なんか、ちがう?
猫カフェは、港とはまるで違う世界だった。毛布は温かく、床はきれいで、雨にも濡れない。だが、そこでは可愛い顔をすることが仕事であり、寝たい時に寝る自由もない。皿に出されるごはんは安定しているが、魚を勝ち取る喜びはない。一方、港ではシャケヤンが魚配給権を握り、チビスケは再び怪しい動きを目撃する。みゅいは窓の外を見つめ、ぬくぬくは悪くないが、自分のひなたではないと気づく。
都会の猫カフェは、潮鳴町の港とはまるで別の世界に棲む生き物のようだった。ガラス張りの店舗は夕暮れの街灯を反射させ、銀色の輝きを纏っていて、波打ち際の塗装が剥げた魚屋や錆びた網棚とは比べ物にならない清潔さだった。
ドアが開いた瞬間、みゅいの鼻先に飛び込んできたのは、港で毎日嗅いでいた塩気の混じった魚の匂いではなかった。深煎りコーヒーの香ばしさ、オーブンで焼き上げたスコーンのバターの甘さ、洗剤のさわやかな香りが残る洗いたてのフリース毛布、そして消毒用アルコールのさっぱりとした刺激臭が混ざり合っていた。空気は空調で調整された一定の温度で、潮風が肌を切るようなざらつきも、雨に濡れてカビ臭くなった古い網の湿り気も、魚屋の源さんが「泥棒猫!」と怒鳴る荒々しい声も、この空間にはひとつも存在しなかった。
床は高級な木製フローリングで、みゅいが肉球をつけるとピカピカに磨かれた表面から自分の姿が歪んで映る。砂粒ひとつつまない滑らかな感触は、港の石畳のザラつきとは全然違って、ちょっと不安定にさえ感じられた。窓際のソファには、ピンクや水色のフリルがついたふかふかのクッションが一列に並び、部屋全体はストーブのような暖かさに包まれて、春の昼下がりに気怠く眠たくなるような雰囲気だった。
黒崎は店のオーナーであり管理人で、眼鏡を掛けた細身の人間が、みゅいの様子を見て満足そうに頬を緩めて言った。
「どうです。ここなら季節の雨にも濡れませんし、冬の寒い夜も暖房で暖かく過ごせます」
みゅいは好奇心から、前足をクッションに乗せてみた。
すると、体が一気にクッションの中に沈んだ。
「……なにこれ」
もう一歩前に踏み込むと、さらに深く沈み込んで、体全体が柔らかい綿に包まれるような感触になった。魚屋の裏に置かれていたカビ臭い木箱の硬さも、雨に濡れて冷たくなった段ボールの湿り気も、ここにはない。みゅいは体を丸めてクッションに埋もると、背中までじんわりと暖かさが伝わってきて、つい少しだけ目を細めてしまった。
「悪くない……かな」
近くのテーブルでは、若い人間たちが小さな声で笑いながらみゅいを見ていた。
「あれ、新入りの子?」
「SNSで見た動画の猫ちゃんだよ!あの三十二度首を傾けるやつ」
「わあ、実物はもっとかわいい……」
みゅいは反射的に首を三十二度傾けた。人間たちは一斉に息をのみ、スマートフォンのシャッター音が連続して鳴り響いた。
黒崎が静かにうなずき、声を落としてつぶやいた。
「やはり、目線の作り方が天才的です。客からの反応が予想以上で良かった」
褒められるのは嫌いではない。港でも、自分が魚を捕まえてきたときに仲間たちから褒められると、尻尾が勝手にピクピクするくらい嬉しかった。
けれど、みゅいは黒崎が皿に出してくれたごはんを見て、鼻にしわを寄せてしまった。
「これ、魚じゃない。。。」
近くのソファで体を丸めて眠っていた茶色の三毛猫の先輩が、薄目を開けて、うとうとした声で答えた。
「最初はみんなそう言う。ここはそういう場所だ」
「じゃあこれは何?」
「カリカリと呼ばれるドライフード。毎日同じ時間に同じ量が出る。味は安定してるけど、驚きはぜんぜんない」
「驚きのないごはんって、楽しいの?」
「楽しくはない。でも決まって出るから空腹にはならない。野良のときのように、一日中魚を探し回る必要もない」
みゅいは黙ってカリカリを見つめた。
空腹にならない。
その言葉は、飢えを知っている野良猫には、かなり強い誘い文句だった。港では雨の日は魚を捕まえられず、腹ペコで一晩を過ごすことも少なくなかった。
そのころ、潮鳴町の港では、茶白の毛が膨らんで丸く見えるシャケヤンが、共同魚置き場の前の木製の台に座っていた。
「皆はん、慌てんでええです。今日はアジとイワシがたくさん入ったから、順番に配りますさかい」
いつものようににこにこと笑った顔は、猫たちの信頼を集めていた。目の前の台には、カモメ組から渡された余りのアジやイワシが山積みになっていて、猫たちは列を作って尻尾をピンと立てて待っていた。
「シャケヤンはん、今日も助かるわ!昨日は雨で魚が捕まえられなかったから腹ペコだった」
「みゅいがいない間も、シャケヤンがいてくれるから安心だな」
「やっぱり魚を持ってくる猫は頼れる!」
ブチローは少し離れた木箱の陰に隠れていた。魚が配られているのに、列に並ぼうともしない。右頬に残る傷が、夕方の赤い太陽の光を反射させて、かすかに赤く腫れて見えた。
シャケヤンは大きなアジの一切れを口にくわえて、ブチローの前まで歩いていき、地面に置いた。
「ブチローはん。ちゃんと食べなはれ。昨日は夜遅くまで魚置き場の老猫の世話してくれはったやから、働く猫にはご褒美が必要ですからなぁ」
声はいつも通りやさしかった。
ブチローはそのアジをしばらく見つめてから、ゆっくり口に運んだ。だが、目元は少しも嬉しそうではなく、むしろ暗い影がかかっていた。
夜が近づき、港の灯りが点り始めたころ、チビスケはひとりで防波堤の近くまで歩いていた。
波面に映る月が綺麗だったからだ。
それだけの理由だった。
湿った石畳に小さな肉球の跡をつけながら、チビスケはみゅいに教わった相撲の真似をして、前足をぱんと合わせた。
「猫だまし……!」
小さな声は、潮風に乗ってすぐに消えてしまった。
そのとき、前方の防波堤の上にシャケヤンの姿が見えた。
昼間の共同魚置き場で見せていた明るい笑顔とは違う、低く沈んだ背中だった。まるで別の猫みたいに、静かに防波堤の方角へ進み、何かを確認するように暗がりを左右に見回していた。
「シャケヤンさん?」
チビスケが声を出す前に、シャケヤンが振り返った。
にこりと笑った。
でも、目の奥は笑っていなかった。昼間のような暖かい輝きがなく、暗い闇に沈んでいた。
「おや、チビスケはん。こんな夜更けに、防波堤の近くに来ると危ないで?波に飲み込まれるかもしれんで」
「月が綺麗だなと思って、お散歩してたんだ」
「そうかいな。ええ子は早う家に帰って、暖かい場所で寝なはれ」
声はやさしかった。けれどチビスケは、なぜか尻尾を丸めて体を縮めてしまった。港の夜風が肌を刺す冷たさよりも、シャケヤンの笑顔のほうが、心の底から冷たく感じられた。
一方、都会の猫カフェでは夜の接客時間が始まっていた。
「はい、みゅいちゃん。次はこちらのお客様のお膝へ移動してくださいね」
黒崎が穏やかに手招きをして言う。
みゅいは眉間にしわを寄せて、不満そうに尻尾をピクッと動かした。
「膝って、指定された場所に乗らなきゃいけないものなの?」
横でソファに座っていた先輩猫が、小さくクスクスと笑って答えた。
「ここでは、だいたいそうなの。客が喜ぶからね」
「寝たい時に寝られないの?」
「人気が出ると、もっと寝られなくなるよ。客がたくさん来て、いつも撮影されたり撫でられたりするから」
みゅいは不満そうな顔をしながらも、人間の膝の上にジャンプして、完璧な可愛い顔を作った。目を大きく見開き、首を少し傾けて、柔らかい鳴き声を出した。人間は大喜びで拍手をし、スマートフォンでたくさん写真を撮り、みゅいの頭を優しく撫でてくれた。室内は暖房で暖かく、ごはんは毎日決まって出るし、雨も降らないし、カモメが飛んで来て魚を奪われることもない。
けれど、可愛い顔をして拍手をもらった分だけ、魚が増えるわけではなかった。
拍手は、食べられない。
夜、最後の客が帰ったあと、みゅいは窓辺のクッションに座った。ガラスの向こうには、都会のビルの灯りが滲んでいて、港のような広くて暗い海は見えない。防波堤の石畳も、魚屋の裏の木箱も、チビスケが相撲ごっこをする姿も、ここからはひとつも見えなかった。
ふかふかのクッションは体全体を暖めてくれる。
それなのに、みゅいの足裏は、港の感触を恋しがっていた。
雨に濡れた石畳のザラつきを。
魚の脂がこびりついた木箱の硬さを。
源さんが「泥棒猫!」と怒鳴る荒々しい声を。
黒崎が静かに近づいてきて、みゅいの側に座って言った。
「今までは体験期間でしたが、明日からは、正式にここで暮らすことにしませんか?食事も住まいも安定して、安心して過ごせますよ」
みゅいはしばらく黙って、ガラスの向こうの灯りを見つめていた。
それから、クッションからゆっくりと体を起こして下りた。
「確認は終わり」
「はい?」
「ぬくぬくしてて悪くない。でも、ここはあたしのひなたじゃない」
港では今、シャケヤンが魚を配っているはずだ。ブチローは右頬の傷のことを何か隠しているに違いない。チビスケは危ない場所に一人で行ってしまいそうだ。ミケコはきっと、みゅいがいないことで何かを嗅ぎつけているに違いない。
そして何より、みゅいはまだ、自分にかけられた「魚を盗んだ」という濡れ衣を晴らしていない。港の仲間たちに、自分は無実だと証明しなければならない。
「帰る」
みゅいは尻尾をピンと立てて、店のドアの方向を見つめた。
「魚臭くて、寒くて、面倒くさいけど、あたしの場所があるそこへ」




