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ぬくぬく猫カフェの誘惑

都会の猫カフェ店長・黒崎が潮鳴町へ現れ、みゅいを看板猫として迎えたいと申し出る。あたたかい部屋、毎日のごはん、ふかふかの寝床。野良猫には抗いがたい誘惑だった。シャケヤンはそれを後押しし、みゅいを港から遠ざけようとする。シラタマはその誘いに不快感を覚え、ブチローはみゅいに残ってほしいのに何も言えない。みゅいは「確認だけ」と言いながら、港を一時離れ

朝市通りの潮風に、いつもと違う異質な匂いが紛れ込んでいた。


 塩気の強い魚の脂臭い香り、波打ち際から吹き寄せる潮風の匂い、路地裏の屋台で焼かれるサバの香ばしさ――そのどれでもない。石鹸のさっぱりとした薬用の香り、日差しに晒されて乾いた洗いたての綿布の匂い、そして人間が何度もプレスしたような整えすぎた洋服の糊のにおいだ。


 みゅいは魚屋の汚れた木箱の上に尻尾をまき、小さな鼻をひくひくさせて匂いを追った。濡れた石畳の上に落ちている魚の鱗が、朝の陽射しを反射させてキラキラと輝いているのを、あまり意識せずに見ていた。


「……なに、この匂い」


 源さんの魚屋の店先では、町役場の佐伯がひとりの男と身を寄せて話していた。真っ黒なスーツを着た背の高い男だった。髪はツルツルと整えられ、靴も泥一つついていない磨き上げられた革靴で、港特有の濡れた石畳とはどこか浮いた雰囲気で似合わなかった。


 男は突然視線を上げ、木箱の上のみゅいに気づくと、上品に腰を落とすようにゆっくりしゃがんだ。スーツの裾が石畳に触れるのを嫌がるような、細やかな動作だった。


「君が、みゅいですね」


 みゅいは片方の三角の耳だけをピクッと動かした。


「みゃ」


 返事をしたわけではない。この異質な人間に対する警戒の鳴き声だった。だが男はそれを、小さな子猫の可愛い挨拶として聞き取ったらしい。


 男は唇を柔らかく曲げて微笑んだ。指先はきれいに手入れされていて、魚屋の店主たちのような傷は一つもなかった。


「私は黒崎。都会で猫カフェを経営しています。インターネットに上がっている君の動画を見ました。君には他の猫にはない、スター性があります」


「スター性って、焼き魚みたいに食べられるの?」


 みゅいが小さな喉から鳴くと、佐伯が目を細めて嬉しそうにタブレットの画面をみゅいのほうに向けた。画面にはみゅいが源さんの店先で魚の骨を奪って逃げる様子が映っていて、再生回数の数字が十万回を越えているのが見えた。


「みゅいちゃんの動画、まだまだ伸びているんです。黒崎さんは、その映像を見てわざわざ都会からこの潮鳴町まで来てくださったんですよ」


 源さんは魚の切れ端を握った手を胸元に置き、腕を組んで眉をひそめた。


「そいつは泥棒猫だぞ。店の魚を毎日盗んでるクセ者だ」


「その少し生意気なところも、見る人を惹きつける魅力です」


「見る目があるのか、ねぇのかわかんねぇな」


 黒崎は足元に置いていた小さなキャリーケースを静かに開けた。中には白い羊毛のふかふかの毛布が敷き詰められていて、太陽の香りがした。港の湿った塩気の匂いがまったくしない、清潔な温かさだった。


 みゅいの鼻先に、柔らかい布の温かい匂いがゆっくりと届いた。木箱の上から少しだけ体を前に出して、匂いを嗅ぐと、黒崎の指がそっと手前に伸びてきたが、みゅいはピョンと後ろに跳ねた。


「猫カフェなら、雨に濡れることもないし、冬の寒い夜も暖房であったかく過ごせます。毎日おいしいキャットフードやおやつがありますし、来店する人たちが君を大切にしてくれます」


 毎日ごはん。


 寒い夜に風邪をひかない。


 みゅいの黒い尻尾の先が、ほんの少しだけゆらゆらと揺れた。木箱の上の魚の鱗を蹴り落としても、気にならなかった。


 そこへ、背後の路地裏から柔らかい声が響いてきた。


「ええ話やないですか、みゅいはん」


 茶白の毛に少し茶色いしみがある、丸い体のシャケヤンだった。いつものように尻尾をゆらゆらと揺らし、にこにこと笑った顔で、みゅいのほうに近づいてくる。


「みゅいはんには、港の魚屋裏の湿った木箱で暮らすより、もっと割のええ場所が似合うと思いますわ。人間に可愛がられて、お金になる仕事。あったかい部屋で毎日おいしいごはんを食べる。そんなええ暮らし、誰が嫌うでしょう」


 みゅいは琥珀色の目を細めてシャケヤンを見た。


「シャケヤン、前からそればっかり言ってるよね」


「才能ある猫には、この小さな港だけじゃない、広い世界を見てほしいだけですわ。それが親切なだけです」


 言葉だけ聞けば、本当に親切な忠告のようだった。


 けれど、みゅいはなぜか胸の奥が少しむずがゆくなった。黒崎の毛布の匂いよりも、シャケヤンのにこにことした笑顔のほうが気になった。笑っているはずのその目の奥に、「早くここから出て行け」と書いてあるような、冷たい光が見えた気がしたのだ。


 少し離れた倉庫の屋根の上で、全身が真っ白なシラタマも同じ黒崎のことを、青い瞳で静かに見ていた。


 シャケヤンはみゅいのところを離れ、シラタマのいる屋根の下まで歩いていき、頭を上げて笑った。


「シラタマはんも、その真っ白な毛と美しい目なら、都会の猫カフェで大人気でっせ。港で魚を取り合うより、もっと上等な暮らしができるんですよ」


「わたくしを、人間の目の前で飾り物にするおつもりですか?」


 シラタマの青い目が、太陽の光を反射させて冷たく輝いた。前足で屋根の瓦をゴリッと掻くと、小さなカケラが落ちてきた。


「まさかそんな。ただ、シラタマはんの美しさを多くの人に見てもらいたいだけですわ」


「値段をつけようとするような褒め言葉は、わたくしはあまり好みませんの」


 シャケヤンは困ったように肩を落として笑った。だが、シラタマが背を向けて屋根の奥に歩き去った瞬間、その笑顔が消えて目がほんの一瞬だけ目のおくが冷えた。その変化を、木箱の上から見ていたみゅいは見逃さなかった。


 夕方、魚屋裏の木箱置き場には、太った茶トラのブチローがみゅいの前に座り込んでいた。周りには使い古された木箱が山積みになっていて、魚の脂の匂いが濃厚に漂っていた。


「……あの男のところへ、行くのか?」


「確認だけ。どんな場所なのか見に行くだけだ」


「それ、泥棒猫が『少しだけ食べる』って言うときの言い方だぞ」


「今回は食べない。たぶん」


 ブチローは何か言いたそうに口を開いた。けれど、喉の奥から声が出る前に、また口を閉じてしまった。右頬の小さな傷が、夕日の赤い光を受けて少し赤く腫れて見えた。


「ブチ兄、また転んで傷ついたの?」


「……ああ。倉庫の階段で足を滑らせた」


「猫ってそんなに転ぶの?ブチ兄は足が太いから?」


「太い猫は重心が高いから、転ぶんだよ。お前にはわからない」


 冗談みたいに言ったが、ブチローの丸い目は笑っていなかった。耳を少し垂らして、足元の木箱の隙間を見ていた。


「本当は、みゅいが残ってほしいんじゃないの?」


 みゅいが小さな声で聞くと、ブチローはびくりと体を震わせた。


「別に……おまえが自分で決めることだ。俺が何も言う立場じゃない」


 それだけ言って、急に顔をそらして倉庫の方向を見た。夕日が彼の背中を照らして、少し寂しい影を石畳に落としていた。


 みゅいは胸の奥が少し重くなった。木箱の上に座り込んで、尻尾を前足に巻きつけた。


 夜が近づき、港の灯りが一つずつ点り始めるころ、黒崎の白い車が港の入口の駐車場に停まった。車のトランクから取り出したキャリーケースの中には、昼間と同じように白い羊毛の毛布が敷かれていて、暖かい匂いが漂っていた。


 小さな茶トラ猫のチビスケが、みゅいの足元に寄り添って、泣きそうな顔で見上げた。目の周りが少し腫れていて、昨日雨に濡れて風邪をひいたのが治りきっていなかった。


「みゅい姉ちゃん、行っちゃうの?いつ帰ってくるの?」


「確認だけって言ったでしょ。あの男の店がどんなところか見てくるだけだ」


「すぐに?」


「魚の匂いが恋しくなったら、すぐに戻ってくる」


「じゃあ、すぐに帰ってくるね。みゅい姉ちゃんがいないと、源さんの魚を盗むのが怖い」


 みゅいはチビスケの頭をそっとなでて、笑ったように目を細めた。


 港には、濡れたロープの塩気の匂いがある。源さんが店の中で「泥棒猫が来るぞ」と怒鳴る声がある。魚の脂がこびりついた木箱が山積みになっている場所がある。カモメが空を飛んでうるさく鳴く声も、猫たちが毎晩開く面倒な会議もある。


 でも、冬の寒い夜には風邪をひいて震えることもある。朝になっても食べるものが見つからない空腹の日もある。源さんに泥棒猫だと疑われて、人間たちから水鉄砲で追いかけられる日もある。


 黒崎がキャリーケースを少し傾けて、みゅいのほうに手を差し出した。


「行きましょうか。車は暖房をつけてありますから」


 みゅいは一度だけ港の中を振り返った。源さんの店先の灯りがオレンジ色に輝いていて、チビスケが小さな体を震わせて手を振っているのが見えた。


 そして、少し離れた屋根の上でシャケヤンが、にこにこと笑って手を振っていた。


「ええ経験になりますで、みゅいはん。ぜひ広い世界を見てきてください」


 その声を聞いた瞬間、みゅいの胸に小さな棘が刺さったような痛みが走った。だけど、足は勝手に猫用の移動ケースの中へ踏み込んでいた。毛布は驚くほど柔らかく、魚屋裏の湿った木箱の硬さとはまるで違った感触だった。


 黒崎がケースの扉を静かに閉めた。


 車がゆっくりと動き出した。


 潮鳴町の魚の脂と塩気の匂いが、車の窓の外から少しずつ遠ざかっていく。


 みゅいは毛布の上で体を丸くなりながら、なぜか眠れなかった。


 ぬくぬくと暖かいのは、たしかに気持ちいい。


 けれど、港に残してきたブチローの傷、チビスケの泣きそうな顔、源さんの怒鳴り声、そして潮風の匂いが、頭の奥からなかなか消えなかった。

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