
みゅいが言うと、ブチローは少しだけ目を伏せた。
「……今度は、逃げねぇ」
その声は、まだ震えていた。
でも、確かに前を向いていた。
夜がさらに深くなったころ、みゅいたちは防波堤を見下ろす倉庫の屋根に並んだ。
海は黒く、満月前の月が水面に細い光の道を作っている。防波堤の上では、シャケヤンの手下猫たちが重そうな木箱を運んでいた。
風に乗って、強烈な匂いが届く。
アジの干物。
濃く、甘く、猫の本能を揺さぶる匂い。
チビスケが鼻を押さえた。
「おいしそう……じゃなくて、危ない匂い」
ミケコが低く言った。
「間違いない。あれでヌシを呼ぶ気だね」
シラタマの青い目が、月明かりの中で冷たく光る。
「そしてギャアスも、明日は浜へ来ますわ」
「シャケヤンは全部うまくいくと思ってる。そこに隙ができる。」
みゅいは防波堤の上の茶白い影を見つめた。
シャケヤンは、いつものように笑っていた。
魚も、猫も、カモメも、黒崎も、全部自分の思い通りになると思っている顔だった。
みゅいは、チビスケの囁いた作戦を思い出す。
うまくいくかはわからない。
でも、猫らしい。
とても、猫らしい。
「作戦名は?」
チビスケが小声で聞いた。
みゅいは少し考え、尻尾を立てた。
「ぷにぷに肉球包囲網」
シラタマが深いため息をついた。
「名前も最後までふざけていますのね」
「猫だからね」
みゅいは小さく笑った。
その笑いは、震えていなかった。
満月の夜まで、あと少し。
潮鳴町の港は、魚の匂いと、陰謀と、子猫の小さな思いつきを抱えたまま、静かに夜を深くしていった。




