2. 夜の向こう側へ
詩織の右手が、自立した生き物のようにゆっくりと持ち上がった。
万年筆のペン先が、月光に照らされたノートの、まだ何も書かれていない真っ白な新頁へと下ろされる。
カチ、と小さな音がして、ペン先が紙に触れた。
次の瞬間、詩織の意思とは無関係に、手が滑らかに動き始めた。
(書かされている……。いや、私が、書きたがっているんだ)
彼女の脳のなかに残されていた詩織の最後の領域――自分自身の名前や、19年間のささやかな思い出の残滓が、万年筆の黒いインクへと変換され、紙の上に吸い出されていくような感覚だった。
自分の過去が消えていく。けれど、不思議と恐ろしさはなかった。
それは、冷たい泥水のようだった自己の境界線が洗い流され、代わりに、月から降ってくる、世界のあらゆる美しい瞬間、失われた切ない愛の記憶という、純度の高い結晶で満たされていくプロセスだったからだ。
ペン先は、驚くべき速度で、あの美しい崩し字を紡ぎ出していく。
『詩織という少女の記憶を、ここに還す。
彼女が愛した初夏の風の匂い、古書店の古い紙の香り、雨の日の寂しさ。それらはすべて、月という巨大な図書館の1頁として、永遠に保管されるだろう。
そして、私はここに新しく生まれる。遥の執念と、詩織の肉体が1つとなり、私たちは時間の檻を飛び越える』
文字が綴られるたびに、詩織の身体に奇妙な変化が起き始めていた。
指先が、まるで半透明の硝子で作られているかのように、天窓からの月光を透過して白く輝いている。皮膚の下を流れる血が、赤い熱を持った液体から、銀色の、光る液状の月光そのものへと置き換わっていく。
耳の奥では、あの波の音が、これまでで最も大きく、激しく鳴り響いていた。
ざざん。ざざん。
それはもはや幻聴ではなかった。
店の床が、壁が、じわじわと白銀の砂浜へと姿を変えつつあるのだ。
本棚のナラ材は風に揺れる銀色の草へと融解し、天井の天窓は消失して、剥き出しの黒い宇宙と、そこに浮かぶ巨大な青い地球が、詩織の真上に迫っていた。
「あぁ……なんて、美しい世界……」
詩織はペンを走らせながら、恍惚とした表情で呟いた。
そこは、遥が夢にまで見た、そして詩織がずっとここにいてはいけない。と感じていた、魂の真の故郷だった。
地上のすべてのしがらみから解放され、ただ純粋な記憶だけが存在することを許される、どこまでも静かな月の海。
万年筆は、ノートの最後の行へと達しようとしていた。
手の震えは完全に止まっていた。そこにはもう、迷いも恐怖もない。あるのは、すべての旅を終えた旅人が、我が家の扉を開けるときのような、深い安らぎだけだった。
詩織は、最後の力を振り絞るようにして、新しい1行を力強く、美しく書き添えた。
「夜の向こう側へ」
その文字が完成した瞬間、万年筆の手から力が抜け、コロコロと机の上を転がって止まった。




