されどサジッタは刺さらない
太陽の光を遮るウィステリアが、風に揺れる。
その下で、レグルス様は私を掴んで離さない。
逃げられない。と、本能的に悟った。
レグルス様の影で、視界が暗くなる。
射抜くように、私を見つめる黄金の双眸。
目が、離せない。
あくまで優しく、レグルス様は私の頬に手を添えた。
けれど、触れられたそこから、一気に体温が奪われていく。
「……黙って」
そう言うや否や、レグルス様は私に顔を近づける。
違う。顔、ではない。
レグルス様が近づけたのは、唇だ。
私の唇を、レグルス様は奪おうとしている……。
「……いやっ!」
「ッ……!」
思わず、私は顔を背けた。
些細な抵抗でしかないことはわかっている。
案の定、レグルス様は頬ではなく、今度は私の顎を掴んだ。
これでは、もう逃げられない。
けれども、抵抗しないわけにはいかない。
だって、だって私は……。
私は!
「そんな可愛らしいことをしないでくれよ。俺だって我慢の限界なんだ」
あぁ、どうしよう。
初めてのキスだというのに。
(助けて……ッ)
現実を見ていられなくて、自然と瞼が落ちた。
頬を、何かが伝っていく。
その時だった。
「……そこまでです。レグルス様」
「ッ……?!」
黒い影が、私とレグルス様の間に、割って入る。
(……神父、さま?)
一瞬、そう願ってしまった。
けれど、私の顎を掴むレグルス様の手を制止してくれたのは、もちろん神父様ではない。
この、見覚えのある騎士の姿は……。
「……シリウス……?」
「お戯がすぎます」
「お前は……ヴォルフラムの」
なぜお前がここにいるんだ。
と、レグルス様の目はシリウスを鋭く睨んでいた。
けれどシリウスはその目に臆することなく、むしろ堂々とここにいる理由を述べた。
「ヴォルフラム様の命で、ここの管理を任されております。近くを見回っておりましたら、ミア様の声が聞こえましたので」
「そうか。だったら、もう下がっていい」
「そうはまいりません。見たところ、ミア様はお加減が優れないご様子。私が責任を持って屋敷へお連れします」
「それなら心配いらない。僕が連れていくよ。……ね、ミア」
シリウスを前にしてもなおも、レグルス様の瞳からはあの輝きが消えていなかった。
一度意識してしまうと、はっきり感じてしまう。
怖い。
レグルス様が、怖くてたまらない。
「も……もうしわけありません、レグルス様。レグルス様のお手を、わずらわせるわけにはまいりませんわ。……シリウス、屋敷までお願いできる?」
「もちろんです。参りましょう、ミア様」
少し強引に、シリウスはレグルス様から私を引き離す。
けれどそれを、レグルス様は良しとしなかった。
より強い力で、レグルス様は私の腕を引いたのだ。
そして引っ張った私の手首に、レグルス様は、噛み付くようにキスをした。
「……今日は邪魔が入ってしまったね」
「ッ……!」
私を見つめる眼光。
そのあまりの輝きに、息ができなくなる。
……この方は本当に……本当に、私を食べようとしているのではないだろうか。
背筋が、ぞくっとする。
「ランチはまた今度。今日はゆっくり休んで……ミア」
そう言って、レグルス様はようやく私の手を離した。
シリウスに手を引かれながら、急いで屋敷へと向かう。
けれど、体が冷たくて仕方がない。
まだ、あの視線が、こちらに鏃を向けている気がしてならない。
うまく、歩けない。
「ッ……!ミア様!!!」
……もう、限界だった。
屋敷へ戻る途中で、ふっと視界が暗くなったのだ。
遠くで、シリウスの声が、ぼんやりと聞こえる。
「なんなの……あれはッ」
そのせいで、遠くから私たちの様子を見ていた人影があったことに、私は気づくことができなかった。
***
「んッ……」
暗い、真っ暗な闇の中に、光る何かがあった。
それは二つ、並んでいる。
並んで、真っ直ぐに私を見つめている。
『ミア……』
「ッ……?!」
私の名前を呼ぶ、レグルス様の声。
その声で、私は目を開いた。
けれどどこを見渡しても、そこにあるのは見慣れた自室の天蓋で、レグルス様の姿はない。
慌てて体を起こして、周囲を確かめてみる。
それでもやっぱり、ここにレグルス様の姿はなかった。
どうやら私は、自分の部屋にいるらしい。
体が、やたらと重い。
部屋の明かりも、いつもより余計に眩しく感じる。
確か私は、ウィステリアが綺麗だからとクロエに言われて、お庭を見に行って、それで……。
「ッ……!!!」
あの時のことが、急に鮮明に思い出されて、私は思わず後退りする。
強く抱き寄せて離さない腕。
私を狙うレグルス様の双眸。
近づいてくる唇。
吐息。
思い出すだけで、震えが止まらない。
けれど、これ以上後ろなどあるはずがなくて、私はヘッドボードに体を打ちつけてしまった。
「……ッ!ミア様!!!」
その音を聞きつけて、クロエが部屋にやってくる。
そして私の顔を見るや否や、驚いた顔を見せたかと思うと、すぐに安心した表情に変わった。
「あぁ、よかった!お目覚めになられたのですね!お待ちください。すぐにシリウスも呼んで参ります!!!」
私が呆気に取られている間に、クロエは手早く水を用意して私に手渡すと、早口でそう言い残して、部屋を出ていってしまった。
私一人が、部屋にポツンと取り残される。
けれど、クロエはすぐにシリウスを連れて、部屋に戻ってきた。
シリウスも、私の顔を見るなり安心したような、柔らかい表情を見せる。
それほどまでに、私は二人を心配させてしまったのだろうか。
「ミア様、お加減は大丈夫ですか?」
「えぇ……。心配をかけてしまったわね」
「本当です……!あれから二日ほど寝込んでいらっしゃったんですから」
「え……?」
二日も?
まさかそんなに時が経っているとは思わず、私は思わず目を丸くする。
そうか、だからこんなにも体が痛くてたまらないのか。
それに、喉も乾いていて、声も掠れてうまく出すことができない。
「ミア様……あの後、熱でうなされていらっしゃったんです」
「熱で……?」
「はい……。本当に申し訳ございません。私がご一緒していれば……」
「いいのよ、クロエ。ありがとう」
あの時、きっとレグルス様はどんな手を使ってでも、私からクロエを遠ざけるように仕向けたに違いない。
だからむしろ、謝るのは私の方だ。
「それにシリウスも……ありがとう。たまたまあそこにいてくれて、本当に良かったわ」
「いえ……。実は、ヴォルフラム様から、しばらくミア様の護衛に着くようにと仰せつかっておりまして」
「ヴォルフラム様から?」
「申し訳ございません。お渡しするのが遅くなってしまいました。こちらを……ヴォルフラム様からです」
そう言って、シリウスが手渡したのはいつもの手紙だった。
私はコップをクロエに渡すと、丁寧に手紙の封を切って、中の便箋を取り出す。
そこには先日、私がヴォルフラム様に宛てた、手紙の返事が書かれていた。
『君から僕に手紙を書いてくれたこと、心から嬉しく思う』
『舞踏会のことは、本当にすまなかった。けれど、君が楽しんでくれたのなら何よりだ』
『むしろ、美しい君の姿を見られなかったことを残念に思う』
『故郷を離れて暮らしているのだから、不安があって当然だ』
『シリウスに話をつけてある。君の護衛のために、しばらく一緒にいるように伝えているから、何かあったら彼を頼ってくれ』
いつもと変わらない、とても几帳面で丁寧な文字だった。
ヴォルフラム様について、私が知っていることは少ない。
けれど、こうして何度か手紙をいただいていて思う。
この方は……ヴォルフラム様は、私が思っている以上に、私のことを思ってくださっているのだ……と。
(そのような方を、私は騙しているのね……)
だって本来ならば、ヴォルフラム様のこの感情は、私ではなくミアに向けられるはずのものだから。
思わず、私は自分の胸の前で、小さく拳を握った。
「そういうことですので、しばらくはミア様の護衛をさせていただきます。何かありましたら、何なりとお申し付けくださいませ」
そう言って、シリウスは私に一礼する。
ヴォルフラム様には申し訳ないけれど、とても、とても心強い。
「ありがとう、シリウス」
笑いながら、私はシリウスに感謝を伝えた。
その後ろで、クロエは目を伏せている。
かと思うと、突然口を開いた。
「それと……ミア様、こちらもミア様宛に届いております」
いつもの調子とは違い、クロエがおずおずと差し出したのは、別の一通の手紙だった。
真紅の封蝋で、バラの印章がくっきりと押されている。
「この手紙、セシリア様から……?」
それはレグルス様の婚約者、セシリア様からの手紙だった。
舞踏会で会ったきり、セシリア様とはしばらくお会いしていない。
それなのに、急に手紙だなんて……。
一体、なにが書かれているんだろう。
私はサッと封を切ると、中の手紙を取り出した。
そこに入っていたのは、一枚の厚紙だった。
長くない文章は、すぐに読み終えてしまう。
「……まぁ、どうしましょう」
それは、セシリア様主催のお茶会の招待状だった。




