第9話: 道草を食う令嬢
丘の向こうに、匂いはなかった。
春の草原が、どこまでも続いているだけだ。黄色い小花が風に揺れ、蝶が低く飛んでいる。焼き物の匂いも、蜂蜜の甘さも、果実を煮詰めた煙も——どこにもない。
「……ありませんわね」
マリカは街道のど真ん中に立ち止まり、鼻をひくひくさせた。
「気のせいだったみたいですわ」
「気のせいで街道を外れて丘を二つ越えたのか」
ルカが追いついた。額に汗が浮いている。荷物は二人分。マリカが「走りやすいように」と自分の荷をルカに押しつけたからだ。
「まあ、結果的に街道に戻りましたし。道は合っていますわ」
「合ってない。三十分のロスだ」
「三十分で済んだと思えば——あ」
マリカの足が止まった。
街道の脇、草むらの中に何かを見つけたらしい。屈み込み、地面に顔を近づけた。侯爵令嬢が四つん這いに近い姿勢で、草をかき分けている。
「ルカ、これ」
「おい、また道端のものを——」
「野蒜ですわ。しかも群生。この辺り、日当たりと水はけのバランスが絶妙なんですのね」
マリカは迷いなく一本引き抜き、根元の白い球根を鼻先に寄せた。匂いを嗅ぎ、皮を一枚剥き——そのまま齧った。
「甘い。辛味が後から来ますけど、蕪ほどではありませんわ。生で食べても十分——」
「聞いてなかったのか。道端のものを食うなと言ったはずだ」
「もう食べましたわ」
マリカは二本目を引き抜きながら、悪びれもせずに言った。
「……毒だったらどうする」
「毒ではありませんわ。匂いでわかります」
「匂いでわかるのは毒の有無じゃない。お前の鼻が異常に利くだけだ」
「褒めていただけましたの?」
「褒めてない」
旅の二日目——村を出て最初の夜を街道沿いの木陰で明かし、朝を迎えてからの出来事だった。
アペティアまで、徒歩で十日。馬車を使えば四日だが、マリカは歩くことを選んだ。「馬車の中では匂いが嗅げませんもの」というのが理由だ。ルカは反対しなかった。反対しても無駄だと、八日間で学んでいた。
問題は、マリカの「歩く」が普通ではないことだった。
街道を真っ直ぐ歩かない。
匂いに引き寄せられる。色に気を取られる。音に耳を傾ける。草むらの中の小さな実、木の幹に生えた苔、沢の水面に浮かぶ花粉——マリカの五感は、食べられるもの全てに反応した。
「ルカ、この木の実、殻が硬いですけれど中身は油脂分が高そうですわ。炒ったら香ばしい……いえ、砕いてソースのベースに——」
「拾うな」
「もう拾いましたわ」
マリカのスパイスポーチが膨らんでいく。ポーチと呼ぶには大きすぎる革の鞄は、腰の左側に常にぶら下がっている。中身をルカは一度だけ覗いたことがある。
驚いた。
塩、胡椒は当然として。乾燥ローズマリー、タイム、ナツメグの欠片、粗挽きのクミン、乾燥唐辛子、月桂樹の葉——辺境の村で手に入るはずのないものまで、小瓶に小分けされて整然と並んでいた。
「お前、そのポーチの中身はどこで揃えた」
「ベルモント家のキッチンからですわ。追放される時に、着替えより先にスパイスを詰めましたの」
「……着替えより先に」
「当然ですわ。服は買えますけれど、ベルモント家の調合スパイスは世界に一つですもの」
ルカは何も言わなかった。何を言っても無駄だし、実際のところ——あのポーチの中身は、料理人として見れば垂涎の品揃えだった。認めたくはないが。
昼前、街道が森の中に入った。
木漏れ日が路面に斑模様を描いている。空気が変わった。湿度が上がり、土と腐葉土の匂いが鼻に届く。マリカの目が輝いた。
「ルカ、森ですわ! 森には食材が——」
「わかってる。だが街道を外れるな」
「外れませんわ。街道の脇だけで十分ですもの」
十分ではなかった。
五分もしないうちに、マリカは街道を三歩外れていた。七分後には十歩。十五分後には、ルカの視界から消えた。
「……おい」
茂みの向こうから、マリカの声がした。
「ルカ! 来てくださいませ! 沢がありますわ!」
ルカが藪を掻き分けて辿り着くと、マリカは靴を脱いで沢の中に立っていた。水は膝下まで。スカートの裾を片手で押さえ、もう片方の手で水を掬って飲んでいる。
「冷たくて美味しいですわ。石灰岩を通った水ですわね、ミネラルが——」
「沢の水を直接飲むな」
「もう飲みましたわ」
「……お前、『もう食べました』『もう飲みました』しか言わないのか」
「事後報告が最も効率的ですわ」
反論の余地がなかった。ルカは観念して沢の水を手に取った。一口含む。
——確かに、美味い。
わずかに甘く、舌にまとわりつかない。石灰岩を通った水だ。鍋底が焦げにくいかわりに、出汁の引きは弱い。だが、この水で米を炊いたら粒が立つ。……考えている時点で、この令嬢に毒されている。
「ルカ、水筒に詰めてくださいませ。この水でスープを作りましょう」
「命令するな」
だが、ルカは水筒を取り出していた。
日が傾き始めた頃、街道脇の開けた草地で足を止めた。
マリカが今日一日で集めた「戦利品」が、布の上に並んでいる。野蒜の束、名前のわからない木の実が三種類、沢で取った水草、森の入り口で見つけた山椒の若芽、そして——
「これ、何だ」
ルカが、灰色のきのこを指した。傘が小さく、柄が異様に長い。
「毒蝮茸に似ていませんこと?」
「知ってて採ったのか」
「似ているだけですわ。毒蝮茸は柄の根元に壺があります。これにはない。匂いも全く違う。毒蝮茸は甘ったるい腐敗臭ですけれど、こちらは……胡桃に近い、ナッツ系の芳香」
マリカは茸を手に取り、傘の裏を指で撫でた。
「ひだの色を見てくださいませ。白からクリーム色に変化しています。胞子の成熟度から見て、採取から調理までの最適時間は——六時間。今夜のスープに間に合いますわ」
「……お前の頭の中はどうなってるんだ」
「食べられるかどうか。それだけですわ」
ルカは茸を受け取った。匂いを嗅ぐ。確かに、毒のある匂いではない。
——こいつの鼻は、信用できる。
認めたくはないが、七日間の旅で(うち五日は村にいたが)マリカの嗅覚が外れたことは一度もない。塩の濃度を0.1%単位で嗅ぎ分ける鼻が、毒を見落とすとは思えなかった。
「それで、ルカ」
マリカは布の上の食材を見渡した。目が、妙に真剣だった。
「今夜の献立ですけれど」
「俺に作れと」
「わたくしが作ると、六十八点以下のものしかできませんもの」
「……お前、自分で点数つけてるのか」
「当然ですわ。自分の料理には厳しくないと」
マリカはポーチから小瓶を取り出した。乾燥タイムだ。
「野蒜をみじん切りにして、沢の水でスープのベースを作ってくださいませ。胡桃茸は薄切りにして、先に乾煎りすると香りが立ちますわ。木の実は砕いて最後に——」
「指揮するのは勝手だが、まず火を起こせ」
「……火は苦手ですの」
「料理人を名乗るつもりなら火くらい起こせ」
「名乗っていませんわ。わたくしは食べる専門ですもの」
マリカが胸を張って言い切る。ルカはため息をついた。だが、ため息の端に——苦笑が、ほんのわずかに混じった。
ルカの手が動き始めると、空気が変わる。
マリカはそれを知っていた。村の酒場でも、倉庫の前でも、宴の厨房でも——ルカが刃物を持った瞬間、周囲の温度が下がるような集中が生まれる。
野蒜をみじん切りにする音が、一定のリズムを刻む。等間隔。均一な厚さ。包丁が鉄板の上で跳ねる音すら、楽器のようだった。
マリカは焚火の前に座り、膝を抱えて見ていた。邪魔をしない。指揮は終わった。ここから先は、ルカの領域だ。
胡桃茸が鍋底で乾煎りされ、芳ばしい香りが立ち上る。沢の水が注がれ、野蒜のみじん切りが散らされる。タイムの葉が三枚、指先で千切られて投入された。
「山椒は」
「最後ですわ。火を止めてから、余熱で香りを移してくださいませ」
「わかってる」
スープが静かに煮立つ。森の空気に、野蒜と胡桃茸の香りが溶けていく。
マリカは目を閉じた。
匂いだけで、味が見える。塩味が足りない。だがこのスープは、塩を足さないほうがいい。素材の甘みが前に出る。沢の水の硬度が、出汁の輪郭を支えている。
「——七十点」
目を開けずに言った。
「まだ味見してないだろう」
「匂いで七十点ですわ。味見したら上がるかもしれませんし、下がるかもしれません」
「根拠のない採点をするな」
「根拠はありますわ。六十八点の煮込みから二点上がった理由は——」
マリカは目を開けた。ルカが、山椒の若芽を指先で千切っているところだった。火は止めてある。鍋の中に、小さな緑が散った。
「——素材がルカの手に馴染んできたから。辺境の食材を、もう"代用品"として使っていない。この森の胡桃茸を、胡桃茸として扱っている」
ルカの手が止まった。
一瞬だけ。すぐに動き出す。
「……食え。冷める」
木の椀にスープが注がれた。マリカは受け取り、両手で包んだ。温かい。
一口含む。
野蒜の甘みが舌に広がった。その奥に、胡桃茸の深い旨味。沢の水が透明な輪郭を作り、最後に山椒の若芽がふわりと香る。
「……七十一点」
「上がったのか」
「山椒の余韻が、匂いの時点では計算できませんでしたわ。ルカ、あなた山椒を入れるタイミングを変えましたわね。火を止めてから十秒待った」
「……五秒だ」
「五秒で一点変わりましたのね」
マリカは二口目を含んだ。三口目。スープが空になるまで、言葉はなかった。
食べ終えてから、マリカは椀をルカに返した。
「ごちそうさまでした」
「……ああ」
「明日は何が見つかるかしら。楽しみですわ」
「楽しいのはお前だけだ」
「嘘ですわ。ルカ、さっき山椒の若芽を見つけた時、目が光りましたもの」
「光ってない」
「光りましたわ。わたくしの目は誤魔化せませんの」
ルカは返事をしなかった。焚火に枝を足した。炎が揺れ、二人の影が森の木々に伸びた。
翌朝。
マリカは日の出と同時に起きた。正確には、匂いで起きた。
焚火の残り火の隣で、ルカがすでに動いていた。昨夜の残りのスープを温め直し、木の実を砕いて散らしている。
「……朝食?」
「残り物だ。道中で食うぞ」
マリカは椀を受け取った。一口。
——昨夜の七十一点から、変わっている。
木の実の油脂分がスープに溶け出し、コクが増していた。一晩寝かせたことで野蒜の辛味が丸くなり、甘みが前面に出ている。
「七十二点」
「……寝かせただけだ」
「寝かせることを選んだのはルカですわ。料理は判断の積み重ね。その一つ一つに点数がつきますの」
マリカは残りを飲み干し、立ち上がった。
「さあ、行きましょう。今日も道草を食いますわ」
「道草を食うのはお前だけだ。俺はまともに歩く」
「ルカ」
マリカはポーチの紐を肩に掛けながら、振り返った。
「旅の醍醐味は道草ですわ。目的地に着くまでに、どれだけ美味しいものに出会えるか——それがわたくしの旅の意味ですの」
「……勝手にしろ」
二人は街道を歩き始めた。アペティアまで、あと八日。
百歩も行かないうちに、マリカが立ち止まった。
「ルカ。あの茂みの奥——煙の匂いがしますわ」
「また幻覚か」
「今度は本物ですわ。炭火の匂い。それと……獣肉。鹿か、猪か。脂が落ちて焦げている匂い」
ルカも足を止めた。鼻を動かす。
——確かに、微かに煙が匂う。
風下だ。茂みの奥、森の深い方角から。
「行きますわ」
「待て。計画が——」
「計画は後ですわ!」
マリカは走り出した。街道を外れ、森の中へ。
ルカは荷物を背負い直した。
「……勝手にしろ」
八回目の「勝手にしろ」だった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第2アーク「食の都への道」、始まりました。第1アークのラストで丘の向こうに駆け出したマリカ——の先に何もなかったという出オチから始めてみました。
マリカのスパイスポーチの中身。着替えより先にスパイスを詰めたという設定を書いた瞬間、「ああ、この子はもう完全にこういう人間なんだな」と妙に納得してしまいました。追放される令嬢が真っ先にキッチンに走るんですよ。服じゃなくて。ベルモント家の調合スパイスを小瓶に詰めて逃げる。もう止められない。
「もう食べましたわ」「もう飲みましたわ」の事後報告パターンは、書きながら自然に生まれました。ルカの「道端のものを食うな」がフリで、マリカの「もう食べました」がオチ。このリズムが二人の旅の日常になっていきます。
次回、森の奥の煙の正体——新しい出会いが待っています。
◇◆◇ 歩人の連載作品 ◇◆◇
▼ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
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