そしてコーバスは空を舞う
舞踏会が終わってから、私は一歩も屋敷の外へ出ることはなかった。
初めて外へ出たのは、礼拝の日だ。
私は朝の支度を終わらせると、すぐに神父様の元へと向かった。
馬車を降りて、懺悔室へと向かう。
その途中で珍しく見知った顔を見かけ、ふと足が止まった。
「……シリウス?」
つい、ぽろっと名前を呼んでしまう。会うのは舞踏会の日以来だ。
私の声に気がついて、シリウスはこちらの方へ顔を向けた。そして私へ近づくや否や、シリウスは私に対して深々と頭を下げる。
「ミア様、先日は申し訳ありませんでした」
どうやら、あの舞踏会のことを気にしているらしい。
シリウスは、何も悪くないのに……。
むしろ、謝らなければならないのは、私の方だ。
「いいのよ。私の方こそ、ごめんなさい……あなたを巻き込んでしまって……」
「それこそ、お気になさらないでください。それが私の役目ですから」
「ありがとう。今日はお祈りに?」
「あぁ……そうですね。そのようなところです。ミア様もですか?」
少し歯切れ悪く、シリウスは答える。
けれど、それを詮索している時間が、私にはない。
早く、神父様の元へ行きたい。
「えぇ、お祈りと……神父様にご相談したい事があって……」
「そうですか、ゆっくりご相談なさってください。私はこれで」
私の様子を察してか、シリウスはそう言って教会の外へ行ってしまった。
シリウスの背中が見えなくなるのを確認して、私は神父様がいらっしゃる懺悔室の扉を開ける。
そして椅子に座ると、私はすぐに神父様に声をかけた。
「……神父様、いらっしゃいますか?」
「ニア、ですね。先日は申し訳ありませんでした」
「あぁ、神父様……ッ!」
しばらく聞いていなかった神父様の声に、今まで張り詰めていた緊張の糸が緩む。
……よかった、今日はいらっしゃった!
ほっとしたのも束の間、私の頬を、温かいものが伝っていく。
話さなければならない事がたくさんあるのに、それでも次から次へと溢れ出てしまって、止まらない。
あぁ、泣くつもりなんて、なかったのに……。
「っ……く、うっ……す、すみません……神、父様……ッ」
必死に、私は涙を拭う。
けれど止めようと思えば思うほど、涙が溢れでてきてしまう。
「お気になさらずに。どうぞこれを……」
カチャっと、頭の上の方から鍵の開く音がする。するとゆっくり、格子戸が開いた。
そしてそこから、ハンカチを持った手がスッと出てきた。
泣きじゃくったまま、私は神父様に感謝の言葉を伝えて、渡されたハンカチを手に取る。
その時だった。
「あ……ッ!」
ついうっかり……指先が神父様の手に触れてしまったのだ。
突然の体温にびっくりして、私は思わずハンカチを握った手を引っ込める。
(神父様に、触れてしまった……)
指先が、急に熱を帯びる。
体も熱ってしまって、熱くてたまらない。
ここが暗くてよかった……。
この明るさなら、きっと神父様も私の赤く染まった顔に気がつかないだろうから。
「す、すみません、神父様……ッ!」
「いえ、少しは落ち着きましたか?」
俯きながら、私は小さく首を縦に振る。
別の意味で心臓がうるさく鳴っている。けれども、驚きで先ほどまでの涙は引っ込んでしまった。
「本当にすみません……突然泣き出してしまうなんて……」
「それだけ気を張っていたという事でしょう。私の方こそ、先日は申し訳ありませんでした。どうしても外せない用事がありまして……。あなたがそのようになってしまうほど、私がいない間に、何があったのですか?」
「それが……」
下唇を噛み締めてから、私は神父様のハンカチを握りしめて、昨晩までのことを全て神父様に話した。
「……という事なのです。このままではきっと、私はレグルス様と結婚することになるでしょう……」
すべて話終えると、神父様は少しの間口を閉ざしてしまった。
短い……けれど、私にはとても長く感じた沈黙。
それを破って、神父様は口を開いた。
「……一つ、お聞きしても?」
いつも以上に恭しく、神父様が私に尋ねる。
「……ニア、あなたはどうしたいですか?」
「えっ……?」
思ってもみない質問に、言葉が詰まる。
私は……。
私は、どうしたいのだろう……?
「私は、ヴォルフラム様と婚約をしています。だから……」
「ニア、ヴォルフラムと婚約をしているのは、ミアですよ」
「ッ……!」
そうだ。
だめだ、こんな表面的な言い訳は。
神父様が聞きたいのは、ミアとして振るまう私の考えではない。
私の……ニア自身の考えだ。
「……質問を変えましょう。ミアだったら、どうしますか?」
「ミア、だったら……」
本物のミアお姉さまだったら……。
その答えは、簡単だ。
「ミア、だったら……きっとすぐにヴォルフラム様との婚約を解消して、レグルス様のプロポーズを受けると思います」
より地位が上であるレグルス様の方が、お姉さまにとっては価値が高い。
だからミアだったら……喜んでレグルス様と結婚すると言い出すだろう。
ミアは、そういう人だ。
「ではニア、あなたはなぜミアとして……レグルス様のプロポーズを受けなかったのですか?」
「それは、その……」
ミアになり切るのであれば、あの時プロポーズを受けるべきだった。
でも、断った。
それは、ミアとしてではなく、私が、レグルス様を拒絶したからだ。
その理由は、すぐに思い当たった。
レグルス様を思うと、真っ先に脳裏に浮かぶのは、あの黄金の双眸だ。
真っ直ぐに、私を見つめてくるレグルス様の、瞳。
レグルス様が私を見るその目は、獲物を前にその肉の味を想像して、恍惚に酔いしれる、猛獣のそれと全く同じだった。
だから……。
「……怖い、のです……」
震える喉で、私はなんとか言葉を紡ぐ。
「怖い?」
「はい……私は、レグルス様が怖くて仕方ありません」
震える手を押さえるように、私は指を組んだ。
「だからあなたは、レグルス様とは結婚したくないと?」
「はい」
「……わかりました。では、もう一度伺います」
神父様の声に、私は顔を上げた。
手は、まだ震えている。
「……ニア、あなたはどうしたいのですか?」
「私……は……」
再び、同じ質問を受け、それでも私は、思わず顔を伏せた。
レグルス様とは、結婚したくない。
それははっきりしている。
では、それ以外はどうだろう?
ヴォルフラム様は素敵な方だ。そこに疑いの余地はない。
けれど、積極的にお慕いしているかと言われれば……多分違う。
ヴォルフラム様に抱いているのは、思慕の念が近い。
境遇が少し似ていて、本好きで……。
お会いできれば、もしかしたら友のようになれるかもしれない。
それくらいのものだ。
私が……。
私が、恋焦がれているのは……。
ちらっと、格子戸に目を向ける。
それだけで、私の胸の音は急に高鳴った。
気がつけば、手の震えが止まっている。
組んだ手の下には、先ほど神父様から受け取った、白いハンカチがあった。
(ウィリアム、神父様……)
胸の奥で、名前を呼ぶ。
するとそこから徐々に、温かさが広がっていった。
それなのに、どこか苦しい。
そうか、きっとこの感情を恋……と言うのね。
(けれどこの気持ちを、神父様に伝えるわけにはいかないわ……)
だってここは懺悔室。
神父様は善意で、私の話を聞いてくださっているに過ぎない。
そこを履き違えてはいけない。
この気持ちだけは、神父様にも伝えずに、私は一生抱えて生きていく。
大丈夫。
この気持ちなら、墓場まで持っていける。
(ミアとして生きることに比べたら、なんでもない。だって、神父様を思う気持ちは、こんなにも温かいんですもの)
組んでいた指を解いて、自分の胸に当てる。
トクトクと、うるさいほどに脈打つ心臓の音を感じながら、私は一度息を吸うと、ゆっくり吐き出した。
そして真っ直ぐ、格子戸を見つめる。
「私は、レグルス様とは婚約したくありません」
はっきりと、私は言葉にする。
これは、絶対だ。
そして、もう一つ。
「そして、もしも……もしも可能であるならば、ミアとしてではなく、私は……私は私として、ニアとして生きたい……!」
強く、私は神父様に自分の想いを伝えた。
自分の気持ちを、ここまでしっかりと口にしたことなど、今までなかった。
口にして、初めてわかった。
そうか。
私はずっと……。
ただ、私でいたかっただけなんだ。
「……わかりました」
私の声を聞いて、神父様は静かに答える。
「……ニア、その気持ちを忘れることなく、それでも流れに身を任せてください。そして、何が起ころうと、ヴォルフラム様を信じてください。きっと、最後はあなたの願うようにしてみせます」
「……はい」
ギュッと、私はハンカチを握りしめる。
きっと、大丈夫。
私には、神父様がいてくださるのだから。
「あなたに、神のご加護がありますように」
いつものように、神父様に祝福をいただいて、私は懺悔室の扉を開けた。
そこで、はたと手に持っていたハンカチの存在を思い出す。
涙でぐしょぐしょな上、強く握りしめていたせいで、ハンカチはひどい有様だ。
扉を開けたまま、私は神父様に声をかけた。
「あの、神父様……」
「どうかされましたか?」
神父様も、そのまま答えて下さる。
「ハンカチ、申し訳ありませんでした。洗ってお返しいたします」
そう言い残して、私は懺悔室を後にした。
私は、少しだけ浮かれていたのだ。
久しぶりに、神父様に会えて。
神父様に触れられて。
神父様から、ハンカチを受け取って。
だから……。
「あの、声は……?」
だから教会の柱の影で、レグルス様の従者……アルが、私と神父様のやりとりを聞いていることに、まったく気がつかなかった。
***
「ミア、少しいいかい?」
神父様の元を訪れてから数日後、自室のソファで本を読んでいた私の元へ、レグルス様が訪ねてきた。
追い返すわけにもいかないので、短く「どうぞ」と返事をすれば、レグルス様はすぐに私の部屋へ入ってきた。
「やあ、ミア!今日はまたいい天気だね」
「そうですわね、レグルス様。ところで今日はなんのご用件で?」
雑談を始めようとするレグルス様に対して、私はミアを演じながら淡々と尋ねた。
「つれないね。もう少し会話を楽しませてくれてもいいのに」
そう言いながらも、レグルス様は嬉しそうに笑っている。
きっと私が何をしようとも、この方は笑っているのだろう。
「でも君がそう言うなら、望み通り、早速本題に入ろうじゃないか」
私の座っているソファの対面に、レグルス様はゆっくり腰掛けた。
レグルス様がここへ来た地点で、何の話をしに来られたのか、おおかた予想はつく。
「ヴォルフラムが、君との婚約破棄を受け入れたよ」
「……!……そう、ですか……」
一瞬、瞠目するも、私は淡々と答えた。
そんな私を見て、レグルス様は一層口角を上げる。
「これが、その同意書だ」
そう言いながら、レグルス様は一枚の紙を私に手渡した。
そこには私との婚約を破棄する旨が記され、最後にはヴォルフラム・レウコス・ナヴィガトリアとサインがされている。
そのサインは、見間違えることはない。
毎回私に手紙をくださる、あの端正な文字だった。




