第二十四話 食い違い
突然目の前に現れた巨大なそれは、目に見えない速さで大木を振るった。
もの凄く嫌な音と、鼓膜が破れるかと思うほどの衝撃と風に、血の気が引く。
音もなく現れたそれは、昔本で見た一つ目の巨人のようで、まるで現実味がなかった。アリゼは言いようのない不安に駆られ、足が竦んでしまい、その巨体を見上げた。
これが魔物だとしたら、勝ち目なんてあるのだろうか。
いきなり遅い掛かってきた荒々しい行動とは異なる、落ち着いた若草色の身体をぐっと伸ばして、その巨人は一つしかない目をぎょろぎょろと動かし、大きな瞳をアリゼに合わせた。
目が合った事で、顔が強張るのが分かる。
しかし、その巨人が何かをする前に、巨体がバランスを崩して、ぐらりと大きく揺れた。
アリゼは目を離した瞬間に襲われては、ひとたまりもないと思った。状況が理解出来ぬも、目だけは離さなかった。
巨人が胴体を仰け反らせた時に突然、地面に倒れ込んでいたユニが飛び起き、素早く距離を取るようにアリゼを押した。
ああ、良かった。ユニは生きてる。
真っ白になった頭が安堵で埋め尽くされたが、すぐに彼の血濡れた髪を見て言葉を失う。
声を掛けようと口を開くが、怯えからか空気しか吐き出せず、何も言えないまま埋もれてしまった。
ふとユニが「これが魔物かよ」と呟き、一歩足を引いた。アリゼも後ろへ後退るが、小石に躓いて尻餅をつく。
いきなり襲い掛かってきた巨人は言葉とは言い難い声を発し、一つしかない血走った瞳でユニを見下ろす。「ああっ、くそっ」舌打ちをしたユニが姿勢を低くした。
巨人が大きな大木を振り上げた時、がさがさと巨人の後ろの木々が揺れて、多くの足音が近付いてきた。また魔物かとアリゼは泣きそうになった。しかし、現れたのは狼のような獣と緑色の肌をした小人、赤や青などカラフルな色をしたいくつもの丸い物体だった。
大小様々な「それ」からキーキーと甲高い声が放たれる。おそらく巨人を呼んでいるのだろう、巨人が後ろを気にするように唸っている。
「アリゼ」
ギリギリ聞こえる程度の声量で短剣を構えたユニが囁く。
今彼が言いたい事は、察する事が出来る。アリゼは下唇を噛みながら「うん」となるべく声を抑えて答えた。
「一旦、逃げよう。さっき木の上通ったみたいに、出来るか?」
じりじりと、僅かながらもユニは魔物から距離を取る。分かっている、分かるよユニ。彼は今しかないぞと言いたげに、赤く染まった顔でアリゼを見つめた。
「出来るよ。絶対、やってみせる」
タイミングが大事だと、アリゼは恐怖でしかない巨人の目の動きに注目した。じっとユニを見つめていた一つ目は、後ろの小さな生き物に気を取られ、ほんの一瞬目を離した。
「うん!」それを見逃さなかったアリゼは、即座にユニの胴体に腕を回し、抱き抱えるような体勢をとった。そのまま握り締めた石に念じ、魔物とは逆側の、生い茂った木々に向かって躊躇う事なく突っ込む。
地面を思い切り蹴った事で、尋常ではない程のスピードが出てしまい、息が出来ない程加速した。何も手入れされていない木々の枝も邪魔するように立ち塞がっている。
とりあえず逃げる事が第一だと判断したアリゼは、それを気にせず足を回した。
遠過ぎず、近過ぎず。抱えたユニを離さないように力を込め、 適当な位置で踏ん張り、急ブレーキをかける。
無理に止まった衝撃で地面を抉るもの、何とかアリゼは茂みに身を隠した。
「っはあっ!」
隠れてすぐ、息が出来なかった肺に空気を送り込む。
全力はきつかった。やっぱり、身体が耐えられないのか。いや、それよりもあれだ、魔物、あれが。
息を整えながら抱えていた彼を見ると、蹲ってユニは何度も噎せていた。怪我人に乱暴すぎたと悔いて、アリゼは彼の背をさする。ユニの綺麗な金髪が、赤く染まっているのが、無性に怖かった。
ごほごほと咳を続けたユニは「は、吐きそ……」と呟いて、口元を押さえる。
心臓が口から飛び出しそうな程の恐怖を、ユニの生死が瞬時に塗り替えた。「それより、怪我!」アリゼは至って冷静に自身の鞄から分厚い布を取り出そうとするが、痙攣した指がうまく動かず、腹立たしい。このままでは、怪我どころではなくなってしまう。冷静になろうと思えば思うほど、指の震えが酷くなるように感じた。
何とか布を取り出し、ユニの頭に押さえつけようと近付くと「ま、待てアリゼ!」と拒絶される。
「だって、怪我が!ち、血が」
「こんくらい平気だから」
「全然平気じゃない!」
何を悠長に、とアリゼは胸が締め付けられる。今の状態での強がりなんて、迷惑なだけだ。
「良いって良いって!」とアリゼの腕を掴み、嫌がるユニに「良くない!何が何でも手当するよ」とアリゼは泣きそうになりながら止血しようとする。
ユニの腕が、力が抜けたようにかくんと曲がった。釣り合っていた力が突然一方通行に伝える事となり、アリゼは地面に突っ伏す形でぶつかった。
「いっ!?」
突如顔面を襲った激痛にアリゼは悶える。じんわりと額や鼻に痛みが広がった。
「悪い。こうでもしないと、アリゼはやめないだろ?」と謝るユニを、顔を覆いながらきっと睨みつけた。
「じゃあ、早く止血しないと!」
「なっ、え?」
「良いの、私は良いから早くしてよ!」
痛みと恐怖で目に滴が溜まる。何故こんなにもユニは拒むのか、今までで一番分からない。
アリゼの威圧に負け、折れたユニが彼女の手から布を取り、やっと側頭部を押さえた。
「痛いのなら、我慢なんてしなくて良いんだよ」
アリゼが呟くと、ユニは唇を尖らせた。
「あんま痛くねえんだな、これが。それにこのくらいの怪我なら平気だっての」
「頭だよ!?あ、頭!あんなに大きなもので殴られて……!生きてるのも不思議なくらいだったのに」
「大袈裟だって」呆れ顔でユニは首を振った。「心配し過ぎ」
確かに、強烈に振り下ろされた一撃にしては、あまり出血はしてないように見えた。しかし、とアリゼは首を振る。小さな怪我が大きな怪我に繋がるきっかけになってしまったら大変だ。
アリゼは鞄から手ぬぐいと包帯を手早く取り出し、茂みの中で立膝をした。姿勢を低くしてユニの後ろに回り、包帯を伸ばす。
「い、良いって!ちょっま……!も、もったいない!」
「もったいなくない!」
今使うべきだ、とアリゼは思った。使える時に使わない方がもったいないに決まっている。
巨人に襲われて数分程しか経っていないはずだが、アリゼは心が折れそうになっていた。倒す云々よりも、ユニの怪我の治療が何十倍も大事で優先したかった。
だから少しだけでも手当したいのに、何故そんなに嫌がるのか。
「ホント、マジで大丈夫だから……!それに、ヤバイって!こんなに騒いだら魔物に見つかる!」
アリゼが近付くと、それに合わせてユニが離れる。自棄になったアリゼが片足を立膝を崩した時、ユニが目元を押さえて、うっと苦しげに呻いた。
動かしたユニの手から、少量の血に染まった布がぽすん、と軽い音を立てて落ちた。
「どうしたの?」
普通ではないと、アリゼはさすがに察した。
四つん這いになって彼の元に寄り、声を掛けた。彼の指の隙間から覗く深い紫色の瞳は、焦点が合っていなかった。
アリゼは何も出来ない自分の不甲斐なさに、嫌気がさす。嫌がる相手を手当てしてはいけないなんて、聞いた事がないじゃないか。
確かこういう時は圧迫したら良いんだっけとなけなしの知識を絞る。鞄から一回り小さな手ぬぐいを取り出し、四つ折りにしてユニの後ろに回る。傷の位置を確認し、ユニの頭と自分の掌で力強く押さえつけた。
「ごめん、こんな怪我、本当にごめんね」
何故だか無性に申し訳なさが溢れ、適当な言葉として吐き出した。片手で包帯を掴み、口で挟みながら、それっぽく仕上げる。その間、嫌だ、もったいないと言っていたユニはずっと黙っていた。
不格好ながらも、包帯を固定する事が出来てホッとする。殴られた衝撃の割には出血が少なく軽い傷に違和感があったが、頭の怪我というのはこれぐらいの程度だと、アリゼは無理やり自分を納得させた。
「あの」
「しっ!……静かに」
アリゼは残った包帯を草の上に置きかけて、慌てて上に持ち上げた。ユニの声に驚いたが、それよりも「静かに」という言葉に背筋が伸びる。
「しゃがめよ」ユニがゆっくりと上体を下げ、何もない方向を見つめた。アリゼは無言で頷き、なるべく音を立てないように、頭を低くした。
しばらくして、ユニが見つめた場所から、パキパキと枝を折りながら、緑色の巨人と小人が姿を現した。
一つ目は右へ左へ忙しく動き、巨人の後ろにピッタリ着いている小人は、視野の狭さを補うように周りを見渡していた。
アリゼはこびりついた恐怖で荒くなる息と、高鳴る心臓を押さえつけようと口に手を当てた。手の震えが身体全体に伝わるような気がして、呼吸がし辛くなる。こんな事ならパティの警告を聞いておけば良かったなと後悔した。
震える肩に、そっとユニが手を置いた。「落ち着けアリゼ」ユニは一瞬目配せをし、すぐに視線を巨人へと戻した。
ユニの方が怖いはずだ。見ていただけではなく、実際に攻撃されたのならば、恐怖でしかないだろう。しかしユニは襲われた事などなかったかのように、落ち着き払って平然と構えている。
妙な安心感を与えてくれたユニを一方的に眺め、アリゼはペンダントを強く握りしめた。
いつ気付かれるか分からない時間は、あっという間に過ぎた。魔物達はアリゼ達に近付く事なく、一直線に去っていった。
「おかしいな」
魔物が目に見えなくなっての第一声は、ユニの疑念を含んだ言葉だった。
「何が?」
「いやさ、あんなにもテキトーに探すか普通」
薙ぎ倒された木々を一瞥し、アリゼを首を傾げる。
「魔物は、頭が良くないんじゃないの?」
「そうなのか?」
「……なんとなく」
「マジかよ」何故か蔑むような目を向けられるも、アリゼは言い返せなかった。
「そ、それより頭大丈夫?」
「はぁん?」
「違っ、怪我の事だって痛い痛い!」
意味を取り違えたユニがアリゼの脛に、執拗に手刀を打つ。地味に痛い部位を的確に狙ってくる、なんとも憎たらしい攻撃だ。
「ごめんって!」アリゼが尻餅をついたところで、やっとユニはやめた。「怪我大丈夫かって言いたかったのに」
「ああ、ありがとう。平気だ」
「頭痛は?」
「頭痛?」
「痛がってたじゃない」
「はぁ、いつ?」
「いつって、さっきだよ。私が包帯巻いてる時にさ」
「ん?」ユニは頭を触り、包帯の存在に初めて気付いたかのように目を見張った。「もったいないっつったのに」
「えー……」
「いや、でもまぁありがとう。うん、助かった」
ユニは立ち上がり、ぐるっとその場で一回転した。周りの景色の状態を把握して「うん」と頷く。アリゼは彼の頭痛の原因が気になったが、今は頭の隅に置いておこうと思った。
「やっぱあれだ、あの武器っぽいのなんとかしねえと」
「武器?」ユニに引き上げられて腰を浮かしたアリゼは目を薄くした。「ああ、あれね」
「ああ、あれがなけりゃあなんとかなるんじゃねえか?身体自体、一応この短剣で斬れたし」
ユニは鞘をぽんぽんと叩き、満足そうに言った。
「斬れたんだ」
「おう」
武器よりも目を潰した方が安全性が上がるのではとアリゼは考えた。鼻の下をこすりながら、魔物が通った道を改めて見る。
「武器より、目をどうにかしようよ」
「なんで?」
「なんでって、一番良いと思うよ」アリゼは足元の鞄を拾い、首から提げた。「見えなくなったらこっちの勝ちじゃない?」
「いや、さすがに危ないだろ」
「でも、一つだし」
「一つだけとか、更にリスクが上がるじゃねえか。」
ん?とアリゼは首を傾げた。何かがおかしい、と直感で感じる。「ねえ」
「何?」
「目ってさ、一つだよね」
当たり前だと分かっている事を聞くのは、少し変な感じだった。だが、当然の事を言ったアリゼを、ユニは侮蔑の笑みで見つめる。「んなわけあるか。二つだよ」
「嘘」
呆然としたアリゼは「嘘でしょ」と繰り返した。
アリゼは自分だけ一つ目に見えていたのかと疑って頬を抓ってみる。普通に痛い。
「……あっ!!!」
「おい!」
妙に引っかかっていた事がやっと分かり、アリゼは思わず大声を上げた。
「うっさい!馬鹿か!阿呆!見つかったらどうする!馬鹿!」とアリゼの口に勢いよく蓋をしたユニが、罵倒一歩手前の言葉で責める。
「いったぁ……もう。でも今のは私が悪いか。そ、そんな事より、魔物ってどんな姿だったか覚えてる?」
口に当てられたユニの手を力任せに払い、叩かれたと言っても過言ではない程の痛みを感じた口周りを撫でながら、アリゼは魔物が過ぎた道に近付く。
「そりゃ覚えてるよ」隠れていた場所に放置された布を腰のベルトに押し込み、残った包帯を手にユニも茂みを抜けた。「当たり前じゃねえか、二足歩行の龍みたいなやつだろ?」
「やっぱり」アリゼはユニから手渡された包帯を鞄の奥へ仕舞い、一人納得する。
アリゼの隣に並び、訝しげにユニは額を掻いた。
「なんだよ」
「うん、あのね。あの魔物、私とユニで見えてるものが違うんだよ」
「んん?」
「私が見たのは一つ目の巨人だったんだけど」
「怖っ」
うげ、とユニが舌を出した。「でしょ?」話を遮られたアリゼは咳払いをして流れを戻す。
「うん、で、ユニと見たものが違うんだ」
「ふぅん」
辺りを警戒しながら、魔物が通った道の跡に辿り着いた。
魔物が姿を見せたところの木々は枝が折られ、無残に薙ぎ倒されているものもあった。ずっと一直線に進んでいる事が瞬時に分かる。
「なるほどね」
アリゼが説明を終えていないのに、ユニは自信に満ちた言葉を発した。折れた木の枝を拾い、ゆっくりとアリゼと視線を交わす。
「なぁ、さっきの木ィ越えた奴って、『醒石』だろ?」
ドキッと心臓が大きく脈打つ。黙っていたつもりはないが、まだ話せていなかった事実を唐突に相手側から言われた事で、アリゼは萎縮してしまった。
まだユニの村で暮らしている時に貰った、不思議な石。醒石と呼ばれる、不思議な力を与える石。アリゼはこれを使って、身体能力を向上させていた。
「……分かった?」
「まぁな、後で色々説明してほしいけど。でも、それなら」
ユニは折れた木の枝の先端をアリゼに向けた。
「こっちは勝ったも同然だ」
何かを企むような、俗に言う悪い顔というところだろうか。しかし、今のアリゼにはそんなユニの笑顔でさえ自信に満ち溢れているように見えた。




