ともし火の名
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「これからは君さえ良ければ僕が家族になるよ。名前は言えるかい?」
エイドの真っ直ぐな言葉に、ハーフリングの少年の肩がピクリと跳ねた。
少年は小さな唇を微かに震わせ、何かを言おうと喉を鳴らす。しかし、1年間もの間、暗い地下で誰とも言葉を交わさず、ただの「壊れた商品」として扱われていた喉は完全に張り付いていた。
「……ぁ……、……ぅ……」
掠れた切ない吐息が漏れるだけで、意味のある言葉にはならない。少年はすぐに諦めたように、再びきゅっと唇を噛み締めてうつむいてしまった。
「無理に言わなくていいよ。ゆっくりでいいんだ」
エイドは焦らせるような真似はせず、優しく少年の赤い癖毛に手を置いた。
「じゃあ、君の本当の名前が呼べるようになるまで、仮の名前をつけよう」
エイドは少し考え、彼の髪と、体内に秘められたあの圧倒的な炎の魔法を思わせる色から、ひとつの響きを選んだ。
「じゃあ、ルゥ。……ルゥ、というのはどうだ?」
「ルゥ、か。うん、響きも可愛いし、あたたかそうでいい名前だね」
トトが優しく微笑みかける。ルゥはただじっと、自分の泥まみれの足元を見つめているだけだったが、新しく与えられたその名前を拒絶することはしなかった。ただ、光の消えた瞳の奥が、ほんの少しだけ揺れたように見えた。
「よし、決まりだ。ルゥ、宿に戻る前に、まずはその格好をどうにかしよう。トトさん。近くにいい衣類店はあったか?」
「うん、あっちの市場の角に、旅人向けの丈夫な服を扱ってるお店があるよ。今度の霊峰に向かうほどの専門的な防寒具はないけど、ひとまずルゥの普段着は揃えられるはずだよ。行ってみよう」
トトの案内で、三人は市場の片隅にある衣類店へと向かった。
これから始まる旅は、決して生易しいものではない。気候の急変や夜の冷え込みに備える必要があった。
店に入ると、エイドとトトはルゥのために実用的な普段着をいくつか見繕った。エイドは自身の目で、繊維の丈夫さや縫製を素早くチェックしていく。選んだのは、肌触りの良い丈夫な麻のシャツと、動きやすい仕立てのズボン。
「ルゥ、これを着てみて」
トトが手渡したのは、厚手のウールで織られた、深い緑色の防寒マントだった。内側には柔らかな毛皮が裏打ちされており、風を一切通さない頑丈な作りになっている。
ルゥは差し出された衣服を、感情の失せた瞳で見つめ、言われるがままにおそるおそる受け取った。
奴隷商館で与えられていた家畜のようなボロ布とは違う、本物の衣服。それを身にまとわされた瞬間、外界の冷気から守られたルゥの小さな身体の震えが、少しだけ収まった。
「よし、宿屋へ帰ろう」
三人で宿屋へ戻ると、厨房からはすでに、これまでにないほど濃厚で、暴力的とも言える芳醇な肉の香りが漂っていた。
「おかえり、エイド! ちょうどいいところに来たね!」
厨房から顔を出した女将さんが、汗を拭いながら満面の笑みを浮かべた。その手にある大鍋の中では、茶褐色に透き通った極上のスープが静かに泡を立てている。
「見ておくれよ! あんたが以前試したスジ肉の調理法、私も挑戦してみたよ。何度も丁寧にアクをすくいながら、香草も入れて丸一日じっくり煮込んでみたんだ。……魔物の臭みなんてこれっぽっちもない! それどころか、肉がスープに溶け込んで、とんでもなく濃厚なコクが出てるよ!」
「大成功ですね、女将さん。これなら教会の聖水不足に悩まされることもない。宿の新たな名物になるかもしれないですね」
エイドは満足げに頷いた。
「おや……? その子は、昨日話してた……新しい仲間の魔術師かい?(…奴隷を買うことに決めたんだね)」
女将さんが、エイドの後ろに隠れるように立っているルゥに気づいた。新調したばかりの深緑のマントを羽織り、それでもまだ死んだ目をしている小さなルゥを見て、女将さんはすべてを察したように優しい目を向ける。
「そうかい。よろしくね、ルゥ。……よし、お腹が空いてるんだね。今、一番美味いところを出してあげるから、そこに座っておいで!」
食堂の木製のテーブル。ルゥの前に、なみなみと注がれた『すじ肉の煮込み』の木椀が置かれた。
スジ肉は原形を留めないほどトロトロに煮込まれており、黄金色の脂が表面にキラキラと輝いている。
ルゥは目の前の温かい料理を前にしても、どうしていいか分からず、ただじっと見つめていた。
「ルゥ、食べてごらん。美味しいよ」
エイドが木匙を握らせ、優しく促す。
ルゥはおずおずと匙を動かし、スープと、口の中で解けるほど柔らかくなったスジ肉を小さなお口へ運んだ。
「――っ」
ルゥの身体が、一瞬で固まった。
口内に広がる、肉の圧倒的な旨味。じわりと喉を通り、胃の腑へと落ちていく圧倒的な熱。これまで飢えと冷えに晒され続けていた内臓が、歓声を上げるように温められていく。
呼びかけにも、新しい服にも、ほとんど反応を示さなかったルゥの目から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出し、スープの皿へと落ちていった。
「焦らなくて良いから、ゆっくり食べなよ」
トトがそっとルゥの背中に手を当て、優しくさする。
温かい服で外側から包まれ、美味い飯で内側から満たされる。
どんな優しい言葉よりも、その確かな「衣食の温もり」だけが、少年の凍てついた心の防壁を、静かに、だけど確実に溶かし始めていた。
ルゥがスープを飲み干し、少し落ち着いた頃合いを見計らって、女将さんがエイドを少し離れた厨房の近くへと手招きした。
「エイド、ちょっといいかい?」
「はい、何でしょうか、女将さん」
女将さんは食堂でトトと並んで座っているルゥをちらりと見やり、それからエイドに声を潜めて微笑んだ。
「あんた、あのハーフリングを仲間に引き入れたんだろう? これから遠征までの間、荷物の整理や作戦会議もあるだろうし……どうだい、今より広い続き間の部屋へ移るかい? あそこならベッドも増やすスペースがあるし、4人で集まっても窮屈じゃないよ」
「それはありがたい申し出ですが……追加の部屋代がかかりますよね? 手持ちの予算と相談させてください」
エイドがそろばんを弾くように考えようとすると、女将さんは笑ってその肩をパシッと叩いた。
「バカお言い。追加料金なんていらないよ! 今料金もらっている残り4日間、自由に使っておくれ。……今まで、あんたにはこの宿のことで助けてもらったからね。今回のスジ肉の件だってそうだ、あんたのおかげで聖水がなくても店を続けていける目処が立った。これはその、私からの精一杯のお礼だよ。」
女将さんの温かい言葉に、エイドは胸が熱くなるのを感じた。
「……ありがとうございます、女将さん。お言葉に甘えて、お礼を受け取らせていただきます」
「ふふ、いいってことさ。さあ、そうと決まれば、ガレンの奴も呼んでさっさと荷物を上の部屋へ運んじまいな!」
女将さんは快活に笑うと、さっそく新しい部屋の鍵をエイドの手へと握らせるのだった。
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