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そして翌日、サト子ちゃんは見事に旅立った。
裕子さんは最後まで千代さんを演じ切り、それから数日は『千代さん』と呼ばなくては振り向かなかったくらいで、三沢さんと古村さんは『凄い憑依芸』だと感心していた。
あの日一緒にお稲荷さんを食べた子供たちも優しい微笑みを残して消えてゆき、久しぶりにルナール古書店喫茶部に静かな波の音が戻ってきた。
そして僕たちは新しい春を迎え、日々忙しく過ごしている。
僕が子供たちに声をかけ、裕子さんが保育部に迎え入れて話を聞くという役割分担も、なかなかスムーズになってきた。
人間のお客は増えもせず減りもせずというところだろうか。
ただ不思議なほど古書の売り上げが伸びているらしい。
僕は週に一度だけれど、大量のお稲荷さんを作っている。
もちろん狐たちのリクエストなのだが、年代を問わず子供たちはこの甘辛い油揚げが好きみたいだ。
古村さんはもう少し甘さを控えろと言うのだけれど、子供に合わせるとこうなるんだよね。
文句を言うなら食べなきゃいいのに、毎回恐ろしいほどの速度で平らげてしまう古村さん。
あの女神様の狐も気に入ったようで、時々姿を現しては『所望する』とだけ言う。
三沢さんの教えで『謹んで承りぬ』って返事をするのだけれど、こればかりはなかなか慣れない。
そして海の青と空の青が水平線できれいに溶け合った晩春の午後、とても懐かしい人が店に来た。
「こんにちは、松木さん。私を覚えてる?」
その人はベージュの春コートをさらりと羽織り、少しだけ照れたような笑顔を僕に向けた。
薄い水色のスカーフが、とてもよく似合っている。
「山田さん? 山田玲子さんでしょ? 懐かしいなぁ」
「ああよかった。忘れられていたらどうしようってドキドキしちゃった。元気そうね。それに素晴らしいお店じゃない。羨ましいわ」
「ああ、ありがとう。でも僕が作ったわけじゃないから。どうぞ座ってよ。今日はひとり?」
「うん、ひとりよ」
「あっ、遅くなったけれど開店祝いをありがとうございました」
「いえいえ、小さな花だったのにお礼状までいただいて、かえって申し訳なかったわ」
「レジ横に飾らせてもらったんだ。お陰でとても華やかだとみなさん褒めてくれたよ」
「そう、それなら良かったわ」
「はい、メニュー。山田さんに教えてもらったガレットは人気メニューだよ」
数年ぶりに会う山田玲子さんは、記憶より少し瘦せていた。
たしか離婚して一人暮らしだって言っていたけれど、何かあったのだろうか。
「ねえ、山田さんはお店は?」
メニューから顔を上げて、僕の顔を見た山田さんの目は悲しそうだった。
「ううん……まだよ。っていうか諦めたの。いろいろあってね。近所のファミレスでバイトしていたのだけれど、それも昨日で終わり。もう……なんていうか……疲れちゃった」
「そうなんだ……」
こういう時、大人って踏み込んで聞くものなのだろうか。
長く生きてはいるけれど、成長もしないし人との付き合いもしない僕にはわからない。
「ルナールブレンドを下さい。それとリンゴのガレットを」
「はい、畏まりました」
僕は黙ってリンゴの皮をむいた。
大量の砂糖でゆっくりと煮てからそば粉のクレープに中に入れる。
その上にクリームチーズと砕いた胡桃をトッピングして、シナモンシュガーを振りかけた。
「どうぞ、お待たせしました。コーヒーはすぐに淹れるから、もう少し待ってね」
波の音とシンクロするようにコーヒーの香りが漂う。
山田さんはじっと窓枠に切り取られた林を見ていた。
カップを置くと小さな声で礼を言い、ゆっくりと香りを楽しんでいる。
彼女とはそれほど縁があったわけではないけれど、あのメンバーの中では一番話をした人だ。
気にならないわけがない。
「美味しい……香りとコクと苦みのバランスが絶妙ね。どれほど松木さんが苦労したかがわかるわ」
「そう言ってもらえると救われるよ。なぜかみんな『ブレンド』って言うと、ストレートより格下に思うから」
「ははは! そういう人多いよね。お店のプライドなのにね」
そう言ったきり山田さんは黙ってしまった。
ただ無心にコーヒーを楽しんでいるのなら良いのだけれど、ここ数年の経験でそうではないことがピシピシと伝わってくる。
「ガレットもとっても美味しいわ」
ナイフとフォークを置いた山田さんの目には涙が浮かんでいた。




