霊峰遠征開始
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ファキオを出発して3日でなんとか到着することができた。聳え立つ山は前世でもみたことがないほどの険しさだった。
登り始め標高が上がるにつれ、吹き付ける風の冷たさが刃物のような鋭さを増していく。
視界のすべてが純白に染まる極寒の霊峰。その登山道の入り口で、エイドは一度足を止め、背後の三人を振り返った。
「全員、マスクの密閉具合はどうですか? 息苦しさがあればすぐに言ってください」
エイドの問いかけに、ガレンは首にかけた黒い硬質革のマスクを叩いて不敵に笑った。
「いや、上出来だ小僧。炭鉱のガス除けがまさか雪山で役に立つとはな。冷気が直接肺に入らねえだけで、これほど呼吸が楽になるとは思わなかったぜ」
その横では、ルゥがもこもこのフード付き防寒マントに身を包み、大きなマスクに顔を半分埋めながら、静かにコクコクと頷いている。どこか小動物めいた姿だが、その足取りは確かだ。トトも黒い魔獣革のインナーの襟元を確かめながら、静かに気配を殺してエイドの後に続いていた。
(よし。ボルグさんの『防塵・防毒マスク』による呼吸補助、そして各自の防寒装備は完璧に機能している)
全員の歩調を一定に保ち、汗をかいて身体を冷やさないよう、細心の注意を払いながら雪を踏み締めていく。これならいける――エイドの心に、確かな手応えが芽生え始めていた。
だが、霊峰という『現場』の理不尽さは、エイドの想定を遥か手前から嘲笑っていた。
「……そろそろ最初の休憩にしましょう。各自、水分を補給してください」
登山開始から3時間。開けた岩陰に身を寄せ、エイドは腰から水筒を外した。
歩行時の振動で水が凍るのを防ぐため、水筒をしっかりとザックの中央に固定し、分厚い布で幾重にも包んで保温していたはずだった。
登山開始から3時間。開けた岩陰に身を寄せ、エイドは腰から水筒を外した。
歩行時の振動で水が凍るのを防ぐため、水筒をしっかりとザックの中央に固定し、分厚い布で幾重にも包んで保温していたはずだった。
だが、布を外して取り出した水筒の表面を見た瞬間、エイドの目が細められた。
金属のボトル全体を、見たこともないほどびっしりと白い霜が覆っている。
(おかしい。これだけの保温をしていたのに)
違和感を覚え、中身を確かめるために水筒を軽く横に振った。
――シャリ。
かすかな不穏な音が響いた、次の瞬間だった。
水筒の口から、まるで生き物のように白い結晶の筋が走り、ボトルの内部へと一気に伝播していった。エイドの視線の先で、揺れていたはずの液体が瞬く間に白く濁り、完全に動きを止める。
蓋を開けて傾けても、一滴の液体も落ちてこない。中には透明な氷が、容赦なく底までカチカチに詰まっていた。ただの重い鉄の塊だ。
「……嘘だろ。振った瞬間に、内部まで一気に結晶化した……?」
「がはは! 言わんこっちゃねえ。小僧、霊峰の寒さをナメんじゃねえぞ」
ガレンが松葉杖に体重を預け、白い息を吐きながら呆れたように笑う。
「ありゃ魔力が混ざった吹雪だ。その微細な魔力の粒が、ボトルに染み込んで水を凍らせる『核』になっちまう。ただの水をそのまま持ってくりゃ、ちょっとした衝撃で一瞬で全部おしまいだ。魔獣の脂を混ぜて融点を下げるか、湯沸かしの魔道具でもなきゃ、ここでは半日で乾き死にするのがオチだ」
ルゥも配られた自分の水筒をコンコンと小さな指で叩き、中から響く鈍い音に、もこもこマントの下で心底困ったように眉を寄せていた。
環境に対する予測の甘さに、エイドが唇を噛んだ――まさにその瞬間だった。
――ガァァァァァァッ!!!
突如、背後の猛吹雪を引き裂いて、純白の剛毛に覆われた巨大な魔獣が斜面の上方から躍り出てきた。結晶化した鋭い爪が、陽光を浴びてぎらりと輝く。霊峰の固有種だ。
「チッ、歓迎の挨拶にしては手厳しいな!」
ガレンがすぐさま鉄剣を抜き、前に出ようとする。
しかし、ここは膝まで埋まる極寒の深雪だ。右膝を庇い、松葉杖の石突きを雪深く突き刺して固定しなければ動けない老騎士には、雪上を滑るように動く魔獣の機敏な動きを捉えきれない。大振りの一撃は、無情にも空を切った。足場が悪すぎて、圧倒的に手数が足りないのだ。
「ルゥ、援護を――!」
エイドの叫びに応え、ルゥが即座にもこもこマントから両手を突き出した。
標的は、鋭い結晶の爪を振り上げる巨大な魔獣。本来なら、彼女の放つ爆炎が一瞬でその身を焼き尽くすはずだった。
だが、彼女の掌から放たれたのは、激しい業火ではなかった。
ぼふっ、と湿った音が響き、かすかな火花が散る。
(――点火しない……!?)
ルゥの掌から放出された魔力は、確かにそこにあった。しかし、それが「炎」という形に変換される手前で、まるで目に見えない壁に吸い込まれるように、みるみる霧散していく。
この霊峰の上層は、極限の寒さだけでなく、空気中の『魔素密度』が異常なほど低かった。魔法の着火剤となるべき魔素が足りない環境下では、どれだけ魔力を放出しようとも熱変換が成立しない。形を成さなかったエネルギーは、冷たい猛吹雪の中にただの無駄な熱量として、一瞬で逃げていってしまった。
「ガァ!?」
ルゥの瞳が驚愕に見開かれた。
魔法のキレや威力が落ちるといった次元ではない。根本的なシステムレベルで、自慢の炎を完全に封じられている。言葉を喋れない彼女は、もこもこのフードを小さく震わせ、悔しそうに奥歯を噛み締めることしかできなかった。言葉を喋れない彼女は、もこもこのフードを震わせ、悔しそうに小さな奥歯を噛み締めることしかできなかった。
さらに最悪なのはトトだった。
遮蔽物のない、見渡す限り白一色の雪原。そこには、彼女の最大の武器である「影に潜む隠密」も「死角からの暗殺」も、成立する余地がどこにもなかった。そしてこれだけの寒さの中だと息が白く見えてしまい。身体からは薄らと湯気がでている。コントラストの激しい純白の世界では、黒い魔獣革を纏ったトトの輪郭はあまりにも明瞭すぎた。ただの無防備な獲物として完全に魔獣の視界に捉えられ、鋭い爪がその細い身体へと振り下ろされる。
「トトっ!!」
エイドは身体が勝手に動いていた。
滑り込むようにトトの襟首を掴んで後ろへ引き剥がし、代わりにミスリル鋼の長剣を斜めに構え、魔獣の爪を受け流そうとする。
――ガギィィィンッ!!
受け流す「角度」は斜め45度。ボルグの大槌すら逃がした、完璧な技術だった。
だが、ここは舗装された床でも、硬い土の地面でもない。エイドが衝撃を受け流した瞬間、彼の両足の支えとなっていた「雪の斜面」が、ズズズと大きな音を立てて崩落した。
足場そのものが耐えきれず、エイドはそのまま雪の中に深く埋もれ、体勢を崩してしまう。
(クソ……強すぎる。個人の実力云々の話じゃない。環境のせいで、こっちのスキルが全員完全に『死に体』だ……!)
完璧なマスクを用意し、緻密な計画を組んだつもりだった。だが、そんな小細工を嘲笑うほど、今の自分たちの「純粋な戦力」が、この山の生態系にまるで届いていない。戦うための前提条件すら満たせていないのだ。
「全員、引きます!! 走って山を降りろ! ここは今の俺たちが来ていい場所じゃない!」
エイドの頭脳が出した結論は、プライドも何もない、完全な「初手撤退」の指示だった。
命からがら斜面を転がり落ちるようにして、エイドたちは麓のベースキャンプへと逃げ帰るしかなかった。
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