エイラに供物を
レグルス様と一緒に観劇を見に行ってから数日、あれから少し……気になることが起こるようになった。
「やあ、ミア。奇遇だね」
「まあ、レグルス様!」
こうしてたびたび、レグルス様と王宮内でお会いするようになったのだ。
「どうしたの?こんなところで」
「以前、図書館でお借りした本を返しにいくところですの」
「そう?気をつけてね」
王宮内はとても広い。とはいえ、レグルス様とは建物自体は違えど、同じ敷地内に住んでいるので、このように顔を合わせること自体は、なんら不思議ではない。
(不思議、ではないのだけれど……)
レグルス様とお会いすると、あのときのことを思い出してしまって、首の後ろがゾクゾクするのだ。それと同時に、首筋から背中へ向かっていく、このどろりとしたものは、一体なんなのだろう。
(もしかしたら、神父様ならわかるかもしれない……)
自分の胸に、手を当ててみる。
けれど指先には、一定のリズムで脈を打つ自分の心臓の鼓動しか伝わってこなかった。
***
「……ということが、最近ありまして……」
「そう、ですか……」
胸のざわつきの正体が知りたくて、私はあれから一番近い礼拝の日に、神父様の元を訪ねた。
神父様の声を聞くだけで、少し胸が軽くなるのがわかる。
「何か、おかしなことがあるわけではないのです。けれど、なんと言えばいいのか……」
あの日から、胸につかえるこの感覚を、うまく言葉にできない。
誰から見ても、レグルス様は非の打ちどころのない方だ。それは、私もそう思う。
けれど、どうしてなのだろう。
レグルス様のことを考えると、胸がざわついて仕方がない。
「レグルス様は、とても私によくしてくださいます……けれど、その理由が私にはわからなくて……」
「……気になる、のですか?」
「はい……」
胸に、手を当てる。
なんなのだろう。
この気持ちは。
初めての感情で、なんと名前をつければいいのか、私にはわからない。
「ニア」
神父様が、静かに私の名前を呼んだ。
先日、レグルス様にも呼ばれた。
けれど、同じように名前を呼ばれたはずなのに、レグルス様と神父様とでは、まったく違って聞こえる。
「あなたは、どうしたいのですか?」
いつものように、神父様は私に訊ねた。
そうだ。
神父様のおっしゃるように、私は、レグルス様とどうありたいのだろう。
瞼を閉じる。そして、レグルス様のことを考えてみた。
レグルス様は、確かにお優しい。
けれど、私には……。
レグルス様で思い出されるのは、あの、鋭い眼光だった。
黄金が、私をまっすぐに見ている。
そうだ。
私には少し……レグルス様は、眩しすぎる。
「私……は……」
ゆっくりと、目を開ける。
目の前には、あの格子戸があった。
「私はできるなら、レグルス様と……少し、距離を置きたい……です」
絞り出すように、私は神父様に告げた。
おかしいと、思われるかもしれない。
あれほどまでに素晴らしい方と、距離をとりたいだなんて。
けれど、けれど私は……私は、そうしたいと、強く思った。
「そうですか……わかりました」
「ですが、距離を取ると言っても、実際はいつお会いするかわからないので、どうすればいいのか……」
「そうですよね。では極力、レグルス様と二人きりにならないようにしてはどうでしょう?誰か常に、一緒にいてもらえる者はおりせんか?」
「……それでしたら、メイドがいつもそばにいてくれます」
「それは良かった。ではこれからも、そのメイドの近くにいるようにしてください」
珍しく、神父様は少し早口で私にそう告げた。
きっと神父様にも、何か思うことがあるのだろう。
「それと……もしも可能でしたら、ヴォルフラム様にも相談なさってください」
「ヴォルフラム様に……ですか?」
思ってもみなかった名前に、私は目を丸くする。
「そうです、ヴォルフラム様です。あの方はあなたの婚約者なのですから、きっと力になってくださるはずです」
「そう……でしょうか?以前も申し上げましたが、あの方は私と関わるつもりはないとおっしゃられていましたし、それにこんな些細なことで、ヴォルフラム様のお手を煩わせるのも……」
神父様のおっしゃるように、ヴォルフラム様が力を貸してくださるのであれば、すごく心強い。
けれど、ヴォルフラム様がどのような方なのかよくわからない以上、頼りづらいというのが、正直な気持ちだった。
「大丈夫です」
「えっ……」
「ヴォルフラム様なら、大丈夫ですよ。……きっと」
神父様は、はっきりとそう言った。
これまでにないほど力強い神父様の言葉に、少し面食らう。
けれど、そこまで神父様がおっしゃられるのであれば……私の答えは一つしかない。
「……わかりました」
短く、私は答えた。
「屋敷に帰り次第、ヴォルフラム様に手紙を出してみます」
「そうなさってください。ことは早い方がいい」
「本当に、いつもありがとうございます。神父様……」
私は首から下げていたロザリオを手にとって、強く握りしめる。
大丈夫。
私には、神父様がついていらっしゃるのだから。
「それと……ニア」
「はい」
少し、神父様はいい淀みながら、私の名前を呼んだ。
「レグルス様には……くれぐれもお気をつけください」
「えっ……?」
なぜ、神父様はそのようなことを言うのだろう?
もしかして、神父様は何かレグルス様についてご存じなのかもしれない。
それについて聞こうと、私は口を開きかける。
けれども、格子戸の向こうではすでに神父様は沈黙していらっしゃる。
きっと何をうかがっても、話してはくれないだろう。
「……わかりました」
言いかけていた言葉を変えて、私は神父様に返事をする。
「あなたに、神の祝福がありますように」
今日も、いつものように神父様から祝福を受けた。
もしも可能なら、この時間がずっと続けばいいのに。
そう願ってしまう自分がいる。
神父様を思うと、胸の奥が暖かくなる。
……この感情も、私は知らない。
私はできる限りゆっくりと席を立つと、懺悔室を後にした。
***
「今日はまた、いいお天気ですね、ミア様」
「そうね、とてもいい陽気だわ」
神父様に相談をしてから数日。
私はすぐに、ヴォルフラム様へ手紙を送った。
先日の舞踏会でのお心遣いに対する感謝から始まり、最近少しだけ生活に不安があることを綴ったのだ。
もちろん、レグルス様の名前は出していない。
何も確信がないのだから、出すわけにはいかなかった。
もしも可能であれば、一人で構わないので護衛をつけていただきたいと書き添えているものの、理由が漠然としているせいか、ヴォルフラム様からの返事はまだない。
クロエに朝の支度をしてもらいながら、窓の外を見る。
そこにはどこまでも青い空が、窓枠に切り取られて広がっていた。
ミアだったら、こんな日は何をしていただろう。
「こんな日は、お庭へ行きたくなるわね」
「素敵です!そういえば、先日ウィステリアが見頃を迎えたと、庭師が申しておりましたわ」
「ウィステリアが?」
「えぇ、王宮のお庭にはウィステリアの紫でできたアーチがありまして、毎年とても綺麗な花を咲かせるんです」
「まぁ、すごい!是非見に行きたいわ!」
「では朝食の後にご案内いたしますね」
「ありがとうクロエ!お願いね!」
あれから私は神父様に言われた通り、できる限りクロエと一緒に行動するようにしていた。それにくわえ、レグルス様とあまり出くわすことのないように部屋から出る回数も少しだけ減らしている。
(レグルス様は午前中、公務でお忙しいようだから、その時間であれば出て行っても大丈夫だろう)
……そう、思っていた私が甘かった。
「あぁ、ミアじゃないか!」
「れ、レグルス様……」
にこやかに、レグルス様は私の方を見る。
王宮の庭へ向かう途中の渡り廊下で、運悪くレグルス様と鉢合わせしてしまったのだ。
私が急いで引き返すかどうか迷っている間に、レグルス様は付き添いの従者を置いて、足早にこちらへ向かって来た。
「こんなところで会うなんて、今日は散歩かな?」
「えぇ、クロエからお庭にあるウィステリアでできたアーチが、見頃と聞きましたの」
ミアの笑顔を作って、私はレグルス様を見上げる。
「あぁ、あれか。それなら僕が案内するよ。丁度仕事がひと段落ついて、休憩しようと思っていたところだったんだ」
「そんな、レグルス様のお手を煩わせるわけには……」
咄嗟に、私はレグルス様の申し出を断った。
ミアだったらそんなこと、絶対にしない。
けれど、今はミアは関係ない。
理由はわからないけれど、私は、レグルス様と一緒にいたくない。
そう思ったのだ。
「僕がそうしたいんだよ。ダメ、かな?」
私の手を握り、レグルス様は屈んで視線を合わせる。
ミアでなくても……きっとこんなレグルス様からのお誘いを断る女性はいないだろう。
けれど咄嗟に、私は視線を逸らしてしまった。
「い、いえ……。そのようなことは……」
「じゃあ決まりだ!」
それでもレグルス様の圧に負けて、私は渋々承諾してしまう。
ミアらしくないし、私らしくもない。
けれど仕方ない。
第一王子からの誘いを、簡単には断れない。
それに、クロエは一緒にいてくれる。
二人きりではないのだから、きっと大丈夫だ。
そう……思っていた時だった。
「そうだ!昼食も外で一緒にとろう!」
「えっ……?」
「こんなにいい天気なんだ。庭での食事も楽しいよ!僕も気分転換したいし……。準備、頼めるね?」
「畏まりました」
「君も、一緒にいいかな?ミアの好みを教えてやってくれないか?」
「はい。では、私もご一緒に」
レグルス様は私の意見は聞かずに、従者へ昼食の支度をするように伝えたのだ。そしてクロエにも……。
出しかけた手が宙に浮く。けれどクロエは、すぐにレグルス様の従者たちと一緒に、調理場の方へ行ってしまった。
廊下に残されたのは、私とレグルス様の二人だけだった。
「さ、行こうか」
私に笑いかけながら、レグルス様は私をエスコートする手に力を込める。
戸惑いを隠せないまま、私はレグルス様についていくしかなかった。




