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35 あれから

「僕で良ければ話を聞くよ? それとも僕では頼りないかな」


 山田さんは首を横に振ったが、口を開くことは無かった。


「いらっしゃい」


 三沢さんが自然な感じで山田さんの隣に座る。


「聡志、マンデリンを頼むよ」


 涙がこぼれているのだろう、山田さんは顔を上げなかった。

 その横顔をじっと見ていた三沢さんが声を出す。


「聡志がお世話になりましたね。こいつはどうも人見知りが酷くて。それに、なんていうのかな……世間を皮肉な目で見るっていうか、素直じゃないところがありますからね。それでも山田さんが話しかけてくれたと喜んでいましたよ」


 急いで涙をぬぐった山田さんが三沢さんを見た。


「あの……オーナーの方ですか?」


「そうですね、オーナーといえばそうなのかな? まあもっと上はいるのだけれど、この喫茶部に関してはそう言えますね。三沢伸之介といいます。古風な名前でしょ? 気に入っているのですよ」


「三沢さん……そうですか。私は山田玲子といいます。松木さんとはカフェ教室で一緒でした。まあ私は断念したのですが、松木さんは凄いですね。オーナーさんが凄いのかな?」


 良かったよ、山田さんが笑ってくれて。


「いや、聡志はよく頑張っています。そういえば喫茶部の人気メニューは山田さんの直伝でしたよね? ありがとうございました」


「いえ、とんでもありません。私はレシピを紹介しただけで、後は松木さんの努力ですもの」


 三沢さんの前にカップを置く。

 マンデリン特有の強く豊かな大地の香りがした。


「聡志って松木って名前だっけ? 忘れてたよ」


「そうらしいですよ? 僕も忘れてましたけど」


 山田さんが声を出して笑った。


「自分の苗字を忘れるとか有り得ないんですけど」


 三沢さんが笑顔で言う。


「苗字なんてそれほど重要じゃないってことですよ。だって女性の大半は結婚で変わっちゃうでしょ? 社会通念上そう名乗っているだけで、それに大きな意味は無いです。庶民にとってはね」


「そう……そうですよね。離婚したら戻せるくらい簡単なものですものね」


「そうでしょう? 名前だって同じです。そりゃその時にはいろいろ考えてつけてくれたのでしょうけれど、誰かに呼ばれてそれが自分だとわかればいいだけのものだ。便宜上必要だから持っているだけのものです。私は伸之介という名前を気に入っているから愛用していますが、飽きたら自分でつけても良いかなって思ってます」


「自分で自分の名前を?」


「ええ、戸籍上は変えようがないじゃないですか。余程の理由がない限り。しかし日常の中で名乗るのならなんだって良いんですよ。要は自分が呼ばれていると認識できれば問題ない。もし山田さんが玲子という名が嫌なら、変えちゃえばどうですか? そうだなぁ……マリアとかエリザベスとか?」


 山田さんが目を丸くして笑い声を出した。


「なぜそこで英名が出るの? 面白い方ねぇ」


「別に縛りは無いですからね。私だってポチとかミケとかコンタとかに変えたっていい。何のこだわりも無いですからね。固定概念に縛られては窮屈なだけです」


「固定概念……」


「そう、固定概念。生まれた時から植えこまれた常識というやつです。そんなの無視すりゃ良いんです。実際に今生きているのは自分の力だし、立っているのは自分の足だ。他者にどうこう言われる筋合いはないです。夫婦だって家族だってそうですよ? それぞれちゃんと人間だもの。放っておけばいいんですよ。良い意味で今あなたが消えていなくなっても何も変わらないです。誤解しないでね? 良い意味ですよ? それだけあなたは自由だということだ」


 なるほどね、確かに何も変わらないよね。

 この国の頂点に立つ人間でさえ、僕たちの日常に何の影響も与えないのだから、僕程度が一人消えたからって、何の問題も起こらない。


 今ここに存在している僕が居なくなっても、何も問題ないと言われるとすごく心が軽くなるような気がする。

 誰かに命じられたわけではなく、居たいから居るのだもの。

 そのことを再確認するだけで、心が自由になるね。


「そういう風に考えたことが無くて、なんだか戸惑ってしまいます。仰ることは分かるのですよ? でも、それを認めると自分の存在価値が無いような気がして……」


 三沢さんが心底不思議そうな顔をした。


「存在価値? 今生きてここに居るということ以外に何か価値が必要ですか? 今日も目覚めて、自分の意思でここに来た。それだけでもうすごいことだと思うけど? 明日も元気ならこの上ないじゃないですか。それとも何か野望を持っているのかな? 地球征服とか、宇宙侵略とか?」


 数秒啞然とした後、山田さんが盛大な笑い声を出した。

 この人ってこんなふうに笑う人なんだね、なんだか可愛らしい。


「まさかこの年で地球征服して総統に君臨しようなんて思っていないわ。ましてや宇宙? 何それ、面白い方ねぇ」


 悲しみの涙が笑いの涙に変わった。

 その二つは同じ目から零れ落ち、色も味も同じはずなのに美しさが断然違う。


「元気が出た?」


 山田さんがコクコクと頷く。


「では話を聞こうか。君の抱えるその苦しみの塊はどこから来たの?」


 なるほど……大人というのはこういう攻め方をするのか……勉強になるよ。

 まあ発揮するシーンは未来永劫ないけれど。

 三沢さんにぽつぽつと語りだした山田さんは憑き物が落ちたような顔をしていた。


「夫とわかれて、もうすぐ十年になるの。連絡を取り合うことなんてなかったし、あの人の住所も知らなかったわ。三年程はボーッとしてたのだけれど、いつまでもそういうわけにはいかないでしょ? だからもう過去なんだって、忘れようって決心して、離婚の時にもらった慰謝料で喫茶店を開こうって思ったの。それであの教室に通ったわけ。まあ慰謝料といってもそれほどの額じゃないし、今まで主婦業しかしたことが無かったから不安だったけれどね」


「でも好きなことをしようと思ったのでしょう? 素晴らしいじゃない」


 山田さんがコクンと頷いた。


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