サジタリアスは矢をつがえる
木の葉を巻き上げて、風が吹いた。
クリーム色のドレスが、ふわりと揺れる。
「大丈夫?」
「えぇ」
「気をつけて。あの時みたいに倒れたら大変だ」
風に煽られたわけでもないのに、レグルス様は私の腰に手を添えた。
自然と、逃げるように背筋が伸びる。
「やっぱり、外は気持ちがいいね」
けれどレグルス様は気付いてないのか、私を見て目を細めた。
空が高い。
庭のどこを見ても、新緑が眩しい。
爽やかな風が、庭の木々の間を抜けていく。
けれど外の様子とは裏腹に、私の胸は酷く重い。
どろりと溶けた何かが、体にまとわりついて、体温を奪っていく。
心臓はまるで、警鐘のように激しく鳴っていた。
なぜ、こうなっているのか、自分でもわからない。
それでも、表面上はミアのそれを装った。
今だけは、ミアになることに慣れていて良かったと思う。
「本当に、外に出てきて良かったですわ。レグルス様とこうしてお散歩もできて」
懐っこく笑いかける。
私はレグルス様に促されるまま、植木でできた小道を通って庭の奥へと進んだ。するとどこからか甘い香りが漂ってきて、私は少しだけ顔を上げる。
「この、香りは……?」
「あぁ、ウィステリアの香りだね。咲いているのがすぐそこだから……」
「そうなのですね!早く行きましょう!」
もうすぐ目的地に着く、そう聞いて、少しだけほっとする。
レグルス様には悪いけれど、ウィステリアを見たらすぐに屋敷へ戻ろう。
そう思った時だった。
「そうだミア、目を瞑ってもらえるかい?」
「えっ……?」
思わず、私はレグルス様の顔を見る。
レグルス様は私を見ながら、口角を上げていた。
「目を……ですか?」
今は、レグルス様と二人きり。
その上、視界まで閉ざすだなんて……。
なんと答えたらいいのかわからず、すぐにレグルス様から顔を背けてしまった。
「……怖い?安心して、ちょっとしたサプライズをしたいだけだから」
「ですが……」
「……だめ、かな?」
そう言って、レグルス様は屈んで視線を私に合わせ手を取ると、少し困ったような顔をしてみせた。まるで、母親におねだりをする幼子のように。
ここまで第一王子にお願いをされてしまっては、断る方が不自然だ。
それにミアだったら……。
『まあ楽しみ!絶対に手を離さないでくださいね!』
そう言って、嬉々として目を瞑るに違いない。
「……わかりましたわ、レグルス様」
私は、下唇を噛み締めた。
「でも絶対に、絶対に……私の手を離さないでくださいね?」
「もちろんだよ」
よほどレグルス様は嬉しかったのか、なおも幼子のような笑顔を私に見せる。その目を見つめながら、私は恐る恐る瞼を閉じた。
真っ暗で、何も見えない。
そのせいで、ついレグルス様の手を強く握りしめてしまう。
その手を、レグルス様は優しく握り返すと、改めて私の腰に手を添えた。
レグルス様に触れられたところから、すっと熱が奪われていく。
寒い。
寒くて、たまらない。
風のささやく音に混じる、レグルス様の規則的な呼吸音。
心臓の音は、私のものなのか、それともレグルス様のものなのか……。
よく、わからない。
けれどだんだんと、甘い香りが近づいてくる。
さわさわと、植物が擦れるような音も次第に大きくなってきた。
すると急に、レグルス様の足が止まった。
「……レグルス様?」
どうしたのだろう?
不安になって、目を閉じたまま顔を上げる。
その様が面白かったのか、少しだけ、レグルス様が笑ったような気がした。
「お疲れ様、ミア。ついたよ。さあ……目を開けて」
そう、レグルス様に促されて、私はゆっくりと瞼を開ける。
そこに飛び込んできたのは、淡い紫色の波だった。
風が吹くたびに、紫色が揺れる。
その隙間から、太陽の光が差し込んで、地面はキラキラと星屑をまぶしたように輝いていた。
幾重にも重なる、大きな紫のアーチ。
ウィステリアだ。
レグルス様でも楽々通れるサイズで作られたウィステリアのアーチが、一定間隔で奥まで続いている。まるで紫色のトンネルの中にいるようだった。
「すごい……」
……なんて、綺麗なんだろう。
先ほどまで感じていた得体の知れない感覚が、一瞬どこかへ行ってしまう。
「綺麗だろう?ここは以前、祖母が管理していたんだ」
「前王妃様が?」
「植物が好きな人でね。王妃という立場なのに泥まみれになっていたものだから、母には近づかないように言われていて、僕はあまり関われなかった……。逆にヴォルフラムは、よく横で本を読んでいたよ」
「そう、なのですね」
ヴォルフラム様が……。
確かに、ウィステリアが影になっていて、芝生の上はちょうど良い明かりに照らされている。
ここで本を読むのは、それは気持ちよかったことだろう。
(……それに神父様も、本がお好きだった)
いつも神父と一緒にいるのは、蝋燭の炎だけが灯る懺悔室。
それがもしも、このような明るい場所で神父様と一緒に談笑できたなら……。
きっと、楽しいに違いない。
その様を想像して、自然と口元が緩むのがわかった。
「……綺麗だね」
「……え?」
風が吹いて、声が聞き取れなかった。
私は、レグルス様に顔を向ける。
「……ッ!」
瞬間、ひゅっと、息を呑んだ。
レグルス様の金色の瞳が、私を捉えていたからだ。
鋭く輝くその瞳からは、先ほどまでとは違って、感情が全く読み取れない。
レグルス様は……いったい何を考えていらっしゃるの?
「あの、レグルス様はなぜ……ッ?!」
「危ない!」
なぜ、私に構うのか……そう尋ねようとした瞬間、一陣の強い風が、垂れ下がったいくつものウィステリアの花を揺らした。
あまりの強さに、ドレスのスカートと髪が、風に連れていかれる。
風を受けたドレスのせいで、私はバランスを崩してしまった。
けれど、どこにも倒れた痛みはない。
「……大丈夫?」
「あ、ありがとうございます」
風に舞い散る、ウィステリアの花びらの中。
レグルス様が、私を抱き抱えてくださった。
「あの時みたいだね。舞踏会でも、ミアは倒れそうになっていた」
まただ。
また、あの瞳が、私を捉えて離さない。
「あまり体が丈夫ではないのかな?無理はしないようにね」
「……は、はい」
早く、ここから抜け出さないと。
本能的に、そう思った。
けれど、レグルス様の腕は私の体をしっかりと捕らえていて、逃げることができない。
「それにしても、本当に綺麗だ……」
優しく、レグルス様は私の頬にかかっていた髪をそっと避ける。
その指の感覚に、背筋が凍っていくのを感じた。
あぁ、そうか。
やっと……やっとわかった。
ずっと、私がレグルス様に感じていた、どろりとした感情の正体。
これは……。
(……恐怖、だ)
逆光の中で、レグルス様の黄金が光る。
それはさながら、猛獣が獲物を見つめるそれだった。
「なんて言ったかな?その発光したような青い湖の色は……以前、どこかで見た宝石にそっくりだ」
「あの、レグルス様……?」
絞り出すように、私はレグルス様の名前を呼ぶ。
その声に、レグルス様は今までに見たことのない笑みを浮かべた。
「……黙って」
私の頬を掴んで、レグルス様は影を落とした。




