スコーピオンの毒をブドウ酒に一滴垂らす喜び
「……ねえ、クロエ。身支度をしてもらえないかしら?」
「かしこまりました、ミア様」
レグルス様と図書館でお会いしたその日、屋敷へ帰ると本当にレグルス様の従者の方が私の元へやってきて、食事の約束を交わした。
その日が、今日だ。
いつものように、クロエは丁寧に私の髪をすく。
その姿を、私もいつものように鏡越しに見つめていた。
「楽しみだわ、レグルス様とのお食事!」
「とても素敵な方でいらっしゃいますからね、レグルス様は」
ミアの笑みを浮かべながらも、私の胸には言葉にならない不安が澱んでいた。
第一王子との食事、緊張するなという方が無理な話だ。
「ねえ、レグルス様ってどんな方?」
「レグルス様ですか?」
私の質問に、クロエは一瞬手を止める。
けれどすぐに自身の胸の前で両手を握ると、「よくぞ聞いてくださいました!」と目を輝かせた。その目は以前、舞踏会の衣装を選んだ時のそれと、まったく同じだった。
「レグルス様は、それはそれはもう立派な紳士です!幼少の頃から、見目麗しい方だったそうで……!現在は西方の領地の統括をされていらっしゃいますが、レグルス様が統治されるようになってからは、だいぶ土地が潤ったのだとか!また、剣術にも長けていらっしゃって、昨年の剣術披露会では、それはもう素敵で素敵で!剣さばきがまるでダンスでも踊っているかのようでした!」
「西方の話なら、私の故郷でも聞いたことがあるわ。けれど、政だけではなくて、剣術もだなんて……!レグルス様は噂通りの方なのね」
「そうですとも!あんな立派な方、他にはいらっしゃいません!!!」
いつになく興奮気味に、クロエは話す。
きっと、クロエのような女性は多いのだろう。
セシリア様という婚約者がいらっしゃるので、大きな声では言えないのだろうけれど、レグルス様を陰で慕っている者は少なくないはずだ。
だから、余計にわからない。
そのような方が、なぜ私のような者と食事を……?
同じ疑問が、浮かんでは消える。
図書館でもおっしゃっていた通り、腹違いとはいえ自分の弟の妻になるという人間が、どのような人物なのか、ご自身の目で確かめたいといったところなのだろうか。
私が一人であれこれ考えている間に、クロエは綺麗に私の髪を結い、ドレスに合ったアクセサリーを選んで、私につけてくれた。
身支度を終えてしばらくすると、突然、部屋の扉がノックされる。レグルス様の従者だ。
「レグルス様とお食事だなんて……羨ましい限りです。ぜひ楽しんでいらしてくださいね」
「ありがとう、クロエ。行ってくるわ」
私はそう微笑んで、レグルス様の待つダイニングへと向かった。
***
「今日は来てくれてありがとう、ミア。さあ、座って」
「こちらこそ、お招きいただき感謝いたしますわ。レグルス様」
挨拶をしてから、私はレグルス様に促されて席に着く。
そこで私は、はたと思い出した。
(そういえば、私……誰かと一緒に食事をしたこと……ない、のでは……?)
記憶を思い返してみても、どこにもそのような経験が思い当たらない。
まさか初めて誰かと取る食事が、レグルス様とだなんて……。
一瞬、思考が止まる。
えっと……ナイフとフォークはどちらから……だった?
内側……いえ、外側?
切り分ける時は音を立てないようにして、それで……。
基礎から訳がわからなくなってしまって、頭の中でぐるぐるとあれこれ考えていた時だった。
「ミアは食前酒、どうする?」
「あ、えっと……」
レグルス様が、私に声をかける。
そうだ。
食前酒なんてものがあったのだった。
けれど選び方はもとより、そもそもどのような種類があるのかすら、今は頭から飛んでしまっている。
(こんな時、ミアだったらなんて言うだろう……?)
少し目を伏せて、私は考えた。
こちらの方が、息をするように容易い。
「……では、レグルス様のおすすめで」
ミアがするように、私は人懐っこく答えた。
「わかった。では、あれを頼む」
レグルス様がそう告げると、杯洗係は「かしこまりました」と言って、すぐに下がってブドウ酒のボトルを持って戻ってきた。
ガーネットのような深くて少し紫がかった赤色が、グラスに注がれていく。その様を、私は自然と目で追った。
互いのグラスにブドウ酒が注がれると、レグルス様はスッとご自身のグラスを手に持って、私の方へ向ける。
「……今日という素敵な夜に」
そう言って、レグルス様は当然のように乾杯をした。
歯の浮くようなセリフに、顔が一瞬で熱を帯びる。私はそれを隠すように、できる限り急いで、ブドウ酒に口をつけた。
「……美味しい」
一口嚥下して、思わず本音がこぼれ落ちる。
慌てて口をつけたことが、申し訳ない。
これまで、それほどブドウ酒を飲んだことがあるわけではない。けれど、このブドウ酒はとても口当たりが良くて、慣れていない私でも飲みやすかった。
「だろう?西方で作っているものなんだ」
「西方……レグルス様が納めていらっしゃる?」
私がそう答えると、レグルス様は目を見開いた。
かと思えば、すぐに嬉しそうに微笑む。その笑顔は、舞踏会で見た繕ったものとは違って、とても柔らかかった。
「……よく知っているね。ミアの言う通りだ。あそこは元々ブドウの生産をしていた地域ではないんだけど、昼夜の寒暖差が大きくて雨が少ないから、いいブドウが育つことがわかってね。数年前からブドウ酒作りを始めたんだよ」
「すごい……そんなことまでされていらっしゃるなんて、レグルス様は何でもできてしまわれるのですね」
「そんなことはないよ。たまたまブドウ酒が好きだっただけだ」
そう言って、レグルス様は再びブドウ酒に口をつける。
「そんな謙遜なさらないでください。レグルス様の素晴らしさを知らない者なんて、きっとこの国にはいませんもの」
「……嬉しいことを言ってくれるね」
口ではそう言いつつも、レグルス様は少しだけ眉を顰めた。
たわいもない会話をしながら、食事をいただく。けれど、普段と変わらない食事のはずなのに、なぜか今日は全く味を感じなかった。
粗相のないように。
粗相のないように。
粗相のないように。
それだけを考えながら、ナイフとフォークを握る。
手汗でうっかりナイフが滑り落ちそうになるのを、私は何とか堪えた。
「……そういえば、どうだった?あの本」
唐突に、レグルス様はそう私に尋ねた。
「まだ読んでいる途中です。けれど、とても面白くて……寝る前だというのに、ついついページをめくる手が止められなくなってしまいますの」
話しながら思い浮かんだのは、神父様の声だった。
神父様が勧めてくださった本なのだから、ゆっくり読みたいという気持ちはある。けれどどうしても先が気になってしまって、なかなか眠ることができない。
「そうか、それは良かった。ミアは本が好きなんだね」
「え、えぇ……」
思わず、返事をする声が小さくなった。
本が好きなのは、私……ニアであって、ミアではない。
本来ならば、ついてはならない嘘だ。
しかも、レグルス様相手に。
けれどレグルス様は、それを知らない。
メインの肉料理を切って、優雅に口へ料理を運ぶと、再びレグルス様は話し始めた。
「ヴォルフラムもだよ。あいつも本が好きで……王宮内で見かけるたびに、何かしらの本を広げていた」
「……そう、なのですか?」
思いがけないヴォルフラム様と自分の共通点に、思わず食事を口へ運ぶ手が止まった。
「あぁ、あいつに会うたび、いつも違う本を持っていたよ。十二宮物語もその一つだ。境遇はあれど、よっぽど好きだったんだろうね」
そう聞いて、なぜか、胸の奥が暖かくなる。
ヴォルフラム様は、今でも本をよく読んでいらっしゃるのだろうか。
もしもそうだとしたら……神父様の時のように、ぜひ話をしてみたい。
「……ヴォルフラム様は、何の本がお好きなんでしょう」
つい、そんな言葉が溢れ落ちた。
「さぁ……何だろう?僕も、あいつとはそれほど多く話したことがなくてね。ほら、僕もヴォルフラムも、立場が立場だから。今も、どこにいるやら……」
「も、申し訳ありません、レグルス様。出過ぎたことをお聞きしてしまって」
ついうっかり出てしまった言葉について、私はすぐに謝罪をした。
レグルス様の言う通りだ。
正妻の子と側室の子。
同じように国王様を父にしていても、そこには天と地ほどの差がある。
不躾に踏み込んではいけない。
「いいよ、別に。でもあいつは、それも手伝って本に没頭するようになったんじゃないかな?あとは、そうだな……子どもの頃は、よく王宮内にある礼拝堂にいたよ」
「礼拝堂に?」
「信心深い奴だからね。俺からすれば、いるかもわからない神を信仰してどうなるんだって思うけど」
そう言って、レグルス様は再び肉を口へ運ぶ。
「ふふふ、レグルス様らしいですね」
「だってそうだろう?いるかもわからないモノに縋るくらいなら、自分から一歩踏み出す方がいい。欲しいものがあるなら、奪ってでも手に入れないと」
「……そう、ですね……」
レグルス様らしい考えに、私は食事が進まなかった。
言葉通り、レグルス様は欲しいものは何でも、ご自身の力で手に入れてこられたのだろう。
それができる財も権力も、そして知性も、全てこの方は持っていらっしゃるのだから。
けれど誰しもが皆、そうであれるわけではない。
最初から、陽の下で自由に生きている人というのは、なぜこんなにも強いのだろう。
自信に満ち溢れていて、失敗を恐れない。
そもそも、失敗をしない。
ずっと見てきたお姉さまの姿が、レグルス様と重なった。
「それに、そもそもじっとしているのが性に合わないんだ。読書も、教養で無理やり読まされたせいで、苦手意識があって……。外で剣術の練習をしている方が、よっぽどいい」
「メイドから伺いましたわ。昨年の剣術披露会は、とても素晴らしかったと」
「あぁ、あれか。皆が勝手にもてはやすだけだよ。あれくらいは普通さ」
そうはいうものの、きっとレグルス様の言う普通は、皆の普通とは離れているのだろう。
この方は、あまりにも……。
私は、思わず目を細めた。
「……あまり、ヴォルフラム様と似ていらっしゃらないのですね」
「そうだね。正反対だ」
さも当たり前のように言って、レグルス様はブドウ酒に口をつける。
その仕草が、どこか遠くにいるように思えた。
「あぁ、そうだ。ミアは今度、王都で新しく開演される観劇は知ってるかい?」
「観劇……ですか?」
また急に話が変わって、私は思わずはっとする。
観劇……。
確か以前、クロエが流行っていると言っていた気がする。
「そう、観劇。最近流行りの劇作家が脚本を書いているものなんだけれど、良かったら、今度一緒にどうかと思って」
「え……」
まさかの誘いに、私はレグルス様を見た。
するとレグルス様はまるで面白いものでも見るように、目を細くして私を見つめていた。
なぜ、そのように私を見るのだろう?
私よりも、まずお誘いしなければならない方がいらっしゃるはずなのに。
「その……セシリア様はよろしいのですか?」
「あぁ、彼女のことを気にしてくれてるのか」
そう言うレグルス様は、セシリア様のことを何も気にしていないようだった。
「大丈夫大丈夫。実は最初にセシリアを誘ったんだ。けれどその日は用があると断られてしまってね」
「そう……ですか」
それなら、別にご一緒しても……いい、のだろうか?
「もちろん、無理強いはしないよ。ミアが行きたければの話だ」
「私が……ですか」
ミアだったら、二つ返事で行くと言うだろう。
『レグルス様から観劇のお誘いだなんて嬉しい!ぜひご一緒させていただきたいわ!』
と、目を輝かせるに違いない。
けれど……私は?
私は、どうだろう?
観劇は、見に行ったことがない。
興味がない、わけではない。
けれど、相手はレグルス様だ。
お互いに婚約者がいる身で、観劇に行くなんて……しても良いものなのだろうか。
「何か、悩んでる?」
ニヤニヤと、レグルス様は私を見て笑った。
「そう、ですね。観劇のお誘いはとても嬉しいのです。ですが……」
「ですが?」
「私とご一緒して、レグルス様に変な噂が立たないか心配で」
私は素直に、自分の思ったことを口にした。
「あぁ、なんだそんなことか。心配いらないよ。当然、席は個室でカーテンがある。それに、僕の従者が必ず近くにいる。なんなら、ヴォルフラムの部下を連れて来てくれてもいい」
「ヴォルフラム様の?」
二人きりではないのなら、大丈夫……よね?
「それでしたら……」
レグルス様も、お互いのことを考えてくれているからこそ、ヴォルフラム様の部下の方が一緒でもいいと言ってくださったはずだ。
それに、神父様が言っていた。
『あなたの気持ちを……もっと大事にしてください』
その言葉を、信じよう。
「ぜひ、ご一緒させてください」
「よかった!開演は次の礼拝の日の昼間だ。詳細については、また使いを送るよ」
「わかりました」
礼拝の日……ということは、神父様に相談にも行けない。
ギュッと、私は両手に持つナイフとフォークを握りしめる。
けれどもう、今更撤回もできない。
私は再び、目の前の食事に手をつけた。
けれど、やっぱり味がしない。味どころか、色まで無くしてしまったように感じる。
(これで、良かったのよね……?)
ナイフで肉を切りながら、自分に問う。
けれど誰も、その問いに答えてはくれなかった。
レグルス様はそんな私を見ながら、再びブドウ酒に口をつけた。




