36 運命
山田さんが林の隙間から見える海に視線を移した。
「テナントを見て回ったり、カップや食器を探したり。とても楽しい時間だった。神宮公園の東側に、とても良い物件をみつけてね。環境も良いし、思ったよりも家賃が安くて。前も飲食店だったからキッチンとかもあるから、ここに決めようって思った日に……」
「思った日に?」
「夫が訪ねてきたのよ。どうやって知ったのかはわからないけれど。それでね、土下座をして慰謝料で払った金を返してくれって言いだしたわ。もちろん断ったわよ? 私にとっては大切な開業資金だもの。でもいきなり上がり込んで、そこら中探し始めて、通帳をとられちゃったのよ。それでものすごい形相で印鑑を出せって言われたわ」
「それってただの強盗じゃん」
「本当にそうよね。それでも出さないって抵抗していたら、あの人いきなり私を押し倒して……無理に……」
三沢さんが山田さんを止めた。
「言わなくていい。それ以上思い出して傷つくな。それからどうしたの?」
「なんだか呆然としちゃって……わけがわからないうちに印鑑を差し出して……ずっと泣いて……泣いて」
「大変だったね」
「うん、でも一番嫌だったのは無理やり抱かれたのに、それほどの嫌悪感を持てなかったことかな。離婚の原因はあっちの浮気だったし、私ったら浮気をされていることも気づいていなくて、相手の女性が妊娠したからって言われて……もう本当にいつもそうなの。子供のころからずっとそう。私って鈍いしトロいし、どうしようもないのよ」
「それで?」
「それから時々、あの人が訪ねてくるようになったの。泊っていく日もあれば帰る日もあって。私ったらバカだから料理なんかいそいそと作ったりして。ホントバカ。救いようがないわ」
「働き始めたの?」
「そう。貯金も無くなったでしょ? 家賃も払わなくちゃだし。それで近所のファミレスに働きに出たの。夜シフトの方が時給は良かったのだけれど、もしあの人が来たらって考えちゃって、早朝から夕方までのシフトに入ったわ。それでも足りないから土日は別の仕事をしてね」
「まだ好きだったの? わかれた旦那さんのこと」
「……わからない。わからないのよ。でもいきなり離婚届にサインしろっていうような別れ方だったし、きちんと憎むことができていなかったのかもしれない。愛していたのかと聞かれたら、イエスよ。でも別れてからは違う。違う……はずだったの」
「そうかぁ……そりゃ辛かったね」
「それが、先月の初め頃に夫がファミレスに来たのよ。偶然よ? 私がここで働いているなんて教えていなかったし。女の人と来て深刻な顔で話していたわ」
「内容を聞いちゃったんだね?」
「うん、すぐ後ろの席を片づける振りをして聞き耳を立てちゃった。そしたらね、その相手というのが今の奥さんで、どうやら息子さんが詐欺の片棒を担いでしまったらしくてね。受け子というのだったかしら? 賠償金だとか保釈金だとか、そんな話をしていたわ」
「へぇ、でもわかれたのは十年前でしょ?まだ子供は小学生じゃないの?」
「そうよね? 不思議でしょ? 私もそう思ったのよ。でもどうやらその息子というのは女性の連れ子みたい。でもあの人は自分の子だと言ったの。他人の子を自分の子だと言ったのよ? 私は見たこともないその子のために、夢も希望も心の平穏も全て奪われたのよ? おまけに誤魔化すために体の関係まで……きっとあの人は必死だったのね。今の家庭のために使えるものは何でも使うくらいには追い込まれていたのでしょう。そして私を思い出したのね」
「酷い話だな。そんなの玲子さんには関係ないじゃないか」
「きっとあの時私に払った慰謝料さえあればって考えたのね。あの人にとって私はどこで野垂れ死にしようと苦しもうと関係ない存在なのよ。一時期は同じ戸籍に入って夫婦だった私よりも、好きな女が産んだ他人の子の方が大切だったのだから」
僕は三沢さんが来てくれて本当に良かったと思った。
だって僕だけではどうしようもなかったし、下手に慰めて余計に傷つけるのがオチだもの。
それにしても、三沢さんってさらっとため口に変えて、呼び方も名前呼びにしてるよね。
凄い手練手管だ。
「それで逃げてきたのか」
「ええ、すぐに引っ越しの手続きをして仕事も辞めた。今はビジネスホテル暮らしだけれど、もうお金もないし、実家も無いし。最後に会いたい人に会おうと考えたら、聡志君の顔が浮かんでね。だって私と同じ夢を持って、それでちゃんと叶えた人なんだもん」
夢でもないし、自分で叶えたわけじゃないけどね。
僕は無意味な自己嫌悪を覚えた。
「会ってどうだった?」
「そうね……余計に未練が出ちゃったかな。ねえ、三沢さん。私ってどこで間違えちゃったのかなぁ。普通に生きてきたつもりなんだけどなぁ。それほど魅力がないってことだよね、きっと」
「それは違うよ。君はきれいだし、少なくとも私の好きなタイプのドストライクだよ。君は何も間違っていない。ただ持って生まれた運が悪かった。たったそれだけだよ」
「たった? それだけ?」
「そう、運命なんてどうあがいても変えられない。神でも変えられないのだから、人間ごときにどうこうできるわけがない。抗う意味もないんだ。ただ淡々と受け入れ、自然に死ぬまで一生懸命に生きる。生き物ができることはそれだけだよ」
店内に静寂が戻った。
潮騒の音がひときわ静かに流れている。
この音が、山田さんの心の痛みも流してくれたらいいのに。




