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第5章 終章:永遠の器、月の記憶  作者: 都桜ゆう


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1. 月の記憶、人の器

 古書店『三日月堂』の空間を支配する静寂は、もはや現実のそれとは異なっていた。


 天窓から直射する満月の光は、冷たい銀の針のように詩織の全身を貫き、マホガニーの机の上に鋭い陰影を落としている。


 街の喧騒も、風の囁きも、遠くで倒れている老人の微かな息遣いさえも、この光の結界のなかには届かない。

 世界でただ1箇所、時間が結晶化して止まったかのような、絶対的な夜の底だった。


 机の前に腰掛けた詩織の右手は、ごく自然な、吸い付くような所作で黒軸の万年筆を握りしめていた。

 彼女の視線は、机上に開かれた濃紺の布張りノート『月の記憶』へと落とされている。


「あ……」


 詩織の薄い唇から、掠れた吐息が漏れた。


 ノートの紙面が、月光を浴びて激しく、脈打つように明滅している。その光のなかで、詩織は信じられない光景を目にしていた。


 昨日まで、そしてついさっきまで、根元から乱暴に破り取られ、ギザギザとした無惨な断面を晒していたはずのページが、まるで時間を巻き戻すかのように、音もなく復元されつつあったのだ。


 空間に漂う銀色の光の粒子が、紙の繊維へと形を変え、1枚、また1枚とノートの背表紙へと接合されていく。


 破り取られていたはずの切れ端――詩織がバッグに大切に仕舞っていたあの古い紙の切れ端も、いつの間にか彼女のポケットから抜け出し、生き物のように滑り上がって、ノートのページへと吸い込まれ、完全に一体化していった。


 元通りになった最後のページ。

 そこに刻まれていたのは、あの端正で、どこか哀愁を帯びた遥の筆跡だった。


 だが、その文字は、これまでの実験記録のような冷徹なトーンではなかった。それは、自らの終わりを確信した人間の、震えるような祈りの告白だった。


『大正14年 11月1日。

 私の意識の灯火が消えようとしている。


 私の脳は今や、月から流れ込む数千年の記憶の重圧に耐えかねて、ひび割れ、砕け散る寸前だ。

 小夜の顔が、霧の向こうへ消えていく。私はそれを引き留めようと、血を吐く思いでこのペンを握っている。


 だが、私は絶望していない。

 なぜなら、月光の向こう側に、私は確かに見たからだ。


 100年という時間を超えた先、この場所で、私のすべてを受け止めるために待っている、もう1人の私――完璧な器の姿を。


 ――私を呼ぶ声がする。月光の落ちる、あの場所で。


 器は見つかった。記憶は、ここで完全に継承される』


 その文字を読み終えた瞬間、詩織の目から、大粒の涙がポロポロと机の上にこぼれ落ちた。

 それは、詩織という少女が流した恐怖の涙ではなかった。


 100年のあいだ、暗い木箱の底で、誰にも読まれることなく、誰にも理解されることなく、ただひたすらにその時を待ち続けてきた遥という魂の、圧倒的な孤独と救済の涙だった。


「待っていたのね……」


 詩織は呟いた。その声は、少女のものにしては低く、男のものにしてはあまりにも透き通っていた。

 2つの魂が完全に交じり合い、境界線を失った新しい1つの意識の響きだった。


 彼女のなかに、遥の最後の瞬間が、まるでシネマグラフのように鮮烈に再生され始める。


 大正14年の同じ満月の夜。この同じ机の上で、心身ともに限界を迎えた遥は、自らの魂と最愛の記憶をこのノートに封印し、自らは抜け殻となって夜の闇へと消えていった。


 彼は死んだのではない。このノートのなかで、そして月の光のなかで、自分を継承してくれる器が現代に現れるのを、じっと、じっと待ち続けていたのだ。


 そして今、その100年の円環が、完璧な形で閉じようとしていた。


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