第五話 愛知らぬ辺境伯と恋愛を
想像の百倍を優に超える不安が押し寄せてきて、心臓がバクバクと言っています。
時間は夕食を終えて、場所は私の私室。
長い人生でほとんど堪能したことのないふかふかのベッドに横たわり、私は身もだえていました。
何か粗相はないか、と考えてしまいます。
同時に、男性に身を委ねるという事柄が、なにひとつ想像がつきません。
いっそ恐ろしくあります。
政略結婚である以上、それ以前に男爵家の娘である以上、こういう日が訪れることはわかっていました。
肉体を交渉材料にしたのも私です。
とはいえ不安です。
だって、初夜ですよ?
作法は文献を読んで心得ているつもりですが、普通に未知すぎて怖いですし、閣下の性格上なさそうではありますが力任せだったら一生のトラウマになりかねません。
暴力は、されるのもするのも得意ではないからです。
あと、格好。
いったい、どんな下着を身につけ、どんな衣装に身を包めばよいのでしょうか?
夜着? それはそうなのでしょうが、私の身体は肉付きがよくないので、緩やかな服装を身につけると最早子どものように見えますし……。
あーうー、心が千々に乱れます……。
そういう不安を、メイドのセレスさんにぶちまけたのですが。
帰ってきたアドバイスはひとつ。
「ご自身の愛らしさを信じてください! あと主さまの不器用さも」
……あの笑顔でサムズアップはなかなか忘れられませんね。
どうしましょうか。
とりあえず、服装とは相手に合わせるもの。
ドレスコードとはそういうものだという定石に従って、プレゼントの中にあったパジャマを身につけてみます。
どうなのでしょう。
どうなのでしょう……?
似合っている?
そもそも、似合っていればいいのですか、こういうときって?
もっとお母様にちゃんとお話を聞いていればよかったのですが、生憎幼い頃に亡くなっていますし……いいえ、いいえ!
ここからは度胸です。
基本的に度胸があればなんとかなるとお母様は言っていました。
相手がどんな態度で来るかわからないのですから、強気で。
いざとなれば突き放すことも視野に入れていきましょう。
我が身可愛さと男爵領の皆さんを天秤にかけてよいわけがないのですが、そこが曖昧になってしまう程度には混乱が頂点を迎えつつありました。
そんなときです。
控えめなノックの音が、響きました。
思わず跳ね起き。
緊張でカラカラに渇いた喉で、ひっくり返りそうな声をなんとか御して、入室を促します。
「待たせてしまったか」
閣下でした。
イェルハルド閣下。
夜着に身を包んだ彼が、グラスを二つとボトルを一つ持って、現れたのです。
閣下は私を一瞥すると、
「着心地はどうだ。我が領地でも腕利きの職人の手によるものだ」
と、仰って。
初め、なにを言われたのかわからず戸惑ったのですが、さすがに理解が及びました。
これは、服の話です。
「これは木綿ですね? 以前身につけていたものとは比べものにならないので、快眠できそうです。じつは生地やその原材料については一家言あるんです。絹などを作っていたこともあって。じつは持参したものも――すみません、ちょっと早口になってしまいました」
「それでいい。よいと思うものを語ってくれ。君には自由を与えたい」
「っ」
大人な対応をされてしまい、自分の稚気がちょっと恥ずかしくなって、頬を擦ります。
「座っても?」
「ここは、閣下のお屋敷ですよ?」
「だとしても、君の部屋だ」
「でしたら……どうぞ」
遠回りでぎこちないやりとりをして、私たちはベッドに隣り合って腰掛けます。
「喉は渇いていないか。果実水を持ってきた」
「助かります。じつは、緊張していて」
内心を開示しつつ笑ってみせれば、彼はグラスを手渡してくれました。
そっと口づけると、ほのかな柑橘の香りが、乱れに乱れていた心を、少しだけ落ち着かせてくれます。
大きく、深呼吸。
ここまでくれば、覚悟を決めるしかありません。
「閣下、私の準備は」
「逃げなかったのだな、君は」
思わぬ一撃。
まるで逃げて欲しかったと言わんばかりの口ぶり。
不興を買ったのでしょうか?
あるいは、そもそも政略結婚に乗り気ではないとか?
確かに、この婚姻は謎めいたものです。
辺境伯家が男爵家の娘を娶るという時点で異常。
そこに加えて、一方的な融資を取り付けている。
イェルハルド閣下が私に惚れているという可能性もありますが――いえ、本気でありえないので即断で否定できますね。
なにせ、いま彼の瞳の中で揺れていたのは、きっと憂いの感情だったのですから。
「寝所に押しかけてきた男が言うことではないのだろうが」
閣下が、グラスを両手で包むようにしながら続けます。
「俺は、愛というものがわからない。たびたびになるが、世間はヒトの心がわからない氷の魔人だと言う。その通りだろう。いま、惑う君を前にしながら、どうしてやれば不安を打ち消してやれるのか、それすらわからないのだ」
また、自嘲するように口の端を持ち上げて。
彼はそうこぼすのです。
弱音を吐くのではなく、事実を告白するように。
けれど。
私は。
「いいえ、いいえ」
ゆっくりとかぶりを振り、彼の手に、自分の手をそっと重ねます。
ゴツゴツとした、武人らしい手は熱を持っており、決して氷のようではなく。
「閣下には、愛があります」
「世辞はいい」
「私は、冗談は言いますが、おべんちゃらは不得手です。なので、本当のことを言いますが、閣下には愛があります」
たとえば、私がお屋敷に来た翌日。
「イェルハルド閣下は、使用人さんの仕事を奪った私を見て、まず使用人さんたちを案じました。次に私を叱責するでもなく、休むように気をかけてくださいました。気遣ってくれました。それに、贈り物も」
「当然の振る舞いだ。対価だと言った」
「そうでしょうか? 私には、それは愛に見えました。初めはただの甘さなのかと思いました、底抜けに人がいいのかとも。けれど」
ずっと考えて、見えてきたものがあったのです。
「あれは愛です。他者を思う慈愛。領民や、使用人さんたちを思う、上に立つ者としての愛情」
「義務だ。そうあれと教わり、全てこなしてきた」
そうですね。
閣下自身が仰ったのです。
自分は言われたことを全て実現してきたと。
「だから、判別がつかないのではありませんか?」
「さっきから何を」
「ああ、いまはっきりとわかったやもしれません!」
いぶかしげに首を傾ぐ彼へ、私はポンと胸の前で手を叩いてみせます。
「閣下は、愛が解らないのではなく、感情を言語化するのに不慣れなのです」
「言語化?」
「心とは、そもそもふわふわとして曖昧模糊なもの。なんでも出来てしまった閣下は、だからわざわざ心と向き合う必要が無かったのでしょう。微妙なニュアンスを取りこぼすままに、今日まで来られたのかと」
正直、この辺りで知ったような口をきくなと怒られることも考えました。
少なくとも、実家でならば怒鳴られていたでしょう。
けれど、彼は。
「続けてくれ」
そう、言ってくださったのです。
私は、喜んで続きを口にします。
「閣下には愛があります。喜怒哀楽も。誰かへの憤りもそうでしょうし、自身に対する悲しみもそうでしょう」
ああ、そうなのです。
この人は決して、巷で言われるような冷血な魔人ではないのです。
ただ、言葉で感情を言い表すことが不得手な、自分の思いに気が付かないだけの、やさしいかたなのでしょう。
「でなければ、お屋敷の方々が、閣下につくす理由がわかりません。私のような者がやってくれば、普通は邪魔だと排除するでしょう。なのに、彼らはそれをしない。閣下を慮ってのことです。普段のあなたに報いるために、その信頼に応えるために」
「俺は」
彼はなにかを言おうとして、口を二三度開けたり閉じたりして。
そうして、苦笑いをしました。
「どうやら、君の言うとおりらしい。こんなとき、どう君の口を塞げばいいかすら、わからない」
「ちょっと安心しました」
口づけとかされていたら、だいぶ参ります。
「それで、アンリ嬢。君は、そんな俺に何を求める? 愛が解らないのではなく、言葉に出来ない俺に」
「……本当のところを言えば、実家への支援を勝ち取りつつ、のらりくらり貞操を守り続けるという選択肢もあったのですが」
「ちゃっかりしているな」
「それだけが取り柄ですので。ですが、決めました」
いいえ、覚悟が決まりました。
「私は」
あなたと。
「恋愛を、しようと思います」
「――は?」
「ですから、言語化が下手な閣下と一緒に、感情へ形を与えていきたいと思うのです。なので」
すでに婚姻の儀式は済ませてしまったけれど。
「まずは、互いを理解するところから、はじめませんか……?」
そっと告げた提案を耳にして。
彼は驚いたように、碧玉の瞳を丸くして。
それから、額に手を当てて俯いて。
「ご気分を害してしまいましたか?」
おろおろとする私の耳に、小さな音が届きます。
くすくすというそれは、だんだんと大きくなって。
「ははは」
閣下が、顔を上げて、笑いました。
初めて見る、彼の純粋な笑顔でした。
「胸が弾む。笑みがこぼれて仕方がない。早速教えてくれ、アンリ嬢。この感情は、いったいなんだ?」
それは、おそらく。
「愉快、でしょうか」
「それだ。愉快。快く楽しい。アンリ嬢、これからよろしく頼む。ともに歩き、同じ時間を過ごし、多くのことを俺に教えてくれ。この喜びを、分かち合ってくれ。その対価を、きっと払うと約束しよう」
言い終えると、閣下は立ち上がり、そのまま部屋を辞してしまいました。
結局、自分からは指一本たりとも、私に触れずに。
本気で、一切触りもせず、抱きしめもしないまま。
あの……えっと……。
「これって、初夜じゃなかったんですか……!?」
私の痛切な叫びが、広いお屋敷の中に、延々とコダマするのでした。
まったくもう!
そんなだから四人もお嫁さんに逃げられるのですよっ!




