戻ってきた泥んこ姫
みゅいは潮鳴町へ戻る。魚臭く、寒く、面倒くさい港こそが、自分の居場所だと感じる。しかし、戻った先ではブチローがさらに怯え、シャケヤンの手下猫たちが港を支配し始めていた。さらに夜、みゅいは黒崎とシャケヤンが裏で金をやり取りしている現場を目撃する。猫カフェへの紹介料、邪魔な猫を港から消す計画。魚だけでなく猫の居場所まで商売にされていた事実が明らかになり、みゅいは逃げないと決める。
潮鳴町の港に戻った瞬間、みゅいの鼻は、やっぱりこっちの空気を覚えていた。
少しの間だったのにとても懐かしく感じる匂いだった。
魚の脂。濡れた木箱。錆びた釣り針。古いロープ。遠くで怒鳴る源さんの声。猫カフェの洗いたての毛布とは、まるで違う。ざらざらして、しょっぱくて、少し汚い。
そして、足裏にはこの石畳の冷たさがいちばん馴染んだ。
「……帰ってきちゃった」
みゅいが港の入口で呟くと、魚屋裏の木箱の陰から、小さな茶色い影が飛び出してきた。
「みゅい姉ちゃん!」
チビスケだった。鼻先に魚の鱗をつけたまま、みゅいの胸にぶつかってくる。
「チビ、顔が魚くさい」
「みゅい姉ちゃんだって港くさい!」
「それは褒め言葉」
チビスケは尻尾をぶんぶん振った。
「帰ってきたんだね。ぬくぬくのところ、楽しかった?」
「まあまあ。でも、あそこは魚が皿から出てくるだけで、魚を勝ち取った感じがしない」
「よくわかんないけど、みゅい姉ちゃんっぽい!」
その声を聞いて、木箱の奥からブチローが顔を出した。大きな体をしているのに、今日は妙に小さく見える。右頬の傷は前より濃く、前足にも毛が抜けた跡があった。
「……戻ったのか」
「うん。ただいま、ブチ兄」
「ああ」
ブチローはそれだけ言って、目をそらした。
みゅいは近づいた。
「その足、また転んだの?」
「そうだ」
「今度はどこで?」
「……港は段差が多い」
「ブチ兄、嘘が下手」
ブチローの耳がぺたりと伏せた。その瞬間、背後から柔らかい声がした。
「おやおや、みゅいはん。お帰りなさい」
シャケヤンだった。
茶白の丸い体を揺らしながら、いつものようににこにこ笑っている。周りには、何匹かの知らない猫がいた。どの猫も体が大きく、耳や鼻に古傷がある。漁港の猫というより、どこか暗い路地から連れてこられたような目をしていた。
「都会の暮らしは合いませんでしたか?」
「確認が終わったのよ」
「そうでっか。いやぁ、残念ですなぁ。みゅいはんなら、もっと割のええ暮らしができたでしょうに」
「港の魚臭い暮らしで十分」
「それはそれは」
シャケヤンは笑った。
でも、みゅいは見た。ほんの一瞬だけ、シャケヤンの目の奥が冷たく細くなったのを。
「まあ、戻ってきたなら仲良うやりまひょ。選挙も近いことですし」
「仲良く?」
「ええ。港のために」
その言葉は、まるで砂糖をまぶした小骨だった。甘いのに、飲み込めば喉に刺さる。
夕方、みゅいはブチローを倉庫裏に呼び出した。潮風が通らない薄暗い場所で、古い網と錆びたドラム缶の匂いがこもっている。
「ねぇ、前から気になってたんだけどさ」
「ブチ兄。シャケヤンに何かされてる?」
ブチローの体がびくっと揺れた。
「何もねぇ」
「じゃあ、なんで震えてるの」
「寒いんだ」
「今日は暑いほうだよ」
ブチローは黙った。
しばらく、遠くの波音だけが聞こえた。
「……あいつに逆らうな」
やっと出た声は、情けないくらい小さかった。
「シャケヤンは、ただ魚を配る猫じゃねぇ。あいつの後ろには、荒くれ猫がいる。五匹や十匹じゃない。呼べば、もっと来る」
「どれくらい?」
「……五十匹くらい」
みゅいは耳を立てた。
「五十?」
「俺なんか、ひと噛みで終わりだ。みゅい、おまえも下手に動くな」
ブチローはそれだけ言うと、逃げるように倉庫裏を出ていった。
みゅいは追いかけなかった。
ブチローの背中が、いつもの丸い背中ではなく、何か重いものを乗せられた背中に見えたからだ。
その夜、港に早い闇が落ちた。
魚屋の灯りがひとつ、またひとつ消え、朝市通りは昼間の騒がしさを嘘みたいに失った。冷えた石畳には月明かりが薄く伸び、干物工場の壁には古いロープの影が揺れている。
みゅいが魚屋裏に戻ろうとした時、遠くで車のドアが閉まる音がした。
港に似合わない音だった。
みゅいは耳を立てた。木箱の陰に身を低くして、音のした方へ近づく。干物工場の裏、使われていない倉庫の前に、黒い車が停まっていた。
そこに立っていたのは、黒崎だった。
都会の猫カフェの店長。清潔な黒い服。穏やかな笑顔。港の湿った空気の中でも、彼だけが消毒液とコーヒーの匂いをまとっている。
そして、その足元に、シャケヤンがいた。
「話が違うやないですか、黒崎はん」
シャケヤンの声は、昼間と同じように柔らかかった。だが、笑っていない。
「みゅいは戻ってきてしもうた。せっかく港から離したのに、これでは段取りが狂いますわ」
黒崎は周囲を見回し、小さく息を吐いた。
「こちらも困っています。あの子は話題性がある。店に入れば、かなり集客できたはずです」
「集客、ねぇ」
シャケヤンは喉の奥で笑った。
「人間は便利な言葉を使いますなぁ。猫を閉じ込めて、撫でさせて、写真撮らせて、それを集客と言うんでっか」
「あなたがそれを言いますか」
黒崎の声が、少し冷たくなった。
「あなたは、港の猫を何匹もこちらへ流している。人懐こい猫、見た目のいい猫、子猫。こちらが紹介料を払う。あなたは邪魔な猫を港から消せる。互いに利益がある。そういう約束だったはずです」
みゅいの背中の毛が、ぞわりと立った。
紹介料。
港から消せる。
黒崎は内ポケットから白い封筒を出した。厚みのある封筒だった。人間の匂い、紙の匂い、そして金属のような冷たい匂いがした。
シャケヤンの隣にいた荒くれ猫の一匹が、倉庫の影から小さな布袋を引きずってくる。黒崎は封筒をその袋の中に滑り込ませた。
「前金です」
黒崎が言った。
「ただし、みゅいを連れてこられないなら、次の支払いはありません」
「心配いりまへん」
シャケヤンはにこにこ笑った。
「みゅいはんは、もう港で信用を失いかけてます。あと一押しで、自分から居場所をなくしますわ」
「乱暴なことは避けてください。店の評判に関わります」
「もちろんです。優しい猫助け。そうでしょう?」
黒崎は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
みゅいは息を殺した。月明かりの下で、シャケヤンの笑顔が白く浮かんでいる。あの笑顔で魚を配り、あの笑顔で猫たちを安心させ、あの笑顔で自分を猫カフェへ追い出そうとしていたのだ。
その時、背後で小さく砂が鳴った。
みゅいが振り向くと、そこにはチビスケがいた。目を丸くし、口を開けたまま固まっている。
見てしまった。
みゅいは慌ててチビスケの口を前足でふさぐ。
だが遅かった。
シャケヤンの耳が、ぴくりと動いた。
「……誰や?」
みゅいはチビスケをくわえるように押し、木箱の下へ滑り込ませた。自分もその横に身を伏せる。潮の匂い、木の湿った匂い、自分の心臓の音が一気に近くなる。
黒崎は車へ戻り、低いエンジン音とともに港を離れていった。
シャケヤンはしばらく闇を見つめていた。
やがて、何もなかったように笑った。
「まあええ。どうせ、もうすぐ全部わしの港になる」
その声が消えてからも、みゅいはしばらく動けなかった。
夜、猫神社の裏に、みゅい、シラタマ、ミケコ、ゴンザが集まった。今回はチビスケもいた。震えながら、けれど必死に見たことを話した。
線香の残り香が薄く漂い、石段は昼の熱を失って冷えている。港の灯りが遠くでにじみ、カモメの声だけが闇の上を滑っていた。
ミケコは白い羽を前足で押さえた。
「あたしは聞いたよ。防波堤で、シャケヤンとギャアスが会っていた。魚を二分する約束をしていた」
みゅいは低く言った。
「黒崎ともつながってた。封筒を受け取ってた。まさに猫に小判なのにね。いらない猫を港から消すって言ってた」
シラタマの青い目が、氷みたいに冷えた。
「……飾り物にするだけではなく、売り物として見ていましたのね」
ゴンザは静かに言った。
「わしも初めから怪しいとは思っておった」
「じゃあ、なんですぐ言わないの」
みゅいが聞くと、ゴンザは片目を細めた。
「証拠が足りん。シャケヤンは危険な猫じゃ。笑顔で魚を配り、裏では荒くれ猫を動かす。怒らせれば、この神社など一晩で占拠される」
ミケコが続ける。
「あいつは、ただの候補じゃない。猫やくざさ。脅し、暴力、猫の売買。魚だけじゃない。猫の居場所まで商売にしてる」
チビスケが小さく震えた。
「ぼくも……売られちゃうの?」
その声を聞いた瞬間、みゅいの中で何かが固まった。
猫カフェの毛布は温かかった。けれど、あれは選べる温かさではなかった。誰かに運ばれ、誰かに値段をつけられ、誰かの都合で閉じ込められる温かさだった。
「あたし、逃げない」
みゅいは尻尾を立てた。
「あいつ、魚の分け方だけじゃなくて、猫の扱い方も気に入らない」
ゴンザは小さくうなずいた。
「ならば、決定的な証拠をつかめ。シャケヤンを倒すには、感情では足りん。猫たち全員の前で、あやつの笑顔を剥がす必要がある」
港の夜風が、石段を撫でた。
魚の匂いの奥に、紙の封筒と、黒崎の車の排気ガスと、シャケヤンの冷たい笑顔の匂いが混ざっていた。
みゅいはその匂いを、忘れないように深く吸い込んだ。




