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冷気と空虚の境界線

更新できました。

「――おい。本当に死んで帰ってくるんじゃないよ、この馬鹿垂れたち」

 早朝の薄暗いロビーに、マーサの少しハスキーな声が響いた。

 エイドは預かっていた大部屋の大きな鉄の鍵を、木製のカウンターの上へ静かに滑らせる。冷たい金属音が、出発前の静寂を心地よく引き締めた。

「お世話になりました、マーサさん。おかげさまで、全員最高のコンディションです」

 隣では、たっぷりと休息を取ったルゥがもこもこマントのフードを深く被り、言葉を発することなく静かに佇んでいる。トトは無言でナイフの調子を確かめていた。ガレンにいたっては、いつもの獰猛な笑みを浮かべて松葉杖をブラつかせていた。

「ふん、心配すんな婆さん。今の俺たちには、頼れるサポーターと、頼もしいガキどもがついてる。……行ってくるぜ」

「はいはい、わかったよ。……ほら、これ持ってきな。あんたたちの分の『朝飯』だ。山の上じゃロクなもん食えないんだから、ふもとのうちに腹に入れておきな」

 マーサがぶっきらぼうに差し出してきたのは、手早く油紙で包まれた特製の肉厚なミートパイだった。まだほんのりと温かい。

 エイドはそれをしっかりと受け取り、深く頭を下げて宿を後にした。

     *

 霊峰の麓、登山路の起点となるベースキャンプ。

 前回はここでただ圧倒されていたが、今回は四人の空気がまるで違っていた。エイドはザックを開け、手際よく各自の装備の最終確認を始める。

 エイドはまず、ルゥの前に膝をついた。ルゥはフードの奥から、じっとエイドを見つめ返してくる。

「ルゥ、ボルグさんのガントレットの調子はどうですか?」

 問いかけると、ルゥはもこもこマントの袖口から鈍色の金属筒を覗かせ、小さくカチカチと音を立ててみせた。そして、問題ない、と示すように小さく一度だけ頷いた。

「トト、防寒具はそのままでいいんですね?」

「……うん。光が爆ぜる瞬間、僕は消えるから。問題ない」

「よし。そしてこれが、今回の僕たちの生命線です」

 エイドは、自身が持つドワーフの遺物である本物の『魔法瓶』と、ボルグが端材で叩き出した三本の『簡易版魔法瓶』をテーブルに並べた。

 中には、エイドが調合した「魔獣の脂」を極微量に混ぜ、融点を下げた水が満たされている。外壁はすでに山の冷気で冷え始めているが、二重の金属壁に挟まれた「空虚」が、内側の水を完璧に守り抜いていた。

「これなら数時間は結晶化しません。各自、喉が渇く前に一口ずつ、確実に水分を補給してください」

「よし、これで水と足場、火力の問題はクリアだな。んじゃ、出発の前にマーサのパイを腹に詰めておくか」

 ガレンがそう言うと、自身の腰に下がった小さな革袋――空間拡張が施された貴重な魔導具『マジックバッグ』に手を突っ込んだ。

 そこから、まだホカホカと湯気を立てている、先ほどマーサから貰ったミートパイの包みが次々と取り出される。

「おお、まだ温けえ。マジックバッグの中は時間の流れが弛いからな。やっぱりこれに限るぜ」

 ガレンが豪快にパイを噛み砕くのを見ながら、エイドは木椀に水を注ごうとした手を、ピタリと止めた。

 ルゥも、配られたパイを持ったまま動きを止め、じっとガレンの腰の革袋を見つめている。トトにいたっては、無言でエイドとガレンの顔を交互に往復させていた。

「……あの、ガレンさん」

 エイドが、引きつった笑みを浮かべながら口を開いた。

「なんだ、小僧。お前も早く食え、美味いぞ」

「その、ガレンさんのマジックバッグって……中の時間はどうなってるんですか?」

「あ? 言ったろ、時間の流れがクソ遅いんだよ。だから入れたもんが腐らねえし、温かいもんは温かいままだ」

「……じゃあ、そこに僕たちの予備の水筒を、最初から全部入れておけば、結晶化なんてしなかったんじゃないですか……?」

 エイドの静かな突っ込みに、ガレンがパイを咀嚼する動きがピタリと止まった。

「あ」

 ガレンが間抜けな声を漏らした瞬間、ルゥの目がすうっと細くなった。フードの奥から、この上なく冷ややかな、ジト目という言葉が相応しい視線がガレンに突き刺さる。奴隷という立場上、言葉で責めることは決してしないが、その無言の視線には「この脳筋騎士……」という明らかな呆れが満ちていた。

「……あ、じゃないですよ。普通に大容量のマジックバッグじゃないですか。外の冷気や魔素の『波』に晒されないなら、水が結晶化するのを最初から防げたはずです」

「いや、待て小僧! これ、容量はそこそこあるが、戦闘中に俺が松葉杖を突きながら、いちいち袋を開けてお前らに水筒を配る余裕なんてねえだろ! 結晶化は防げても、戦いながら飲むには各自が持ってた方が早い!」

「それはそうですけど……予備の水は全部それに入れられたじゃないですか。前回のあの全滅しかけた苦労は一体……いや、違うか」


エイドは小さく首を振った。


「あの失敗がなければ、水筒も、ガントレットも、トトの戦い方も思いつかなかった」


「遠回りでしたけど、無駄じゃありませんでしたね」


 トトも静かにため息をつく中、ガレンはバツが悪そうに頭を掻きながら、「ほら、とにかく食うぞ! 時間がもったいねえ!」と無理やり話を打ち切ってパイを口に押し込んだ。

思わぬ大ポカに脱力しつつも、おかげでチームの緊張感は良い意味でほぐれた。

腹を満たした四人は、今度こそ真剣な面持ちで、白銀の斜面へと歩を進めた。

     *

登山路を上ること数時間。

魔力を帯びた風が徐々に強まり、視界が白く染まり始める。前回、最初の全滅の危機を迎えた「中継地点」の少し手前だ。

「――風が強くなってきた。無理をせず、あそこの洞窟で一休みするぞ」

ガレンの指示で、俺たちは岩肌にぽっかりと開いた小さな洞窟へと滑り込んだ。

吹き付ける猛吹雪を岩壁が遮り、ゴォゴォという風の音が遠ざかる。

「各自, 水筒の確認。簡易版の猶予はここからだ」

エイドの言葉に、ルゥが素早く自身の簡易水筒の蓋を回す。トトもそれに続いた。

トトトト、と澄んだ音が洞窟内に響く。簡易版の気密性は本物より劣るはずだが、エイドの魔獣の脂の配合が効いている。水はまだ、一粒の結晶も作らず、瑞々しく生きていた。

 ルゥは水筒の水を一口含むと、満足そうに喉を鳴らし、それからエイドに向けて小さくペコリと頭を下げた。

「……完璧です。まだ凍る気配はない」

エイドは水筒を収め、洞窟の奥の暗闇, そしてその先にある猛吹雪の白に目を向けた。

この洞窟を抜ければ、前回、ただ逃げ帰るしかなかった場所。


だが今回は違う。


水は凍らない。


炎は消えない。


影は消えない。


そして――盾は、もう独りではない。


誤字脱字と因果関係に違和感あれば教えてください。

ブックマーク、感想いただけると嬉しいです。

更新は今日できなかったら明後日になると思います。

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