タコ八のぬるぬる預言
みゅい、ミケコ、ブチローは漁協の生け簀にいるタコ八を訪ねる。海の噂を知るタコ八は、ヌシの正体が十メートルを超えるシャチであり、しかも一匹ではないと告げる。満月の大潮の夜、アジの干物の匂いでヌシをおびき寄せれば、小魚は湾へ追い込まれ、浜に打ち上がる。シャケヤンの計画の全体像が見え始める中、ブチローは恐怖を吐露し、みゅいは港を守るため、証拠をつかむ決意を固める。
漁協の生け簀は、港の中でも特に匂いが濃い場所だった。
魚の匂い、と一言で片づけるには複雑すぎる。海水の塩気。網に染みついた古い潮。イカのぬめり。カツオの血の鉄っぽさ。氷の冷たさ。そこに、朝から働き続けた人間たちの長靴のゴム臭まで混ざっている。
みゅいは濡れた床に前足を置いた瞬間、顔をしかめた。
「うわ。ここ、肉球にくる」
床は薄く海水で濡れていて、一歩進むたびに、ぴちゃ、と嫌な音がした。魚屋裏の木箱のざらつきとも、猫カフェのふかふかした床とも違う。足元からぬるりとした冷たさが這い上がってくる。
ブチローは、そんなことはまったく気にしていない顔で、生け簀の中をのぞき込んでいた。
「魚が近い場所は、だいたい正しい場所だ」
「ブチ兄の正しさ、いつも胃袋にしかつながってないよね」
「胃袋は命の中心だぞ」
「たまに名言っぽいこと言うのやめて」
ミケコは、少し離れた木枠の上に座っていた。濡れた床には決して座らない。尻尾をきれいに前足へ巻きつけ、細い目で生け簀の水面を見ている。
「無駄口はそこまでにしな。ここへ来たのは、魚を食べに来たんじゃない」
「わかってる」
みゅいは小さく鼻を鳴らした。
昨夜、黒崎とシャケヤンが裏で会っていた。黒崎は封筒を渡し、シャケヤンはそれを受け取った。猫カフェへの紹介料。港から猫を消す話。みゅいを追い出す段取り。
その会話を思い出すだけで、みゅいの背中の毛が逆立った。
ぬくぬくの毛布。毎日のごはん。あたたかい部屋。
それは、猫にとって確かに魅力的だった。けれど、誰かに売られ、誰かの都合で閉じ込められ、可愛さに値段をつけられる場所だと知ってしまえば、もう同じ匂いには戻らない。
「タコ八って、本当に知ってるの?」
みゅいが聞くと、ミケコはひげを少し動かした。
「海の噂なら、あいつ以上に知ってる者はいないよ。生け簀にいるくせに、港の底を全部見ているみたいなやつだからね」
「でも、話が長い」
「そこは我慢しな。機嫌を損ねないように。」
そのとき、生け簀の水面が、ぬるりと盛り上がった。
最初は、黒い影が水の下で揺れただけだった。次に、八本の足がゆっくり広がり、吸盤が木枠にぴたりと張りつく。水が重たく持ち上がり、大きなタコが顔を出した。
タコ八だった。
丸い目が、みゅい、ブチロー、ミケコを順番に見た。
「足が八本あると、逃げ道も八つある。だが、逃げ道が多い者ほど、迷うものだ」
「どういう意味?」
みゅいは耳を伏せた。
「出た。ぬるぬる先生」
ミケコが言った。
「白尻尾の子よ。今日は心が荒れているな。魚を盗み損ねた目ではない。もっと大きなものを見た目だ」
「黒崎とシャケヤンが金のやり取りをしてた」
みゅいは単刀直入に言った。
「猫を港から消す話もしてた。あいつ、魚だけじゃなくて猫まで商売にしてる」
タコ八は、水の中でゆっくり足を畳んだ。
「やはり、潮が濁ってきたか」
「潮?」
「魚の潮ではない。欲の潮だ。欲は海水よりしつこい。乾いても跡が残る」
「そういうのいいから、ヌシの話をして」
みゅいが急かすと、ブチローが小さくうなずいた。
「そうだ。ヌシって魚なのか? 食えるのか?」
ミケコが冷たい目を向ける。
「たぶん、あんたが食われる側だよ」
ブチローの尻尾が、ぴたりと止まった。
タコ八は水面を一本の足で叩いた。ちゃぷ、と音がして、小さな波紋が八方向へ広がる。
「単刀直入に言う。ヌシとは、魚ではない」
みゅいの耳が立った。
「魚じゃない?」
「哺乳類ーーー。シャチだ」
その言葉が、生け簀の水音を一瞬止めたように思えた。
ブチローの口から、くわえていた小さな魚の骨がぽろりと落ちる。
「シャチって……黒くて白くて、でかくて、海の上のほうに背びれが出るやつか?」
「そうだ。十メートルを超える海の王。しかも一匹ではない。家族単位の群れで動く」
みゅいは思わず、生け簀の向こうにある真っ青の海を見た。
いつも見ている海だ。朝には魚をくれる。昼には潮風を運ぶ。夜には防波堤を黒く沈める。その海の下に、十メートルを超える巨大な影が何匹も動いている。
想像しただけで、肉球の裏が冷たくなった。
「そんなの、港に近づけていいわけないじゃん」
「普段は近づかない」
タコ八は静かに言った。
「だが、満月の大潮の夜だけ、潮の道が変わる。湾の外を通るヌシたちが、匂いに誘われれば、ほんの少しだけ進路を変えることがある」
「匂いって……」
ミケコが低く呟く。
「まさか」
「アジの干物だ」
タコ八の声は、妙にはっきりしていた。
「ヌシは、アジの干物の匂いを好む。生の魚より、干されて旨味が凝ったものを追う。特に潮鳴町のアジは、昔から匂いが強い」
みゅいの頭の中で、ばらばらだった出来事がつながっていく。
高級アジ干物の消失事件。
みゅいに仕掛けられた濡れ衣。
冷蔵庫の奥から抜かれていた魚箱。
シャケヤンが急に集め始めた大量の魚。
ギャアスとの密約。
黒崎から受け取った封筒。
「あいつ……ヌシを呼ぶ気だ」
みゅいの声は、自分でも驚くほど低かった。
ブチローは震えながら言った。
「でも、ヌシを呼んでどうするんだよ。シャチなんか来たら、魚どころじゃないだろ」
「そこが狙いだよ」
ミケコが生け簀の向こうの海を見た。
「ヌシが湾に近づけば、小魚は逃げる。大きな口から逃げようとして、群れごと湾の奥へ流れ込む。逃げ場を失えば、浜に打ち上がる魚も出る」
「魚が……浜に」
ブチローの目が、ほんの一瞬だけ輝いた。
みゅいがじろりと見る。
「今、ちょっと喜んだでしょ」
「いや、危険だなと思った。魚が大量にある危険だ」
「正直に言いなよ」
タコ八は続けた。
「アジの干物を大量に海に落とせば、ヌシは匂いを追う。ヌシが湾へ寄る。小魚が逃げる。浜に魚が上がる。そこだけ見れば、魚不足は一晩で解決したように見える」
「そしてシャケヤンは言うわけだ」
ミケコが目を細める。
「『わしが魚を持ってきました』ってね」
みゅいの爪が、濡れた床に少し出た。
「猫町内会長になるために」
「それだけじゃない」
ミケコは低く言った。
「ギャアスには分け前を約束している。でもシャケヤンは、絶対に分ける気がない。あの目は、独り占めする目だ」
タコ八の足が、ぬるりと水をかいた。
「欲深い者は、海を宝箱だと思う。開ければ宝を取り出せると思っている。だが、海は宝箱ではない。腹を空かせた生き物だ」
その言葉に、三匹とも黙った。
海は、いつもそこにあるものだと思っていた。魚をくれる場所。潮風を運ぶ場所。ときどき、落ちたら大変な場所。
けれど、タコ八の言葉を聞いたあとでは、目の前の水面がまるで巨大な口のように見えた。
開けば、魚だけでなく、猫も、カモメも、欲も、全部飲み込む口。
「シャケヤンは、自分も危ないかもってわかってないの?」
みゅいが聞くと、タコ八はゆっくり目を細めた。
「欲の匂いが強すぎる者は、自分の匂いがわからない。魚を追う猫が、背後の犬に気づかぬのと同じだ」
「犬は嫌い」
「たとえだ」
ブチローは落ち着かない様子で足踏みした。
「でもよ、シャケヤンを止めるって言っても、どうするんだ。あいつの後ろには荒くれ猫がいる。五十匹だぞ。俺なんか、この前ちょっと逆らっただけで……」
そこまで言って、ブチローは口を閉じた。
みゅいは、その横顔を見た。
頬の傷。前足の毛の抜けた跡。何度も「転んだ」とごまかした傷。
「ブチ兄」
「なんでもねぇ」
「もう、それは通じないよ」
ブチローは、濡れた床を見つめた。
「すまん。……怖いんだよ」
その声は、港の波音より小さかった。
「あいつ、笑いながら殴るんだ。魚をくれる時と同じ顔で、逆らうなって言う。俺がみゅいに話したら、おまえの居場所をなくすって。チビスケにも近づくなって」
みゅいの胸の奥で、何かが熱くなった。
魚を盗んだことを疑われた時とは違う。
一等ひなたを取り上げられた時とも違う。
もっと硬くて、鋭い怒りだった。
「許さない」
みゅいは短く言った。
ミケコが静かにうなずいた。
「でも、怒りだけじゃ勝てない。証拠がいる。猫たち全員が、あの笑顔の裏を見られる証拠がね」
「防波堤だ」
みゅいは港の外を見た。
「満月の夜、シャケヤンはアジの干物箱を置く。ヌシを呼ぶ。ギャアスも来る。そこで全部つながる」
「危険すぎる」
ブチローが言った。
「知ってる」
「荒くれ猫が来るし、ヌシは十メートル超えだぞ」
「知ってる」
「シャチだぞ」
「それも聞いた」
みゅいは白い尻尾の先を揺らした。
「でも、逃げたらチビが危ない。ブチ兄も、ミケコも、シラタマも。港の猫が、シャケヤンの魚とお金と嘘で支配される」
みゅいは、ふいに猫カフェの毛布を思い出した。
温かかった。柔らかかった。雨にも濡れなかった。
けれど、そこには港の匂いがなかった。
「あたし、自分でも何考えてんだろうって思うけど、やっぱり港がいい。守りたい。」
みゅいは言った。
「魚臭くて、寒くて、面倒くさくて、でも、自分で歩ける場所がいい」
タコ八は水面に半分沈みながら、静かに言った。
「ならば、満月の夜は海を見るな」
「え?」
「海の奥を見すぎるな。海を見つめる者を、海もまた見つめる。ヌシの目は深い。あれに心を奪われれば、足がすくむ」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「足元を見よ。仲間を見よ。魚ではなく、戻る場所を見よ」
みゅいは黙って、その言葉を胸にしまった。
水面がごぼりと鳴り、タコ八の体が少しずつ沈んでいく。
「最後にひとつ」
水の中から、タコ八の目だけがこちらを見た。
「アジの干物の匂いは強い。だが、猫の決意の匂いもまた強い。白尻尾の子よ、おまえが逃げなければ、潮は少し変わる」
タコ八は沈み、水面は静かになった。
あとには、海水ポンプのごぼごぼという音だけが残った。
みゅいは空を見上げた。昼の月が、薄く白く浮かんでいる。
満月まで、もうすぐだった。
その白い月の下で、シャケヤンはきっと笑っている。魚も、猫も、カモメも、全部自分のものになると思っている。
みゅいは濡れた肉球を振り、尻尾を立てた。
「行こう。作戦会議」
ブチローが不安そうに聞く。
「勝てるのか?」
みゅいは少し考えた。
「わかんない」
「そこは勝てるって言うところだろ」
「でも、あいつの思い通りにはさせない」
ミケコが小さく笑った。
「それで十分さ」
港の空に、カモメの声が響いた。
その声の向こう、まだ見えない海の底で、巨大な影がゆっくり動いた気がした。




