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エリダヌスの流れには逆らえない

 レグルス様が、私の頬を伝う涙を拭う。

 ぼんやりと見つめる先には、レグルス様の黄金の瞳が弧を描いていた。


 突然のことに、会場がざわつく。けれど、その音はどこか遠くに聞こえた。


 つい今し方、レグルス様はセシリア様との婚約破棄を告げたばかりだ。

 それなのにレグルス様は、今……なんとおっしゃった?



(けっこん、して……くれないか?)



 耳に残っている言葉を、脳内で反芻する。

 けれど、その意味が理解できない。いいえ、理解したくない。



(だって、そんな……レグルス様が、ありえない)



 その時だった。



「レグルス!!!」



 雷のように低い声が、広間へ落ちる。


 その声の先にいらっしゃったのは、椅子から立ち上がった国王様だった。



「これは、どういうことだ?婚約破棄については聞いていたが、結婚……だと?」


「申し訳ありません、父上」



 私から手を離し、レグルス様は国王様に向き直ると頭を下げた。

 しんと、広間が静まり返る。


 その静寂を破ったのは、セシリア様だった。



「婚約破棄については……聞いていた?な、何を……何をおっしゃっているの……?」


「……父上の言った通りだ。君との婚約破棄は、随分前から決まっていた」



 レグルス様は、目線さえもセシリア様に向けずに答える。

 自身とは一切目を合わせないレグルス様に、セシリア様の体は震えていた。



「プロポーズの予定は、なかったけれどね」



 そう言って、レグルス様は私の手を取る。

 気づけば、私は背後から抱き込まれていた。



「まあ、いつか言う予定だったものが、今日になっただけだよ」



 耳元で、レグルス様が囁く。

 その吐息で、私の意識は再びはっきりしてきた。

 慌てて私は、レグルス様の顔を見上げる。

 


「お、お待ちください、レグルス様!私はすでにヴォルフラム様と……!」


「あぁ、その点に関しては悪かったね。順番が前後してしまった。けれどそんなもの、すぐに破棄すればいいだけの話だ。何の問題もないだろう?」


「っ……そんな……!」


「それに……」



 レグルス様は、より強い力で私を抱き寄せた。

 その腕から逃げ出そうと、私は身を捩る。



「ッ……!」



 瞬間、首筋に鋭い痛みが走った。


 レグルス様は私の首筋に顔を埋め、噛み付くようなキスをしたのだ。



「……君以上に、僕に相応しい女性はいないよ。ミア」



 唇を離すと、レグルス様はうっとりと、私の喉元に触れる。

 空気に触れた、首筋がジクジクと熱を持つ。


 その時、私はセシリア様と目が合ってしまった。

 シリウスに押さえつけられながら、セシリア様は恐ろしい形相で私を睨みつけている。


 しまった、と思った時には遅かった。



「レグルス様っ!そのようなことはおやめください!その女、教会の神父様と不貞を働いているのですよ!!!」


「……なっ?!」



 セシリア様が発した言葉に、耳を疑った。

 いったい、何を言い出すの?!


 私と神父様は、一切そのような関係にない。

 一方的に、私がお慕いしているだけだ。


 それが、不貞を働いているだなんて……!!!



「違います、セシリア様!神父様のところへは、相談に行っているだけで……ッ!」


「相談に?そんな頻繁に行く必要があって?」


「それは……」



 言葉に詰まる。

 やましい関係では決してないけれど。


 けれど、私は……。

 


「ほら、ごらんなさい!やっぱり、やましいことがあるのでしょう?」


「違います!そんなことは断じてありません!」


「嘘よ!そうやって、あなたは男を誑かしているのでしょう?!」


「誤解です!セシリア様!」


「レグルス様にも、同じように色目を使って……このメスネコ風情が……ッ!!!」


「……もう、いいか?」


「ッ……!」



 徐々に声を荒げ、捲し立てるセシリア様に、今まで黙って聞いていたレグルス様は地を這うような低い声で言い放った。

 明確に怒気を含んだレグルス様の声に、セシリア様は怯んで息を呑む。



「何度でも言おう。……セシリア、君がどれだけここで喚こうと、結論は変わらない。君はもうただの貴族の娘で、僕とはなんの関係もない」


「そんな……」



  はらりと、セシリア様の瞳から涙がこぼれ落ちる。

 一度(ひとたび)落ちてしまうと、次から次へと涙が床を濡らした。



「でも、そうだね。元婚約者への情けだ。最後に一つ、教えてあげるよ」



 レグルス様はようやく私から手を離した。

 そしてはらはらと涙に濡れるセシリア様に、そっと耳打ちする。



「……バラはすぐに枯れる。けれど、星は……いつまでもその輝きを失わないんだよ。セシリア」


「ッ……!」



 シリウスに拘束されたまま、セシリア様はその場に崩れ落ちる。

 レグルス様は小さく口角を上げると、私の腕を掴んで舞踏会の会場を後にした。


 遠くから、舞踏会の閉会を告げる声が、微かに聞こえた。



***




「……レグルス様、お放しください!」



 会場を離れ、王宮の廊下まで来て、私はレグルス様の腕を振りほどいた。

 月明かりが差し込む廊下は、夏場だというのにひんやりとしていて、妙に寒気がする。

 


「あぁ、すまなかったね」



 口では謝罪の言葉を並べているものの、レグルス様は全く悪びれる様子がない。

 思わず、私はレグルス様を睨みつける。



「すまなかった、ではありませんわ。なぜ……なぜあの場で、あのようなことを?先ほども申し上げましたが、私はヴォルフラム様と婚約しているというのに……!」



 私はなんとか口調だけはミアを演じながら、それでもレグルス様を非難する。

 このようなこと、いくら第一王子とはいえ、許されていいはずがない。



「関係ないよ。君はもう、俺のものだ」



 そう言って、レグルス様は再び私の腕を掴もうとした。

 けれど私は、その手を払いのける。



「関係ないわけがありません。私はあなた様のものではありません。私は……ヴォルフラム様のものです!」



 真っ直ぐに、私はレグルス様を見つめながら答えた。

 

 一瞬、言い淀んでしまったのがいけなかったのか、私の様子を見てレグルス様は鼻で笑う。



「まさか、君がそこまでヴォルフラムに惚れ込んでいるとは思わなかったよ。だから俺に対してはつれない態度だったのか」



 どうやらレグルス様は勘違いしてくださったらしい。

 それなら、そこに私は乗るまでだ。



「いいえ、そのような問題ではないと申し上げたではありませんか。私はヴォルフラム様と婚約しているのです。ヴォルフラム様を優先するのは当然ですわ」


「だったら、その婚約をさっさと破棄すればいい。きっとあいつはすぐに応じるはずだ」


「……では、このお話の続きは、ヴォルフラム様のお返事を待ってから……ですわね」



 レグルス様を置いて、私は一人、屋敷へと戻った。


 震える脚で、それでも胸を張って背筋を伸ばす。

 気を張っていないと、今にも倒れてしまいそうだった。



(こんな時、神父様がいてくれたら……)



 早く。

 早く礼拝の日にならないだろうか。


 今はただ……。

 ただ、神父様の声が聞きたい。


 闇夜の中で綺麗に登る月に、私はそう願わずにはいられなかった。




***




「……よろしいのですか?」



 ミアの姿が見えなくなると、暗がりから現れたアルが、レグルスに声をかけた。



「あぁ、何も問題はない。突然のことで、彼女も混乱しているんだろう。それに狩りは……追い詰めているときが、一番楽しいだろう?」


「左様でございますか」



 高揚するレグルスに対して、アルは静かに返事をする。

 


「……それより」


「いかがされましたか?」


「いや、ちょっとな……」



 アルと会話を交わし、少し冷静になったレグルスはおもむろに腰に携えた剣の柄に指を這わせた。

 思い出されるのは、セシリアの残した言葉だった。



『その女、教会の神父様と不貞を働いているのですよ!!!』



 ミアが定期的に教会へ行っていることを、レグルスは部下の報告で知っていた。当然、やましい事が何もないことも、だ。それなのに、何かが胸につっかえている。



「……アル」



 低く、レグルスはアルの名前を呼んだ。



「はっ」


「……教会について調べろ」


「教会……ですか?」


「あぁ」


「……かしこまりました」



 レグルスの命を受け、アルは短く返事をしてその場を離れた。

 廊下には一人、レグルスだけが残る。



「教会の神父……か」



 剣の柄をレグルスはおもむろに掴むと、少しだけ刀身を滑らせた。

 白銀の刀身が、月光を一筋だけ弾く。

 


「困るな……俺の知らないミアを知ってるなんて」



 そしてすっと、刀身をしまうと、レグルスは廊下を歩き始めた。

 月明かりを受けて、レグルスの髪が煌めく。廊下には、レグルスが踵をならす規則正しい音だけが、遠くまで響いていた。


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