誰がための祈り
なんとかできました。
一番鶏の声が聞こえるよりも早く、俺は重い瞼を持ち上げた。39歳という年齢のせいか、あるいは習慣か、慣れない異世界の安宿でも体は勝手に「起床時間」を告げてくる。
隣のベッドでは、ガレンがまだ深い眠りの中にいた。
俺はそっと近づき、彼の様子を窺う。昨夜、鎧を解く手伝いをした際に目にした光景が脳裏に焼き付いていた。露わになった彼の体は、数えきれないほどの古傷に覆われ、節くれ立った筋肉が歴戦の過酷さを物語っていた。この老騎士がどれほどの地獄を潜り抜けてきたのか、その「重み」を改めて実感する。
俺はガレンの太い脚を自分の膝の上に乗せた。
「……何をしている、小僧」
眠っていたはずのガレンが、掠れた声で呟く。
「マッサージです。このままだと今日、炎症でもっと動けなくなりますよ」
男は、腫れ上がった膝の周囲を、深く、的確な圧で解していく。
(……なぜ、俺はこの力加減を知っているんだ?)
かつて、長いあいだ介護をしていたという漠然とした確信はある。だが、顔も、名前も、共に過ごした時間の記憶も、厚い霧の向こう側に消えて思い出せない。ただ、指先だけが、重い体をどう支えれば楽になるのかを「形」として鮮明に覚えていた。
「……ふん。余計な世話だと言いたいが、確かに少しは楽になるな」
ガレンの低い声が、まだ薄暗い部屋に溶ける。
夜が完全に明けた頃、身支度を整え、俺たちは一階の食堂へと下りた。運ばれてきたのは、焼きたての硬いパンと、具材の少ない塩味のスープだ。
俺はパンを小さくちぎり、ガレンが食べやすいようにスープに浸した。
「ガレンさん、無理に噛まなくていいですから。しっかり食べて体力を戻してください」
「……小僧。貴様は戦士の世話をしているのか、それとも隠居した年寄りの面倒を見ているのかどっちだ」
不貞腐れたような口調だが、ガレンは差し出されたスープを一口ずつ、ゆっくりと胃に収めていく。その様子を見届けてから、俺も自分の分を口にした。昨日の行軍で使い果たした体に、温かい液体が染み渡る。
俺は昨日武器屋で細かく指定して発注した「松葉杖」を受け取ってきた。
「ガレンさん、これを。今日からは、そいつがあなたの『三本目の足』です」
革巻きの持ち手と滑り止めの溝。俺はこの杖を、彼と共に歩み続けるための新たな誓いとして手渡した。ガレンはそれを忌々しげに見つめたが、俺の視線の強さに圧されたのか、小さく鼻を鳴らして受け取った。
村を発とうとした、その時だった。
路地裏から悲鳴が上がる。駆けつけると、荷馬車の下敷きになった村の男が、血の海の中で喘いでいた。
「もう、助からねぇ。頼む、せめて……楽にしてくれ……」
俺は震える手で『ミゼリコルディア』を抜いた。だが、必死に生を求める男の、絶望に満ちた瞳を見た瞬間、右手が石のように固まった。向けられた「死」の期待に、どうしても刃を突き立てられない。
その時、背後から大きな、そして鉄のように冷たく固い手が、俺の右手にそっと添えられた。
「小僧、目を逸らすな。これはお前の『仕事』だ。救いでも慈悲でもない。最期に遺された者の未練を断ち切る、お前にしかできん義務だ」
ガレンの声に導かれるように、短剣が男の胸へと沈んでいく。
その瞬間、頭の中に流れ込んできたのは、温かな湯気と包丁の音だった。男は村の食堂の主だった。彼が一生をかけて馴染ませてきた**「家庭料理の技術」**と、今日作るはずだった煮込み料理の匂い。そして、残される家族への切実な未練。
「……っ!」
俺は男の亡骸のそばにあった路銀の袋を拾い、駆けつけた妻と娘に差し出した。
「『スープの味は、お前に任せる。娘の誕生日には……』……そう言っていました」
男の記憶から盗んだ想いを、さも最期の言葉のように伝える。妻が泣きながら俺の手を握り、感謝を口にするたび、俺の心は鋭い刃で削られるようだった。
俺は一人、村の端にある教会の懺悔室に入った。
「……懺悔します。俺は今、人の一生を盗みました。生きたいと願う男の日常を喰らい、料理の腕なんていう滑稽な力を得てしまった。これを『慈悲』と呼ぶには、俺の心はあまりに汚れています」
「自分でもどうしてミゼリコルファを抜いたのかわからない、気がついたら動いていた。」
「私は殺したい、奪いたいと無意識で願ってしまったのではないのか、冷たくしないと約束しながら」
木格子の向こう側で、聖職者が静かに溜息をつく。
「葬儀師殿。それは略奪ではなく、彼がこの世に残した重荷を、あなたが代わりに背負ったのです。罪を感じるその心が、まだあなたが人間である証拠ですよ。
そして無意識で動いたのはあなたが仕事に真面目な人だからではないでしょうか。」
教会を出ると、ガレンが新しい松葉杖を突き、不器用な足取りで待っていた。
「……終わったか、小僧」
「ええ。行きましょう。……次は、もっとまともな仕事で路銀を稼ぎたいですね」
俺は、新しく得た「料理」の記憶が混ざり込んだ右手を強く握り締め、老騎士と共に村の門を潜った。
明日以降に頑張って更新します。




