クレイターは満ちていく
セシリア様とのお茶会の帰り、私は揺れる馬車の中で結われた髪を解いて、髪に絡まる黄色いバラを抜いた。頭皮がじくじくと熱を帯びる。よく見ると、バラの棘にはうっすら赤いものがついていた。
「ミア様、それは?!」
血のついたバラに、シリウスは目を見開く。
「何でもないわ、シリウス」
「何でもないわけがありません、早く手当を……!診療所へ向かってくれ!」
シリウスはすぐさま窓を開けて、御者にそう伝える。
御者は短く「承知いたしました」と返事をして、行き先を王宮から診療所へと変更した。
「大丈夫よ、もう血は止まっているもの」
「そうであったとしてもです。……あの時ですね。気づくことができず、申し訳ありませんでした」
シリウスは私の横に座り直すと、私の髪をかき上げて頭の傷を診てくれた。
声は、とても優しい。けれど、その中にはうっすらと怒気がこもっているのが伝わってくる。
「……申し訳ないのは私の方よ。それに、セシリア様にも誤解を招いてしまって……」
私は手に持った黄色いバラを見つめた。
これはきっと……セシリア様からの警告だ。
「……嫉妬、よね……」
「え?」
「黄色いバラの花言葉ですわ。……きっと、セシリア様はご存知なのね。私と、レグルス様のことを」
「……しかし、あれはレグルス様が!」
声を荒げるシリウスに、私はゆっくりと首を横に振った。
「セシリア様には関係ないわ。あの方から見れば、私は急に現れて、レグルス様を誑かした悪い女ですもの」
「そんな……ミア様はそのような方ではありません!」
「ありがとう、シリウス。そう言ってもらえるだけで嬉しいわ」
小さく笑って、私は視線を再び手元のバラに戻した。
セシリア様は、どこまで私とレグルス様のことを知っていらっしゃって、どれだけ誤解していらっしゃるのだろう。
私とレグルス様の間には、何もない。
けれど、何もないことを証明することは、何よりも難しい……。
「なんとか、誤解を解ければいいのだけれど……」
黄色のバラを見つめながら、そう願った。
けれど当然、そう簡単にいくはずがなかった。
あれから、私はなんとかセシリア様と話をしようと、手紙を送ってみた。けれど、一向に返事はない。王宮で偶然お会いしても、避けられてしまって、話をする以前の問題だった。
一方で、先日セシリア様から買い物の誘いがあった。
もちろんご一緒したけれど、セシリア様は買い物に夢中で、レグルス様の話はできなかった。
それどころか、セシリア様は折に触れて一見して社交界には不向きなドレスなどを私に勧められるので、答えに窮してしまうことがしばしばあった。
かと思えば、逆にセシリア様には何が似合うのかと意見を求められ、私が答えると「こんな安いものをわたくしに?」と、何と答えても機嫌を悪くされてしまう。
これではどうしようもない。
さらに困ったのはレグルス様だ。
あの日を境に、レグルス様は周囲の目を憚ることなく、露骨に私への好意を表に出すようになったのだ。
私を見かけるたびに、レグルス様は息をするように私の容姿を賛美して、必ず体のどこかに触れようとする。
これでは、セシリア様の誤解がますます深まってしまう一方だった。
そして、さらに頭を悩ませる出来事があった。
私の元に、新たに一通の手紙が届いたのだ。
手紙の裏にあったのは、太陽と星の描かれた盾……。決して忘れることはない、シルビアス家の印章だった。
(手紙だなんて、今まで来たことなかったのに……)
恐る恐る、封を切る。
手紙を読み進めると、そこには父から、資金の追加援助をするようにという内容が、長々と綴られていた。
婚約の条件の一つとして、定期的にシルビアス家にはお金が入るようになっている。
それもあって、これまで連絡が来ないと思っていたのに……。
(……これまでの資金援助では、足りない……というの?)
読み終えた手紙を、机の上に置く。
そして私は窓の外を見た。
あそこで、何が起こっているのだろう……。
手紙には、この春、北部で大雨が続き、水害への対応で資金が不足していると書かれていた。でも、それは本当なのだろうか……。
王宮にいる私には、調べる術がない。
窓に触れた手を、私は拳に握りしめた。
(とりあえず、この件に関しては、私だけでは決められない……。ヴォルフラム様に進言してみる他ないわ。けれど、ただでさえヴォルフラム様には嘘をついていて心苦しいというのに、さらに嘘を重ねるだなんて……)
大きく、息を吸って、吐く。
そうでもしないと、息苦しさで溺れてしまいそうだった。
レグルス様のこと。
セシリア様のこと。
お父様のこと。
やらなければならないことが、多すぎる。
「こんな時、神父様がいてくださったら……」
早く……早く礼拝の日になって欲しい。
「私、一人では……どうすることもできません……」
そっと、私は首から下げていたロザリオを握りしめた。
***
そしてようやく、待ちに待った礼拝の日が、明日に迫った。
もうすぐだ。
もうすぐ、神父様に会える。
そのせいで、私は少し気が抜けてしまっていたのだ。
気分転換のために、クロエと一緒に中庭へ向かって歩いている途中で、それは起こった。
「やあ、ミア!」
「れ、レグルス様……」
王宮の廊下で、レグルス様と出会ってしまったのだ。悪いことに、今日はたまたまシリウスが用事のため、一緒ではない。
そしてさらに悪いことに、レグルス様は私を見つけるや否や、笑顔を浮かべながらこちらへ駆け寄ってきたのだ。一緒にいらっしゃった、セシリア様を置いて……。
このようなことをすれば、セシリア様がどう思われるか、わからない方ではないはずなのに。
思わず、一歩後ずさる。
けれどレグルス様は、すぐにその距離を詰めてきた。
「今日は散歩かな?」
「え、えぇ……。少し、中庭へ行こうと思っていましたの」
「そうか。今日は予定があってね、一緒に行けなくて残念だ」
「ぜひまたご一緒してくださいませ」
ミアの笑顔を使って、なんとか取り繕う。
早く、ここから逃げなければ。
そう思うのに、足がいうことを聞かない。
「もちろんだよ、ミア」
そう言いながら、レグルス様はゆっくりと、私の頬に手を伸ばした。
「レグルス様!」
その手を止めるように、後からやってきたセシリア様は、レグルス様に声をかける。そしてセシリア様は、私と一切目を合わせることなく、レグルス様の腕を掴んだ。
「レグルス様、早く参りましょう。今日は新しいドレスを見に行く約束でしょう?」
「そうだね、セシリア。でも……少し待っていてくれ」
自身の腕を掴むセシリア様を、レグルス様はやんわりと遠ざける。
かと思えば、レグルス様は私の耳元に顔を寄せた。
「……ミア、もう少しだけ待っていてくれ。まだ君には伝えられないのだけれど、絶対、悪いようにはしないから」
誰にも聞こえないように、レグルス様はそう、私に耳打ちをした。
(何を……おっしゃっているの?)
レグルス様の言わんとしていることがわからず、私はその場に立ち尽くす。
けれどすぐに息を吸って、私は慌てて振り返った。
視線の先にいらっしゃったのは、何事もなかったかのようにセシリア様の手を取り、どこかへ向かわれるレグルス様の後ろ姿だった。
耳に残る、レグルス様の声。
その感覚に、ぞくりと背筋が粟立つ。
脚の震えが、止まらない。
しばらく、私はその場を動くことができなかった。




