ピスケスのリボンを正しく正しく結び直すとき
「やっと傷が見えなくなりましたね!」
「……そうね」
鏡越しに私の顔を見て喜ぶクロエに、私は静かに答えた。
『嬉しい!これで式では綺麗な顔をみんなに見せることができるわ!』
本当は、そう言うべきだった。
鏡に映る、傷のない綺麗な顔。
毎日丁寧に、クロエが薬を塗ってガーゼを交換してくれたおかげで、あの時の火事でできた火傷は、跡形もなく消えてしまった。
(まるで、何事もなかったかのよう……)
傷のあったその場所に、指を這わせてみる。
けれどそこには滑らかな肌があるだけで、何も残されてはいなかった。
「本当によかった!だって式はもう明日なんですもの!胸を張って、綺麗なミア様のお姿を皆にお披露目することができます!」
「嬉しいわ。ありがとう、クロエ」
そう微笑むのが、今の私には精一杯だった。
もう少し……もう少しの間だけ、私はミアでいなければいけないのに。
「……ねぇ、クロエ」
「はい、何でしょう?」
「少し……一人にしてもらえる?」
ミアらしくない。
けれど、私にはこうすることしかできない。
「……わかりました。何かあれば、すぐお呼びください」
そう言い残して、クロエはお辞儀をすると部屋から出ていった。
足音が遠ざかるのを確認して、私は顔を手で覆う。
消えてしまった。
何もかも。
もう、私には何も……。
でも、やらなければいけない。
大丈夫。
やれる。
やれるわ。
だって、私は……。
「少しいいかしら!」
ノックをしながら、声の主が私に呼びかける。
決してノーとは言わせない声に、私は目元を拭って「どうぞ」と小さく返事をした。
「ごきげんよう、ニア!と言っても、機嫌は良くなさそうね。まぁ私も一緒だから、おあいこよ」
そう言いながら、メイド服に身を包んだミアが部屋に入ってきた。
ミアはまっすぐに私の方へ向かうと、両手で私の頬を掴む。
そして私の顔を凝視した。
「やっと怪我が見えなくなったわね!あなたがあの火事で怪我をしたせいで、私はひと月の間、ずっとメイドでいなければならなかったのよ?まったく、もっと早くに元に戻るつもりだったのに!」
言いたいことを言って、ミアはパッと手を放すと、ソファに腰を下ろした。
「でもいいわ。ドレスやアクセサリーは、私の好きなものを選ぶことができたもの。面倒だから、今日まではあなたがミアでいてちょうだい」
「……えぇ」
静かに、私は返事をする。
「でも、その陰気臭い顔はやめなさいよね!明日、結婚……それも第一王子のレグルス様との結婚を控えている令嬢の顔ではないわよ?あなたは私の代わりなんだから、しっかり最後まで私でいてもらわなくちゃ!」
「わかったわ……」
その時だった。
再び、部屋にノックの音が響く。
私たちは二人揃って、扉の方に目を向けた。
「ミア、少しいいかな?」
扉の向こうから聞こえてきたのは、今まさに名前の上がったレグルス様の声だった。
「えぇ、どうぞ」
私が短く応えると、レグルス様はすぐに部屋の中へ入ってくる。
ここには本物のミアもいるというのに、レグルス様はまるでミアのことが見えていないかのように、私だけを見て歩いてきた。
「メイドから聞いたよ。よかった、怪我の痕が残らなくて!」
そう言いながら、レグルス様もミアのように私の頬を掴むと、怪我をしていた場所をそっと指の腹で撫でた。
これも、今日までだ。
「ご心配をおかけしましたわ。レグルス様」
「いいんだよ。君のことなら、いくらでも心配したい。……あ、でも異性関係はごめんだけどね」
らしくなく、レグルス様は冗談を口にする。
明日ご自身の結婚式なのだから、当然なのかもしれない。
「今日は他に、何かご用が?」
「いや、君の顔を見たくなって、来てしまっただけだよ」
「これから毎日、嫌でも顔を見れますのに。レグルス様ったら」
いつものように、私はミアのように笑ってみせた。
少しだけ、レグルス様は目を丸くする。けれどすぐに嬉しそうに笑った。
「そうなんだけどね。いつでも、僕は君を見ていたいんだよ、ミア」
私の頬を撫でていた手で、レグルス様はそっと私の髪をかきあげると額をあらわにさせる。そして優しく、私のまぶたにキスを落とした。
すぐそこには本物のミアがいるというのに。
本当に、ミアのことは眼中にないらしい。
「……さて、あまり長くここにいると、また部下に怒られてしまう。名残惜しいけど、失礼するよ。君の綺麗な顔が見れてよかった。明日がいっそう楽しみだ」
「えぇ。私もですわ」
私がそう答えると、レグルス様は満足そうに目を細めた。
「ミア……明日は朝から早い上に長い。今日は早めに休んでくれ」
「ありがとうございます、レグルス様」
そう言って私が微笑むと、レグルス様は部屋を出ていった。
「はぁ……明日から、あのレグルス様の視線は、私のものなのね!」
それまで黙っていたミアが、うっとりと、レグルス様が出ていった扉を見つめる。
小言を言われるかと思っていたけれど、とてもミアらしい。
「あぁ、そうだ……お姉さま……」
ふと思い出して、私は立ち上がって机の引き出しを開ける。そこから大きな封筒を取り出すと、ミアに渡した。
「何、これ?」
訝しげに、ミアはその封筒を開く。
そして中に入っていた紙を、一枚だけ取り出した。
「私が王宮へ来てから、レグルス様と話をした内容よ。できる限り思い出して書いておいたから、目を通しておいた方がいいと思って」
「ふぅん」
そう言って、ミアは手に取った一枚目だけ、軽く目を通す。
けれどすぐに、封筒ごと私につき返した。
「いらないわ、こんなもの」
「でも……」
「いいのよ、何かあったら適当に誤魔化せば。それに、過去なんてどうでもいいの。私はこれからたくさん、レグルス様と思い出を作っていくんだから!」
「……そう。わかったわ」
つき返された封筒を、私は元あった引き出しに戻した。
「じゃあ、私もそろそろ戻るわね。明日は早いもの!」
私の顔を見ることなく、ミアはさっさと部屋を出ていく。
「明日……か」
明日、レグルス様とミアが結婚する。
まだ、ヴォルフラム様が亡くなって、ひと月しか経っていないというのに。
王都が喪に服したのは、ほんのひとときだけだった。
ウィリアム神父様の行方も、いまだにわかっていない。
私を助けてくれたというシリウスも、姿を消してしまった。
けれど、そんなことなど忘れてしまったかのように、街はレグルス様の結婚式の話題で持ちきりだ。
「ヴォルフラム様……ウィリアム神父様」
私は首から下げていたロザリオを、静かに握りしめる。
四角く切り取られた窓辺から、私はただただ祈りを捧げた。




