キャンサーが不幸を連れてやって来る
レグルス様から手渡された、婚約破棄に関する同意書。そこに記されていたサインは、ヴォルフラム様からの手紙にいつも添えられていた、端正な文字と全く同じ筆跡だった。
急に、体温が下がっていく。
予想していたとはいえ、ショックを隠せなかった。
(けれどヴォルフラム様は最初から、私に対して自由に過ごして欲しいと、そう手紙を書かれるような方ですもの。きっとこの婚約破棄も、私を思ってのこと……なのでしょうね)
同意書に、シワがよる。
ヴォルフラム様とはほんの数回、手紙のやり取りをしただけの関係だ。
けれどそれだけで十分だった。
本当に、あの方は優しすぎる。
(その優しさで……私は今、困ったことになってしまっているのだけれど……)
そっと、私は目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、神父様の言葉だ。
『その気持ちを忘れることなく、それでも流れに身を任せてください。そして、何が起ころうと、ヴォルフラム様を信じてください』
……そうだ。
ウィリアム神父様は、何があってもヴォルフラム様を信じるようにとおっしゃっていた。だったら、私は……その言葉に従おう。
根拠は何もない。あるとすれば、神父様の言葉だけ。
けれど私には、それだけで十分、信じるに値する。
「……ヴォルフラム様がそうおっしゃるのなら、私はそれに従いますわ」
レグルス様を見つめながら答える。
私は神父様の言葉を信じて、ヴォルフラム様との婚約破棄を受け入れることにした。
「あまり、驚かないんだね」
「私には、どうにもできませんもの」
テーブルの上に、私は同意書を置いた。
「確かに……そうだね」
それをレグルス様は受け取ると、丁寧に丸めて紐でくくる。
「さて、これでヴォルフラムは関係なくなった」
そう言って、レグルス様は足を組んで、手を膝の上に乗せた。
「……答えを、聞かせてもらおうか」
にいっと、口角をあげながら、レグルス様は私に言った。
その顔には、もう答えはわかっているけどね、と書いてある。
確かに、レグルス様にはヴォルフラム様からの返事を待ってからと伝えていた。ここで私が返事をしないのは、よくない。
だからと言って、素直に返事をするつもりも、私にはないけれど。
「……少し、考えさせてください」
それが、今私にできる精一杯の抵抗だった。
ほんのわずかな時間稼ぎにしかならない。けれどどうしても、私にはレグルス様との婚約を受け入れることができない。
「まったく、なぜ君はそれほどまでに僕を焦らすんだい?他の女なら、二つ返事で婚約を快諾するというのに」
私の返答に対して、レグルス様は困ったような表情を見せる。けれど本当に困っている様子は微塵もなかった。
実際、他の令嬢であれば、レグルス様の言う通りすぐに婚約を快諾するのだろう。ミアだってそうだ。
でも、それはあくまでミアの話。
私は……ミアではない。
「そう、ですわね……。あえて申し上げるとすれば、レグルス様が、私を一人のひとだと思っていらっしゃらないから……でしょうか」
レグルス様にとって、私は獲物だ。
今、レグルス様はいかに獲物を狩るかしか、きっと考えていらっしゃらない。
だから私は、この結婚をすんなり受け入れるわけにはいかないのだ。
(……私は、誰のものでもないもの)
真っ直ぐ、レグルス様を見る。
私の言葉に、レグルス様は一際驚いていらっしゃるようだった。
かと思えば、突然、レグルス様は顔に手を当てながら笑い始めた。
「ははははは!なるほど!君は本当に、僕のことをよく見ている!」
ひとしきり笑って、レグルス様は俯く。そしてゆっくりと、顔を上げた。
その様子を、私は黙って目で追う。
レグルス様の前髪が、はらりと垂れる。
その隙間から、獰猛な輝きを放つ黄金が、私を見据えた。
「……そんなだから、君が欲しくてたまらないんだよ。ミア」
その瞳と視線を合わせてしまって、私は小さく悲鳴を上げそうになる。
冷や汗が、頬を伝った。
汗が垂れていく時間が、あまりにも長い。
……息が、苦しい。
「……でも、まあいい」
そう言いながら、レグルス様は前髪をかき上げた。その瞳には、先ほどまでの輝きは消えている。
そこでようやく私は、小さく息を吸った。生暖かい空気が、肺を満たしていく。
「気長に待つことにするよ。狩りのコツは、どれだけ我慢できるかだからね。……それに、まだ詰み残しもあるからさ」
「……そうですか。では私も、改めてこの件をお父様に報告させていただきます」
「いや、その必要はないよ」
「え?」
今回の件に関して、私はまだお父様には何も伝えていない。なのでお父様は、王都で何が起こっているのか知らないはずだ。
それなのに、お父様に報告する必要がないだなんて……。まさか……。
思わず、私は身を乗り出した。
「すでに君の父上は、僕たちの結婚について了承しているからね」
「そんな……ッ」
そこまで、手を回しているだなんて……。
私は体重を、ソファに預けるしかできなかった。
「……あとは、君の心一つだよ。ミア」
レグルス様は立ち上がると、私の後ろへと回る。
そして慣れた手つきで私の耳元へ顔を寄せ、髪の毛をかきあげると、露わになった私の耳へ一方的に唇を押し当てた。
「また来るよ。その時にはいい返事が聞けることを期待している」
そう言い残して、レグルス様は私の部屋から出ていった。
奥歯を噛み締めながら、私は自分の耳を拭った。
***
あれからすぐ、私はお父様に手紙を書いた。
お父様にレグルス様のことで相談をしても、答えはわかりきっている。
けれど、今は時間稼ぎができるなら、なんでもよかった。
どれだけ急いでも、お父様から手紙の返事が届くまでに十日以上はかかるだろう。それまでの間で、何か策を講じることができれば……。
……そう、思っていた。
けれど手紙を出して七日も経たないうちに、その人は王都にやってきた。
「……ミア様、来客です」
「あら、そんな予定あったかしら?」
「急遽来られまして……いかがいたしましょうか?」
戸惑いながら、クロエが私に尋ねる。
少なくとも、クロエから見てもいい知らせではないのだろう。
「……どなたなの?」
恐る恐る、私はクロエに、来客者が誰なのかを聞いた。
一度視線を逸らしてから、クロエは再度私と視線を合わせる。
「シルビアス卿……ミア様のお父様です」
「……そう」
やっぱり、か。
予想通りの返答に、私は下唇を噛み締めた。




