3. 物語の一部へ
すべての文字が書き込まれた『月の記憶』は、もはや単なる本ではなかった。
表紙の濃紺の布地は、本物の夜空のように深い吸い込みを見せ、そこに刻まれた金文字は、まるで本物の星々のように激しい光を放っている。
詩織はゆっくりと椅子から立ち上がった。
その瞬間、彼女の足元から、はらはらと白い光の粒子が立ち上った。
「あ……」
自分の手を見る。指先はすでに輪郭を失い、天窓から降り注ぐ月光の奔流のなかに、煙のように溶け込み始めていた。
脚も、身体も、髪も、すべての肉体が物質としての重みを失い、純粋な光のエネルギーへと変換されていく。
それは苦痛を伴わない、この上なく穏やかな消滅だった。
冷たい水の中に、1さじの砂糖が静かに溶けていくように、彼女という存在が、世界を満たす月光そのものへと同化していく。
(私は消えるんじゃない。私は、この物語の一部になるんだ)
詩織は、最後に残った自分の意識のなかで、静かに微笑んだ。
彼女の頭のなかには、もう自分の名前も、年齢も、過去も残っていなかった。けれど、その代わりに、100年前の男が愛した小夜という女性の、どこまでも優しい笑顔が、はっきりと浮かんでいた。
そして、その小夜が、白い砂浜の向こうから、自分に向かって手を振っているのが見えた。
「今、行くわ……」
詩織だったものの影が、床の上で急速に薄れていく。
ランプの琥珀色の光が届く、あの小さくて温かい現実の島は、もうどこにもなかった。
古書店『三日月堂』の空間全体が、まばゆいばかりの純白の光で満たされ、次の瞬間、爆発するような無音の閃光がすべてを包み込んだ。
ガタ、と椅子がかすかに揺れる音が、静寂のなかに響いた。
光の奔流が収まり、東の窓から差し込む月の位置が少しだけ移動したとき、店内の空気は、元の『三日月堂』のものへと戻っていた。
泥の道路も、黒い宇宙も、天体望遠鏡のある洋館の影も、すべては幻であったかのように消え去り、そこにはいつもの、古い紙の匂いと革表紙の匂いが漂う、静かな古書店の風景だけが残されていた。
ただ、店の中央にあるマホガニーの机の上。そこに、完成した1冊のノート――『月の記憶』だけが、静かに閉じられた状態で置かれていた。
その濃紺の表紙は、先ほどまでの激しい明滅が嘘のように落ち着きを取り戻し、ランプの微かな余光を受けて、どこか人間のような、生きている肌のような温かい温もりを湛えて、そこに佇んでいた。




