1. 月の記憶、人の器
古書店『三日月堂』の空間を支配する静寂は、もはや現実のそれとは異なっていた。
天窓から直射する満月の光は、冷たい銀の針のように詩織の全身を貫き、マホガニーの机の上に鋭い陰影を落としている。
街の喧騒も、風の囁きも、遠くで倒れている老人の微かな息遣いさえも、この光の結界のなかには届かない。
世界でただ1箇所、時間が結晶化して止まったかのような、絶対的な夜の底だった。
机の前に腰掛けた詩織の右手は、ごく自然な、吸い付くような所作で黒軸の万年筆を握りしめていた。
彼女の視線は、机上に開かれた濃紺の布張りノート『月の記憶』へと落とされている。
「あ……」
詩織の薄い唇から、掠れた吐息が漏れた。
ノートの紙面が、月光を浴びて激しく、脈打つように明滅している。その光のなかで、詩織は信じられない光景を目にしていた。
昨日まで、そしてついさっきまで、根元から乱暴に破り取られ、ギザギザとした無惨な断面を晒していたはずのページが、まるで時間を巻き戻すかのように、音もなく復元されつつあったのだ。
空間に漂う銀色の光の粒子が、紙の繊維へと形を変え、1枚、また1枚とノートの背表紙へと接合されていく。
破り取られていたはずの切れ端――詩織がバッグに大切に仕舞っていたあの古い紙の切れ端も、いつの間にか彼女のポケットから抜け出し、生き物のように滑り上がって、ノートのページへと吸い込まれ、完全に一体化していった。
元通りになった最後のページ。
そこに刻まれていたのは、あの端正で、どこか哀愁を帯びた遥の筆跡だった。
だが、その文字は、これまでの実験記録のような冷徹なトーンではなかった。それは、自らの終わりを確信した人間の、震えるような祈りの告白だった。
『大正14年 11月1日。
私の意識の灯火が消えようとしている。
私の脳は今や、月から流れ込む数千年の記憶の重圧に耐えかねて、ひび割れ、砕け散る寸前だ。
小夜の顔が、霧の向こうへ消えていく。私はそれを引き留めようと、血を吐く思いでこのペンを握っている。
だが、私は絶望していない。
なぜなら、月光の向こう側に、私は確かに見たからだ。
100年という時間を超えた先、この場所で、私のすべてを受け止めるために待っている、もう1人の私――完璧な器の姿を。
――私を呼ぶ声がする。月光の落ちる、あの場所で。
器は見つかった。記憶は、ここで完全に継承される』
その文字を読み終えた瞬間、詩織の目から、大粒の涙がポロポロと机の上にこぼれ落ちた。
それは、詩織という少女が流した恐怖の涙ではなかった。
100年のあいだ、暗い木箱の底で、誰にも読まれることなく、誰にも理解されることなく、ただひたすらにその時を待ち続けてきた遥という魂の、圧倒的な孤独と救済の涙だった。
「待っていたのね……」
詩織は呟いた。その声は、少女のものにしては低く、男のものにしてはあまりにも透き通っていた。
2つの魂が完全に交じり合い、境界線を失った新しい1つの意識の響きだった。
彼女のなかに、遥の最後の瞬間が、まるでシネマグラフのように鮮烈に再生され始める。
大正14年の同じ満月の夜。この同じ机の上で、心身ともに限界を迎えた遥は、自らの魂と最愛の記憶をこのノートに封印し、自らは抜け殻となって夜の闇へと消えていった。
彼は死んだのではない。このノートのなかで、そして月の光のなかで、自分を継承してくれる器が現代に現れるのを、じっと、じっと待ち続けていたのだ。
そして今、その100年の円環が、完璧な形で閉じようとしていた。




