暗闇の導き手
更新できました。
一筋の光すら届かない、完全な暗闇。
数千、数万トンにおよぶ氷塊の質量によって入り口が完全に圧潰したほら穴の内部は、恐ろしいほどの静寂に包まれていた。
ドン!!
ドォン!!
三度目の衝撃で松葉杖が軋む。
「くそっ……!」
ガレンは歯を食いしばった。
「……駄目だ」
ガレンが松葉杖の先端を、入り口を塞いだ氷の壁へと全力で叩きつけた音だった。しかし、返ってきたのは、自らの腕を痺れさせるだけの、微動だにしない絶対的な「質量の壁」の感触だけだった。
「だめだ、びくともしねえ……。俺の力じゃ、この質量をひっくり返すのは逆立ちしても不可能だ」
ハァハァと荒い息を吐きながら、老騎士が苦渋に満ちた声を出す。ガレンの『不倒の盾』は、敵の攻撃を受け止め、固定するためのものだ。目の前にある、山そのものが崩れてきたような圧倒的な物量を強引に押し退けるような芸当は、彼の技能の範疇の外にあった。
何も見えない。光源となる道具など、誰も持ち合わせてはいなかった。
視界を奪われた暗黒の中で、エイドは壁の向こうの絶望的な氷の厚みを想像し、焦燥から思考を巡らせる。
「ルゥ、ガントレットの炎で、強引にこの氷を焼き溶かせますか……!?」
エイドの切羽詰まった声による指示。
暗闇の中で衣擦れの音がした。ルゥは何の迷いもなく、ガントレットを氷壁へ向ける。パチ、と小さな点火の予備音が闇に爆ぜる。
だが、その微かな火花の音で、エイドは我に返り、ハッと息を呑んだ。
「――待って、ルゥ! ストップ、点火しちゃダメだ!」
エイドは慌ててルゥの手元を暗闇の中で手探りで制止した。
危なかった。この狭い閉鎖空間で大火力を燃やせば、一瞬で周囲の空気が消え失せる。焼き溶かす前に自分たちが窒息するか、熱による急激な気圧の変化で、残りの天井まで巻き連れて崩落を招くところだった。
「ごめん、ルゥ。僕の指示が悪かった。火は使えない……」
エイドの声に、闇の中のルゥはただ静かにガントレットを下げ、微動だにせず次の命令を待つ気配だけを返した。
「チッ、詰みかよ……」
ガレンが壁に背を預け、ずるずると座り込む気配がした。
水も平気、魔物も倒した。霊峰の環境を完全に攻略したと思った直後に訪れた、物理的な閉塞。外の猛吹雪からは隔離されたが、それは同時に、このまま静かに干からびるのを待つだけの「生棺」に閉じ込められたことを意味していた。
誰もが焦燥に駆られ、限られた酸素を消費していく。
トトだけが、視覚の消えた闇の中で、ただ静かに壁の前に佇んでいた。
トトはそっと片手を伸ばし、目に見えない氷壁の表面へと触れる。
「……静か」
ぽつりとしたトトの呟きに、エイドがハッとして気配のする方角を振り返った。
「トト?」
トトはエイドの言葉には答えず、壁に直接、自らの耳をぴったりと当てた。
「……聞こえる」
「何が、聞こえるの?」
エイドが声を殺して尋ねる。
「向こうで、風が鳴ってる」
トトの細い指先が、氷塊と岩肌が複雑に噛み合っている境界の、ほんのわずかな亀裂をなぞった。
幼い頃から暗闇で生き延びるためだけに叩き込まれた技術。
音の反響、空気の流れ、わずかな温度差。
それらを積み重ねれば、目がなくても空間は見える。
さらに、トトは指先を壁に這わせ、数歩先へと移動する。
「ここ……冷たい」
指先をさらに横へ滑らせる。
「……ここ、少し暖かい」
「暖かい……?」
闇の向こうで、ガレンが怪訝そうに呟く。
「空気が動いてる」
トトが触れていたのは、岩肌の微細なクラック(割れ目)だった。
指先の皮膚の、本当にわずかな温度差。外から吹き込む冷気と、このほら穴の内部の暖かさが交差する場所。気流が発生していれば、そこには必ず、人間の皮膚でしか感知できないほどの「温度の揺らぎ」が生まれる。
超能力ではない。極限まで磨き上げられた、暗殺者の生存技能。
「入り口は、完全に潰れてる。でも……この岩の割れ目の向こう、氷が薄い。空気が流れてる。ここを少しずつ削れば、外に繋がる別のルートが出せる」
暗闇の中で、トトの気配がまっすぐにエイドへと向けられた。
その声には、絶望などひとかけらもなかった。白銀の世界では無力だった隠密のスペシャリストが、この完全な暗黒の中で、今、最も頼れる「案内人」としてエイドたちの前に立っていた。
「……トト、凄いよ。ガレンさん、ルゥ! 道はあります!」
エイドの声に、再び希望の火が灯った。
「トトが指した場所の氷を、ピンポイントで削り落とす。ルゥ、ガントレットの出力を最低にして、スリットから細い熱線だけを出せますか? 酸素の消費を最小限に抑えながら、、氷の結合部だけをピンポイントで脆くするんです」
闇の中で、衣擦れの音と共にルゥが静かに頷く気配がした。
ボルグの精密な設計図がここで再び活きる。カチ、とガントレットの極小のスリットを絞り、ルゥは集中して指先ほどの小さな、しかし超高密度の熱線を、トトの指示した岩の割れ目の氷へと照射した。
ジュウウ……と、空気を汚さない最小限の音を立てて氷の結合部が融解していく。
「ガレンさん、そこです。力任せに叩くんじゃなく、あの融けた境界線へタガネを。僕が軸を支えます!」
「おうよ、小僧! タイミングを合わせろ!」
エイドが暗闇の中でガレンの身体を後ろからガチリと支え、老騎士の全体重がタガネの先端へと一点集中するよう体勢を完全制御する。ガレンの松葉杖が、今度は打撃の『杭』となって、ルゥが熱で脆くした氷の継ぎ目へと正確に叩き込まれた。
――キィィィン!!
硬質な割れ音が、静寂のほら穴に鋭く響き渡る。
トトの言った通り、そこは巨大な氷塊の塊ではなく、複雑に隙間が噛み合わさった「最も薄い構造の壁」だった。ガレンの一撃によって、岩肌のクラックを覆っていた氷がバラバラと剥がれ落ちていく。
数度、同じ完璧な連携を繰り返した。
ルゥが熱し、エイドが支え、ガレンが穿ち、トトが次の気流の拠点を指し出す。何も見えない暗闇だからこそ、4人の呼吸は驚くほど深く同調していた。
そして――。
パリリン、と、これまでとは明らかに違う、軽やかな凍てつく音が鳴り響いた。
直後、すべてを塗りつぶしていた黒の最奥に、一筋の、針の穴ほどの『白い光』が突き刺さった。
「……光だ」
エイドが声を漏らす。
その小さな穴から、ヒュウウウと霊峰の冷烈な、しかし確かに生きた「外の空気」が勢いよく流れ込んできた。
「がはは! 抜け口だ! どきな、最後は俺がぶち抜く!」
ガレンが喜びの声を上げ、松葉杖を構え直す。エイドがその腰を完璧にロックした。
老騎士の咆哮と共に放たれた渾身の一撃が、光の穴の周囲の氷壁を完全に粉砕する。
ドシャァァン!!
凄まじい光量と共に、白銀の世界が視界いっぱいに広がった。
押し寄せる冷気と眩しさに目を細めながら、四人は崩落したほら穴の「横穴」から、這い出るようにして霊峰の雪原へと脱出した。
外は、まだ相変わらずの猛吹雪だった。
だが、四人の手には、しっかりと眩い青色に煌めく『氷晶石の核』が握られている。
エイドは大きく息を吸い込み、冷たい空気を肺に満たした。それから、隣で静かに佇む暗殺者の少年に、心からの敬意を込めて微笑みかける。
「ありがとう、トト。君の目がなければ、僕たちはあそこで終わりだった」
トトは袖口でそっと自分の耳に触れ、それからふいと視線を逸らした。
「……僕は、暗闇のほうが得意だから。当然のことをしただけ」
トトはそれだけ言って歩き出した。
エイドはふと振り返った。
先ほどまで彼らが閉じ込められていたほら穴は、崩れた雪と氷に完全に飲み込まれ、そこに洞窟があった痕跡すら残っていなかった。
「……本当に、間一髪だったんですね」
ガレンは鼻を鳴らす。
「誰か一人欠けてりゃ、今頃あそこで氷漬けだったな」
「ええ本当ですね。」
ガレンが雪を蹴り、先頭に立って歩き出した。
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