第二話 水害への緊急的対処です!
辺境伯領には、大陸名所百景のひとつ、史跡都市アガメノンというものがありました。
一般的なお屋敷、民家とは違い、岩を削り出し、あるいは岩を固めて作られた古の時代の家屋や神殿が建ち並ぶ名所で、平時であれば観光客の皆さんやそのかたがた相手に商売をするひと、この地にもともと住まう人々でごった返している、賑やかな都でした。
それが、土砂に沈んでいます。
近隣の山々で同時多発的に発生した土石流によって、アガメノンの大半は壊滅的被害を受けました。
私たちが辺境伯領を留守にしていた間に降り注いだ、異常な長雨。
辺境伯領の三方を囲む高山地帯。
いくつもの要素が重なり、悲劇は起きました。
無論、イェルハルド閣下は手をこまねいて事態を静観していたわけではありません。
増水の連絡がされたときには避難を通達。
騎士団に援助へと向かうよう指示を出していました。
土石流が発生したあとも、行方不明者の探索、土砂の撤去、二次被害の防止にと、自ら陣頭指揮を執って駆けずり回られています。
では私はどうしていたかと言えば、炊き出しや、怪我人の治療に全力を尽くしていました。
「スープとパンはこちらで受け取れます! 毛布の用意もあります! 数は十分ありますので、皆さん安心してください」
メイドのセレスさんたちや、騎士団のメンバー、さらには現地協力者の皆さんに交じって、私は走り回っていました。
弱り果てた被災者を救難キャンプへと連れて行き、そこであたたかな食事と毛布を手渡し、怪我を治療して。
泥まみれになることも、雨に打たれることも構いません。
ただ、私の心中では、一つの炎が燃えていました。
「こんなことが、繰り返されてはなりません」
ふた月ほどが経ち、ようやくアガメノンの仮初めの復興が見えてきた頃。
お屋敷に戻っていた私は、執務室の閣下を訪ねました。
彼は私を見遣ると、
「……互いに、やつれたものだな」
と、普段にも増して表情を険しくされます。
「閣下こそ、お痩せになりましたか。食事の量を増やしましょうか?」
「きみの心配は素直に受け取る。俺が倒れては元も子もない。それでも、アンリ。きみがここに来た理由を推し量れば、もっと優先すべきことがあるのだろう?」
嗚呼と、声がもれます。
閣下はヒトの心が解らない氷の魔人と呼ばれています。
でも、こんなにも、民草を大切に思われていて。
「閣下、意見を具申させてください」
「内容による」
「領土全体で、治水工事を行うことは出来ませんか?」
「…………」
口元を隠すように手を当て、真剣な表情で考え込む閣下。
私とて、突拍子もないこと言っているのは解っています。
治水工事は土地の形を変えるもの、在り方を変質させる大規模土木作業です。
大量の資金と、マンパワー、なによりも領地全体の事業として行う必要があります。
つまるところ、領民さんたちに負担を強いることになりますし、ただでさえ防衛拠点としての側面が強い辺境伯領で行えば、仮想敵国に隙を見せることに繋がるでしょう。
しかし。
「ここ十年の降水量を調べました。アジフ国側――つまり高山の向こう側では降水量が減少傾向にある一方で、当領地では確実に増加しています。このままでは」
「今後も同様の被害が起きうる、か」
重々しく頷けば、閣下は長く細い息をつかれ、腕を組み、俯かれました。
私は、推論を続けます。
「ルーくんたちの村では、不猟となっていました。確認したところ、そのような村は、いくつもあって、どれも山に依存しているようでした。おそらく、連続的な長雨が影響していたのかと」
「気候が変動している。これは、おそらく間違いない。アンリの指摘も的を射ている。放置することは、為政者として望ましくない」
「でしたら」
「しかし、ノウハウがないのだ。実情を言えば、ユングバリ領は災害とは縁遠い土地だった。ただ敵を警戒するための要害だった。精々獣害への対策程度しか、ここには知識の集積がない。同時に、国防に多く予算を割くゆえに、土地を造成する費用の工面にも時間がかかる」
「私がいます。伝え聞いた話と書物で読んだ知識でしかありませんが、なんとかできると思います……いえ、すみません、そんな不確定ことを話されても、閣下が困りますよね。別段、実家からお金を引き出せるわけでもないですし、むしろ融資を受けている側ですし……」
シルクを作ったときとは違うのです。
今回は、ひとの命が、明日の暮らしがかかっているのですから。
私のような素人の力では……。
「いっときは、リチャード陛下の御力を借りることも考えたのですが、それは最後の手段でしょう。陛下自ら、国庫も兵員も出せないと仰っておられましたから。ですから、及ばないとは解っているのですが、私が頑張りたくて……」
「まったく……」
彼が、ゆっくりと立ち上がりました。
そうして、私の横へと立ちます。
身長差から、見上げる形になる私と、覗き込む姿勢になる閣下。
青色の彼の瞳が、私の赤色の瞳を写して。
「また同様の事故が起きれば、アンリは現地に行くのだろう。そしてまた泥にまみれ、領民を助けようとする。それがどれほど危険でも、無謀でも。きみは、決して止まらないのだろうな」
「それは、閣下も同じです」
「泥にまみれたきみは、それでもまばゆいと感じた」
「私も、閣下の懸命さに心を打たれました。だからこそ、もっと頑張りたいのです。志は同じではありませんか? 領民さんたちのためにと」
「アンリ、きみは気を張りすぎている」
「ご心配をおかけしてしまって申し訳ありま――わっ」
ポンと、頭を撫でられました。
大きくて無骨な、けれど温かいイェルハルド閣下の手が、何度も私の頭を撫でて。
それは、決して不愉快ではなく。
「苦労をかけているのは俺だ。そして、覚悟を決めるべきも俺だ。兵員を再整理する。予算を組み直し、人足を雇い入れる。他国の密偵が入るかもしれんが、この際利用してやろう」
「それは、まさか」
彼が、微笑みながら、頷きました。
「俺たちの手で守るのだ。この領地を。だから、きみの知恵を貸してくれるか?」
「――もちろんです!」
私は、諸手を挙げました。
閣下は、私の頭から手を離し。
「だが、どちらにせよ専門家は必要だ。あいつを呼び戻すときが来たようだな」
どこか遠いところを見詰めながら、彼が呟きます。
「俺の教育係だった男。或いは、師とでも呼ぶべき男を」
彼の言葉はすぐさま実現されました。
「やあ。ぼくをご用命かい、坊ちゃん? 或いは君が必要としたのかな、麗しき坊ちゃんの配偶者ちゃん?」
その日、お屋敷を訪ねてきたのは、まるで浮浪者のような男性。
いえ、老人だったのです。
そのかたは、こう名乗りました。
「レクター・スピリオ。これで、為政者の家庭教師をやっているよ」




