ファキオへの帰還。
更新できました。
夜間警備の張り詰めた空気が明け、東の空から昇ってきた朝陽が街道を白く、眩しく照らし出す頃、馬車はついに目的地である街の手前、数キロメートルの地点まで差し掛かっていた。
車輪が立てる規則正しい轍の音を聞きながら、エイドは静かに自分の両手を見つめ、握りしめてはその感覚を確かめていた。身体の芯には、昨夜トトから徹底的に叩き込まれた「技の起こりを潰す」という感覚が、心地よい緊張感と共に生々しく残っている、油断しないよう『負荷石』は出発前に外しておいた。二度も同じことで叱責されるのは流石に不甲斐ない。
「おい、止まれ! 前方に不穏な気配だ、何か来るぞ!」
御者台から響いたトトの鋭く引き締まった声と同時に、ガルバの低く重い制止の号令が下り、馬車が激しい摩擦音を立てて急停車した。
街道の脇、鬱蒼と茂る茂みが爆発したかのように激しく揺れ、凄まじい地鳴りと共に、泥と獣臭を撒き散らしながら巨大な影が躍り出てきた。
一際大柄な、完全に成体となったワイルドボアだった。二本の禍々しくねじ曲がった牙を剥き出しにし、充血した眼球を不気味に爛々と輝かせている。縄張りを侵されたとでも錯覚したのか、完全に興奮状態でこちらの馬車へと狙いを定め、太い前脚で土を激しく削り始めた。
「チッ、街のすぐ近くまで降りてきてるのか。ロイド、エイド、速やかに迎撃しろ!」
ガルバの指示を受け、馬車の荷台からロイドが滑らかに、しかし一分の隙もない動作で長剣を抜いた。「はっ! ギルド規律に則り、速やかに脅威を排除する!」
だが、そのロイドが踏み出そうとした一歩よりも早く、エイドの身体はすでに地を蹴っていた。
馬車からしなやかに滑り降りる。その手は迷いなく、腰の長剣の柄へと伸びていた。
(人間相手なら、俺は剣を抜かない。……だが、目の前の存在は、明確な害意を持って突っ込んでくる魔物だ。躊躇う理由はどこにもない!)
突進してくる巨大な野生の獣。人間とは比べ物にならない圧倒的な質量と、重戦車のような爆発的な突進速度。まともに激突すれば、人間など容易く粉砕されるだろう。だが、あらゆる生き物が全力を出し、次の一歩を踏み出す瞬間の肉体的メカニズムは、人間も魔物も同じだ。
ワイルドボアがさらに凶悪な加速を生み出すため、強靭な後ろ脚に全体重を乗せ、爆発的な推進力を生み出そうとした――その一瞬の「タメ」。筋肉が最大に緊張し、強烈に地を蹴る直前の、わずか数ミリの重心の沈み込みと、肩の微細な上下動を、エイドの澄み切った目は確かに捉えた。
「――そこだ」
エイドはボアの正面から、恐怖を一切排して、その巨大な質量が迫る懐へと真っ直ぐに踏み込んだ。
ボアが頭部を激しく跳ね上げ、その鋭利な牙でエイドの身体を突き上げようとする、まさにその「起こり」の瞬間。
鯉口を切る僅かな摩擦音の直後、エイドの長剣が電光石火の速度で、下から上へと一閃に振り抜かれた。
ザシュゥッ! と、肉を深く裂く肉声が街道に響き渡る。
鋭利な刃は、ボアが最も大きなエネルギーを前方に放出しようとしたその一瞬の「隙」――がら空きになった首筋から胸元へと深く吸い込まれ、その強靭な血管と筋肉を容赦なく一刀のもとに叩き切った。まだ突進のエネルギーが完全に前方に放出される前の、肉体内での「暴発」と、致命の一撃の融合だ。
ワイルドボアは自身の推進力のやり場を完全に失い、血飛沫を上げながら激しく横転し、体勢を大きく崩した。
エイドはその決定的な隙を見逃さず、ボアの横へと流れるように回り込みながら、今度は上段から刃を返し、ボアの首の骨の繋ぎ目――最も脆弱な関節へと、全体重を乗せた鋭い追撃を正確に突き下ろした。
ドスゥン、と街道の土埃を派手に巻き上げる激しい音が響き、巨獣は一歩も進むことなく地面に崩れ落ち、短い痙攣ののちに完全に動かなくなった。トトから学んだ「起こりを潰す技術」を、刃の殺傷力へと見事に昇華させた、完璧にして圧倒的な討伐だった。
「……ほう」
抜いた剣を構えたまま、戦闘態勢のまま固まっていたロイドが、驚きと感心を隠せない声を漏らした。
御者台の上で、トトがニヤニヤと意地の悪い、しかし心底楽しそうな笑みを浮かべてパチパチと拍手を送ってきた。「お〜、やるねぇエイドちゃん! 魔物相手には容赦なく抜いて、その『タメ』を一閃で斬り伏せちゃうわけ? 恐ろしい子!」
「無駄のない、実に見事な先制だ。対人での迷いを魔物相手に引きずらなかった判断力も良い。エイド、実戦における臨機応変な応用規律をクリアしているとみなす」
ロイドは長剣を鞘に収めながら、相変わらず硬い表情のまま、しかしその声には確かな敬意と感心を混ぜてエイドの成果を評価した。
「よし、仕留めたなら素材を速やかに回収するぞ。街の市場なら、新鮮な野生のボア肉はいい値で売れる。無駄にするな。そしてエイドいい判断だった。剣や体技でいなせるのは『点』や『線』が基本だ。ワイルドボアみたいな巨大な『面』に向き合うには盾職を本職にしている奴らだけだ」
ガルバの現実的かつ的確な指示の元、エイドは長剣の血を払い、腰のベルトから愛用の解体ナイフを引き抜いた。
ここからのエイドの手際は、格闘技術で彼らを驚かせた以上に、『鉄の牙』の面々を心底驚嘆させることになった。
前世のホテルワークで徹底的に叩き込まれたプロフェッショナルな刃物の扱い、 ギルドの解体場で教えてもらった迅速な作業手順、そしてこれまでの過酷な自己管理の生活で培った肉体の連動。エイドの持つ解体ナイフは、ボアの強靭で厚い皮を迷いなく一線で切り裂き、血抜きを完璧に行いながら、良質な肉、筋、そして鮮度が命である内臓のパーツへと、信じられないほどのスピードと美しさで正確に切り分けていく。
「おいおい……さすがだな、そこまでいくと解体職人並みの手際だな。また内臓をなんとかしようとしてるのか、魔の影響で無理って伝えたけどなー?」
「トトさん、内臓で試してみたいことが一つあるんです。頑固ですいません。」
トトが呆れたように、しかし深く感心した様子で呟く。ロイドもその鮮やかな刃物の軌跡を見つめながら、その手際を真っ当にプロの視点から評価した。
切り分けられた最良の部位の肉と、筋、素早く処理された新鮮な内臓を清潔な布に素早く包み馬車の荷台へと手際よく積み込まれた。内臓は別場所に置かせてもらった。
それから一時間もしないうちに、馬車は懐かしい街の巨大な城門をくぐり抜けた。
(やっとファキオに戻ってきた。短い日数だけど本当に勉強になった)
行き交う人々、並び立つ出店、活気に満ちた街の喧騒が視界いっぱいに広がり、長かった護衛の旅が本当に終わったのだという実感が、静かにエイドの胸に湧き上がってくる。ギルドの大きな石造りの建物の前で、馬車が静かに停止した。
「俺たちはこれから、今回の商会護衛依頼の完了報告と、お前の『試験官』としての正式な評価書を提出しに、ギルドの二階にある執務室へ向かう」
ガルバがどっしりとした足取りで馬車から降り、エイドを真っ直ぐに見下ろして言った。「手厳しく審査させてもらったが、お前が道中で出した『荷を守りきった』という成果、そして今日の見事な戦闘と解体の実績は、規律通りすべて報告書に記載させてもらう。……よくついてきたな、エイド」
「……はい。至らない点ばかりでしたが、色々とご指導いただき、本当にありがとうございました。
だけど疑問があるのですが一ついいですか?行きに比べて帰りは荷物がないので早く帰れるのはわかるのですが行きに比べて帰りにかかった時間が半分以下なのは、どうしてでしょう」
「それはだな、エイドが行程を確認しなかったからだ行きはわざと遠回りをした。持ち物に地図もなかったしな」
「そうでしたか、完成に私の落ち度ですね。また何かあればよろしくお願いします」
エイドは背筋を伸ばし、彼らに向かってあらためて深く頭を下げた。ロイドは相変わらずお堅い顔のまま「街に戻ってもしっかりな」と言い、トトは「またね、エイド。今度また面白いズルい技、教えてあげるからさ」と軽く手を振った。セリアも最後に小さく、しかし温かく頷き、彼らはギルドの奥の階段へと歩いていく。
彼らはあくまで、ガレンから依頼された公正で厳格な試験官であり、エイドにとっては超えるべきプロの基準だった。彼らとの一時的な旅は、ここで完全に、正式に幕を閉じたのだ。
エイドは一人、ギルドの一階に広がる騒がしい喧騒の中に残された。
手には、先ほどギルドの窓口で引き換えた、自分で勝ち取り、完璧に解体したワイルドボアの素材の引き換え証と、報酬で銀貨15枚もらった。だが、今のエイドが最初に向かうべき場所は、ギルドの酒場でも、賑やかな市場でもなく、たった一つしかなかった。
エイドは迷いのない、力強い足取りで、ギルドの地下へと続く薄暗い階段を降りていく。
今回の過酷な旅で、自分が何に迷い、何を突きつけられ、トトやロイドたちから何を学び、そしてどんな戦い方のスタイルを掴みかけたのか。そのすべての成長と気づきを、自分を導いてくれた本当のホームであり、ガレンに報告するために。
地下の最奥、ひんやりとした空気が漂う訓練室の重い鉄製の扉の前に立ち、エイドは深く息を吸い込んで、その扉を力強く押し開けた。
扉を開けた先、いつも通りの広々とした、しかしどこか厳かな空気が流れる地下訓練室の中心に、その男はいた。
大剣を傍らに置き、汗を拭いながらこちらの気配を察したガレンが、ゆっくりと首を巡らせる。その鋭い眼光は、エイドが部屋に一歩踏み込んだ瞬間、その立ち姿、歩幅、情報量の多いその佇まいの変化を瞬時に見抜いたようだった。
「戻ったか、エイド」
ガレンの低く地響きのような声が、訓練室の石壁に反響する。
「はい、ただいま戻りました、ガレン先生」
エイドはガレンの前まで進み出ると、一礼し、手首の『負荷石』を再びカチャリと外して床に置いた。ドン、と重い音が響く。その動作一つをとっても、旅に出る前より遥かに無駄がなく、洗練されていた。
「『鉄の牙』との旅はどうだった。ガルバの奴のことだ、さぞ手厳しくお前を揺さぶっただろう」
ガレンは口元にわずかな笑みを浮かべ、エイドを促した。エイドはまっすぐに師の目を見つめ、静かに、しかし一言一言に確かな実感を込めながら語り始めた。
「はい。本当に、自分の未熟さを骨の髄まで思い知らされる旅でした。盗賊からの襲われている商会の馬車があり、『鉄の牙』のメンバーが助けに行きました。その後すぐに自分たちの荷台にも襲撃がありました。1人での対峙しましたが、相手が『人間』だと分かった瞬間に俺の剣は完全に止まりました。人を斬る恐怖、命を奪うことへの強烈な拒絶が、身体を縛り付けたんです。結果時間を稼いでいる間にガルバさんが助けてくれました。」
ガレンは遮ることなく、腕を組んでエイドの言葉をじっと聞き続けている。
「俺のその甘さのせいで、パーティーを危険に晒しかけました。自分の技術は、人を傷つけるためのものなのかと、激しい自己嫌悪に陥りました。……ですが、街の市場でトラブルに巻き込まれた時、気付いたら身体が動いていたんです。目の前の弱者が踏みにじられるのを、俺の心がどうしても許さなかった」
エイドは自分の持つ長剣を見つめ、しっかりと握り直した。
「そこでロイドさんに手助けしてもらい、トトさんから『技の起こりを潰す』極意を学びました。相手が攻撃を繰り出すその一瞬の『タメ』を捉えて封殺する。今日、街の手前で遭遇したワイルドボア相手には、その『起こり』を捉えて剣を抜き、一閃で斬り伏せて討伐することができました。人間相手には剣を抜かずに無力化し、魔物相手にはその先手の一撃で確実に仕留める。そうして誰も死なさずに、こちらの平穏を守る。俺は……この技術を、俺だけのスタイルとして極めたい。ガレンさんこれが俺の、今回の旅の報告です」
訓練室に、長い沈黙が降りた。
ガレンは腕を組んだまま微動だにせず、エイドの言葉の重みを、その覚悟の純度を測るようにじっと見つめていた。やがて、ガレンの大きな肩が静かに揺れ、フッ、と低い笑い声が漏れた。
「人間は斬らずに無力化し、魔物はその先手で叩き斬る、か。相変わらず、へどが出るほど青臭く、とんでもなく贅沢なワガママだな、エイド」
ガレンは歩み寄り、エイドの頭の上に大きな手をポンと乗せた。その手は驚くほど温かく、あるいは力強かった。
「だが、悪くない。お前がその甘さやワガママを本気で貫き通すと言うのなら、俺はそれに見合う『本物の強さ』をお前に叩き込むだけだ。いいか、エイド。人を殺さない戦いというのはな、いつでもふ相手を細切れにできる圧倒的な実力があって、初めて成立するクソ生意気な高等技術だ。生半可な強さでそれを口にすれば、守るべきものごと自分が犬死にするだけだ」
ガレンの言葉は、昨夜トトが言った金言とも深く共鳴していた。やはり彼らは、同じ超一流の領域を知る者たちなのだ。
「ガルバたちからの評価書が届くのが楽しみだな。……さあ、旅の報告は終わりだ。お前のその新しい『技術』、まずはこの俺を相手に試してみろ。負荷石を外して構えろ、エイド!」
「――はい、よろしくお願いします!」
エイドは満面の笑みを浮かべ、長剣を構えた。
まだ答えの出ない過酷な世界の中で、エイドの、彼だけの『先手の一閃』の本当の修行が、この懐かしい地下訓練室から、今再び力強く幕を開けるのだった。
誤字脱字と因果関係に違和感あれば教えてください。
ブックマーク、感想いただけると嬉しいです。
一旦ここまでで次からはまた街でバタバタがはじまります。よろしくお願いします。そろそろスキル確認入れた方がいいですかね?




