シャケヤンの最後
海に落ちたシャケヤンは助けを求めるが、手下猫たちはおろおろするだけだった。みゅいたちはカモメ組を逃がすため必死に網を引き、ギャアスも仲間を守ろうとする。やがてヌシが近づき、シャケヤンは自分の罠に飲まれるように海へ消える。その一部始終を、ハチベエが町の猫たちに目撃させていた。失敗会議では、魚の量だけで猫を信じたこと、弱い猫の声を見落としたことが語られる。そして潮鳴町の朝は、また魚の匂いとともに始まる。
黒い海に落ちたシャケヤンは、最初、何が起きたのかわからない顔をしていた。
満月が砕けた水面で、茶白の丸い体がばしゃばしゃともがく。さっきまで防波堤の上で、港も魚も猫もカモメも全部自分のものになると笑っていた猫が、今は濡れた毛を体に貼りつかせ、必死に前足で水をかいている。
「た、助け……助けてくれ!」
シャケヤンの情けない声が、防波堤に響いた。
その声は、いつもの柔らかい関西弁ではなかった。にこにこした余裕も、猫たちを操る甘さもない。ただ、濡れて、震えて、怯えた声だった。
「おい! 何してんねん! 早う引き上げんかい!」
防波堤の上にいた猫やくざの手下たちは、おろおろするばかりだった。さっきまで偉そうに魚箱を運び、シャケヤンの指示に従っていた荒くれ猫たちが、いざ海に落ちた親分を前にすると、誰も飛び込まない。
「ど、どうする?」
「海やぞ」
「ヌシ、来とるやんけ」
「親分、泳げたっけ?」
「知らん!」
手下たちは尻尾を膨らませ、防波堤の上で右往左往するだけだった。
浜辺では、まだカモメ組が投網に絡まっていた。みゅいとブチローは、歯を食いしばって網を引き戻している。濡れた網は重く、船に引かれ、海に向かってずるずる進もうとする。
「くっ……!」
みゅいの顎が痛む。口の中には塩と砂と羽の匂いが広がっていた。爪を立てた砂は崩れ、肉球が熱くなる。
「ブチ兄、もう少し!」
「やってる……! 俺、今、人生で一番働いてる!」
「猫生ね!」
「どっちでもいい!」
ブチローは大きな体を低くして、全身で網を引いた。頬の傷が月明かりに浮かび、目には涙がにじんでいる。それでも、もう逃げなかった。
ギャアスが網の中で羽をばたつかせる。
「若いのから逃がせ! 上へ行け! 飛べるやつは飛べ!」
「ギャアス、あんたも早く!」
みゅいが叫ぶと、ギャアスは鋭い目でにらんだ。
「俺が最後だ! 群れの頭が先に逃げてどうする!」
「面倒くさいところだけ立派だね!」
「黙れ、灰色の小娘!」
言い合いながらも、網は少しずつ緩みはじめた。若いカモメが一羽、また一羽と空へ飛び上がる。白い羽が満月を横切り、ぎゃあぎゃあと泣きながら夜空へ散っていった。
そのとき、防波堤の向こうの海が、大きく盛り上がった。
黒い背びれが水面を割る。
ヌシだった。
一匹ではない。月光を受けた水面の下に、いくつもの巨大な影が動いている。十メートルを超えるシャチたちが、干物の匂いを追って、湾のすぐそばまで来ていた。
シャケヤンはそれを見た。
顔から血の気が引いたように、目が丸くなる。
「ま、待ってくれ。わしは魚やない。猫や。猫は美味しゅうない。なあ、みゅいはん! 助けてくれ! わしが悪かった! 全部、話します! 黒崎はんのことも、ギャアスはんとのことも、魚のことも!」
みゅいは網を噛んだまま、シャケヤンを見た。
助けたい、と思わなかったわけではない。
でも、いま歯を離せば、カモメ組が海に引きずられる。ブチローだけでは支えきれない。ギャアスも、若いカモメたちも、まだ逃げきれていない。
みゅいは低く言った。
「先に、こっち!」
シャケヤンは防波堤の壁に爪を立てようとした。けれど濡れた石は滑り、爪は空をかくだけだった。
「子分ども! 何してんねん!ホンマ はよ助けんかい!」
手下猫たちは顔を見合わせる。
誰も動かない。
その中の一匹が、小さく呟いた。
「親分……俺らも、用済みになったら、どっか売る気やったんちゃうか?」
シャケヤンの顔が歪んだ。
「黙れ!ぶち殺されたいんか!」
その怒鳴り声で、手下猫たちはさらに後ずさった。
防波堤の下から、チビスケが顔を出した。小さな体で、みゅいたちのほうへ駆け寄ろうとしていたが、ミケコが尻尾で止める。
「まだ近づくんじゃない」
チビスケは海でもがくシャケヤンを見た。
震えていた。
けれど、その目の奥には、さっき自分たち売り飛ばそうとした猫に対して小さな怒りもあった。
シャケヤンが叫ぶ。
「チ、チビスケはん! 助けてくれ! わし、あんさんには優しゅうしてましたやろ!」
チビスケは、少し首をかしげた。
「でも、ぼくたちを売り飛ばそうとしたよね?」
「そ、それは誤解や!」
「あと、ぼく、こ汚くてあまり、売れなさそう、ヌシさんの餌にしたろかって言ってた」
チビスケの声は静かだった。
そして、子猫とは思えないほど冷たく、こう言った。
「ヌシさんも、僕よりシャケヤンさんの方が食べ応えがあって嬉しいと思うよ」
みゅいは思わずチビスケを見た。
「チビ、たまに怖いこと言うね」
「相撲見てるから」
「相撲関係ある?」
その瞬間、海がさらに膨らんだ。
シャケヤンのすぐ後ろで、水面が黒く割れる。白い模様の入った巨大な頭が、ぬるりと浮かび上がった。音はほとんどない。ただ、水そのものが持ち上がるような圧だけがあった。
シャケヤンの叫びが、途中でかすれた。
「ひっ……」
次の瞬間、黒い影が大きく口を開けた。
波が、防波堤へ叩きつけられる。
みゅいは思わず目を閉じた。
大きな水音。
それから、静けさ。
目を開けた時、シャケヤンの姿はもうなかった。水面に残っていたのは、砕けた月明かりと、漂うアジの干物の箱の破片だけだった。
誰も声を出さなかった。
カモメも、猫も、手下猫たちも、ただ海を見ていた。
やがて、ギャアスが網から最後に抜け出し、砂浜に転がるように落ちた。濡れた羽を震わせながら、みゅいを鋭い目でにらんだ。
「……借りが、できたな。。。」
「返してよね」
「魚でか?」
「まずは朝市を荒らさないところから」
ギャアスは不機嫌そうにくちばしを鳴らしたが、反論はしなかった。
そのとき、砂浜の奥から、ざわざわと猫たちの声が聞こえてきた。
みゅいが振り返ると、そこにはハチベエがいた。理屈っぽいハチワレ猫、ハチベエである。その後ろには、潮鳴町中の猫たちがずらりと並んでいた。老猫も、若い猫も、観光客に人気の猫も、いつも日陰にいる猫も。
みんな、今の一部始終を見ていた。
ハチベエは前足をそろえ、真面目な顔で言った。
「皆さんには、決して飛び出さないようお願いしていました。ただ、目撃者になってください、と」
みゅいは目を丸くした。
「ハチベエ、いつの間に」
「根回しです。政治には、記録と証人が必要ですから」
ゴンザが猫たちの中からゆっくり現れた。
「よくやった、ハチベエ」
「恐縮です」
猫たちは、防波堤、浜辺、投網、カモメ組、海を見た。そして、シャケヤンの手下猫たちを見た。
手下猫たちは、もう誰も偉そうにしていなかった。親分を助けることもできず、ただおろおろしていた姿を、町中の猫に見られてしまったのだ。
「シャケヤンは……本当に、俺たちを裏切ったんだな」
「みゅいに罪をかぶせたのも、あいつだったのか」
「魚を分けるって言ってたのに、全部自分のものにするつもりだったんだ」
「黒崎って人間とも、つながってたって……」
ざわめきが広がる。
みゅいは砂浜に座り込んだ。顎が痛い。肉球も熱い。体中が砂まみれだった。
シラタマが横に来て、ため息をついた。
「泥んこ姫、今夜は本当に泥だらけですわね」
「白い姫さまも、ご自慢の白い毛が乱れてるよ」
「見なかったことになさい」
ミケコが笑う。
「二匹とも、いい顔してるよ」
チビスケはブチローのそばに座っていた。
「ブチ兄ちゃん、すごかった」
「俺、怖かったぞ」
「でも逃げなかった」
「……ああ」
ブチローは海を見た。もうシャケヤンはいない。けれど、彼の残した恐怖が、すぐに消えるわけではない。
それでも、ブチローは小さく息を吐いた。
「もう、あいつに魚もらわなくていいんだな」
「そうだね」
みゅいは言った。
「魚は、みんなでちゃんと分ける」
夜明け前、猫神社で臨時の会議が開かれた。
それは、いつもの尻尾会議ではなかった。ゴンザはそれを「失敗会議」と呼んだ。
「何を失敗したか、皆で確認する会議じゃ」
猫たちは石段に座り、静かに耳を傾けた。
失敗は、たくさんあった。
魚をたくさん持ってくる猫が正しいと、簡単に信じたこと。
にこにこ笑う猫を、いい猫だと思い込んだこと。
ブチローの怪我に、もっと早く気づけなかったこと。
みゅいの濡れ衣を、きちんと調べずに罰したこと。
弱い猫や子猫の居場所が、誰かの取引材料になっていたこと。
誰も大声で責めなかった。
ただ、ひとつずつ確認した。
ハチベエが小石を並べながら言う。
「今後、魚の量だけで政治力を判断する制度は廃止すべきです」
「賛成」
シラタマが言った。
「魚を集める力と、魚を分ける心は別物ですわ」
ミケコも頷く。
「それと、怪しい笑顔には気をつけることだね」
ブチローが小さく手を上げた。
「あと、誰かが怪我して『転んだ』って言ったら、もう少し疑ってくれ」
猫たちが少しだけ笑った。
最後に、ゴンザがみゅいを見た。
「みゅい。おぬしは何を失敗した」
みゅいは少し考えた。
「あたしは……最初、面倒くさいことから逃げようとした。。。」
港の空が、少しずつ白くなっていく。
「でも、逃げたら、もっと面倒なことになるってわかった」
チビスケが尻尾を立てた。
「みゅい姉ちゃん、会長になる?」
みゅいは一等ひなたの石段を見た。
朝日が差し始め、石がじんわり温まりはじめている。
魚屋のほうから、源さんの声が聞こえた。
「おい! 浜に魚が山ほど打ち上がってるぞ!」
猫たちの耳が一斉に立った。
みゅいは尻尾をぴんと上げた。
「会長になるかは知らない。でも、魚は分ける。昼寝場所は守る。子猫は売らせない。あと――」
みゅいは胸を張った。
「あたしは可愛い」
境内に、ようやく、どっと笑い声が戻った。
潮鳴町の朝が始まる。
目覚まし時計より先に、漁師たちの声が響く。魚の匂いが風に乗る。カモメが遠くで鳴く。
そして、野良猫みゅいは、今日も一等ひなたを守るため、魚屋へ向かって歩き出した。




