第10話: 森の猟師
煙は嘘をつかない。
マリカは街道を外れ、茂みを掻き分けて森に踏み込んだ。落ち葉を踏む音。枝を払う音。そしてその向こうから、炭火に脂が落ちる音——じゅう、と短く鳴って、獣肉の香ばしい匂いが立ち上る。
「マリカ、待て。街道を外れるなと——」
「ルカ、静かにしてくださいませ。匂いを聴いていますの」
ルカが黙った。匂いを「聴く」と言ったのはマリカの癖だった。味覚と嗅覚と聴覚の境界が、この令嬢の中では曖昧らしい。
三十歩ほど進んだところで、森が開けた。
小さな空地だった。
中央に焚火。その上に、枝で組んだ簡素な炙り台。そして——巨大な鹿が一頭、丸ごと吊るされている。
腹は裂かれ、内臓は取り除かれていた。血抜きも済んでいる。腿の付け根に刃物が入り、関節に沿って肉が丁寧に剥がされている最中。
その作業をしていた手が、止まった。
岩のような巨体。濃い茶色の短髪に、頭頂部から突き出た丸い熊耳。琥珀色の瞳が二人を見ていた。左頬に三本の爪傷。腰にナイフが三本。裸足。
——獣人。
ルカが反射的にマリカの前に出た。
「……何だ」
低い声だった。問いかけというより、警告に近い。
マリカはルカの肩越しに鹿を見つめていた。目が輝いている。
「ルカ、どいてくださいませ」
「待て。相手は——」
「邪魔ですわ」
マリカはルカを押しのけて空地に踏み出した。鹿しか見ていない。
三歩。五歩。吊るされた鹿の前に立ち、鼻を近づけた。
「…………」
獣人が刃物を持ったまま固まっている。百九十八センチの巨体が百五十三センチの令嬢を見下ろしている。マリカは気にしていない。
「この鹿」
マリカが言った。目を細め、脂肪の層を指で触れた。
「北の斜面で育った個体ですわね。脂の乗りが——素晴らしい」
「……何?」
「木の実を多く食べています。脂に甘みがある。それとこの筋繊維の走り方——急斜面を駆け上がる個体特有の腿筋ですわ。南斜面の鹿より引き締まって、噛み応えがある」
マリカは吊るされた鹿の周りをぐるりと一周した。獣人は固まったまま動かない。
「血抜きが完璧ですわ。仕留めてから、どのくらい?」
「……一刻」
「一刻でこの鮮度。急所を一撃で仕留めましたわね。苦しんだ跡がない。筋肉に余計な緊張がかかっていませんもの」
マリカが振り返った。ルカを見る。
「ルカ。この鹿、七十八点ですわ」
「……聞いてない」
「食材としての点数です。この脂の乗り、この鮮度、この解体技術——大変な腕前ですわ。ルカの包丁さばきに匹敵しますもの」
マリカは獣人を見上げた。まっすぐに。
「あなた、お名前は?」
獣人の琥珀色の瞳が、わずかに揺れた。まるで予想していなかった問いを投げられたように。
ガルム・バルドゥクは、三十年生きてきて、こんな人間に会ったことがなかった。
人間は獣人を見ると、二つの反応をする。
怯えるか、見下すか。
どちらも慣れていた。十八歳で一族の命を受け、人間の街で食材を売り始めてから十二年。「獣人の肉は獣臭い」と鼻をつまむ商人。「市場への出入りは許可制だ」と追い払う衛兵。まともに値段を付けてもらったことなど、片手で数えるほどだ。
だが——この女は。
鹿しか見ていなかった。俺のことなど、風景の一部だとでも言うように。
百五十三センチ。華奢な体。見るからに貴族の令嬢。そんな人間が、仕留めたばかりの鹿に顔を近づけて、脂の質と筋繊維の走りを語り始めた。
しかも——正確だった。
北の斜面で育った個体。木の実食。急斜面の腿筋。
ガルムが長年の経験で嗅ぎ分けてきたことを、この人間は目と鼻だけで言い当てた。
「……ガルムだ」
名前を答えていた。なぜ答えたのか、自分でもわからない。
「ガルムさん。わたくしはマリカ・ベルモントですわ。こちらはルカ・アルディーニ。わたくしの料理人です」
「お前の、じゃない」
後ろの男——ルカが低い声で訂正した。黒髪。痩せ型だが手に刃物の胼胝がある。料理人の手だ。
「ガルムさん、この鹿はどうなさるおつもりですの?」
「……売る」
「どちらに?」
ガルムは答えなかった。売り先のことを話す気はなかった。
だが、タイミングが悪かった。
荷馬車の轍が鳴る音が、森の入口から近づいてきた。
「おーい、獣人! いるか!」
男が一人、荷馬車を引いて空地に入ってきた。小太りで脂ぎった顔。革のエプロンの下に仲買人の証——秤の刺繍が縫い込まれていた。
「おっ、もう仕留めてあるじゃねえか。どれどれ——」
男は鹿を見て、歯の隙間から息を吸った。
「まあまあだな。獣人の肉にしちゃ上等だ。三粒銀でどうだ」
三粒銀。
ガルムの拳が、わずかに握り込まれた。
大人の牡鹿一頭。血抜き済み。この鮮度、この脂の乗り。人間の猟師が持ってくれば最低でも十五粒銀。良い時なら二十粒銀になる。
三粒銀。
五分の一だ。
「おい、不満か? 他に買ってくれる商人がいるなら、そっちに持ってけよ。……いねえだろ? 獣人から買うのは俺くらいなもんだ」
ガルムは黙っていた。事実だった。獣人の食材を買う仲買人は少ない。それでも売らなければ、森で待つ一族の口に入る食糧が買えない。
森の奥の集落には、ガルムの帰りを待っている者がいる。去年の冬に生まれた双子の仔。まだ狩りのできない年寄りたち。干し肉も、子どもの防寒着を縫う糸も、薬草を買う銀粒も——全て、ガルムが人間の街で足元を見られながら稼いだ金で賄っている。
三粒銀では、双子の冬着すら買えない。
「——三粒銀?」
声が割り込んだ。
マリカだった。
いつの間にか鹿と仲買人の間に立っている。腰に手を当て、首を傾げて仲買人を見上げていた。
「三粒銀とおっしゃいましたの?」
「ああ。相場だよ、お嬢ちゃん」
「相場? 面白いことをおっしゃいますわね」
マリカは鹿を指さした。
「この鹿は北の斜面で育った個体。木の実中心の食性で脂に甘みがあります。南斜面の草食個体とは風味が別物ですわ。腿筋は急斜面育ちの引き締まった良質な肉。血抜きは完璧、鮮度は最上級。解体技術も見事——関節に沿った正確な刃入れで肉への損傷がゼロ」
マリカは仲買人を見た。
「人間の猟師がこの品質の鹿を持ち込んだら、いくらで買いますの?」
「……そりゃ、十五粒銀くらいだが——」
「十五粒銀。では、この鹿が三粒銀である理由を教えてくださいませ。獣人が仕留めたというだけで、鹿肉の味が変わるとでも?」
仲買人の顔が赤くなった。
「お嬢ちゃん、口を挟むんじゃねえよ。これはこっちの商売——」
「わたくし、ベルモント侯爵家の令嬢ですわ。食の鑑定には少々うるさいんですの」
ベルモント。
仲買人の目が泳いだ。北部の有力侯爵家の名だ。
「品質から見て正当な価格は十八粒銀。北斜面の木の実育ちは希少ですもの。十五粒銀が下限ですわ」
「い、十八……」
「お値引きが必要でしたら、どうぞ他の仲買人に。あら、この品質の鹿を見逃す方はいませんわよね?」
仲買人は唇を噛んだ。マリカをにらみ、ガルムをにらみ、もう一度鹿を見た。
「……十二粒銀だ。それ以上は出せねえ」
「十五粒銀」
「十三」
「十五。わたくし、値切りには応じませんの」
沈黙が落ちた。
仲買人が舌打ちした。だがベルモント侯爵家の紋章入りのポーチが令嬢の腰に揺れている。侯爵家を相手に買い叩きを押し通せば——後でどんな厄介事になるかわからない。
「……くそっ。侯爵家の嬢が出てきちゃ、やりにくいったらねえ」
仲買人が財布を開いた。指が震えている。銀粒を一粒ずつ数える。一粒、二粒——その手つきは、身を切られるように遅かった。十五粒を数え終えると、ガルムの革袋に叩きつけるように入れた。
「覚えてろよ、獣人。次はこの嬢ちゃんがいない時に来るからな」
鹿を荷馬車に積みながら、仲買人は何度も振り返った。最後に一度だけ、マリカのポーチに刻まれたベルモント家の紋章を、焼きつけるように見た。荷馬車の轍が森の奥へ消えていった。
ガルムは革袋を見下ろしていた。十五粒銀。十二年間で一度も手にしたことのない正当な対価。重さは同じ銀粒なのに、掌の温度が違った。指が震えた。——この重さは、銀の重さではなかった。
「ガルムさん」
マリカが声をかけた。何事もなかったかのように。
「あの仲買人の秤の刺繍、見ましたの? 秤の下に麦穂の紋がありましたわ。美食貴族連合の仲買人ですわね」
「……知ってる」
「連合は獣人の食材販売を制限する法律の後ろ盾ですわ。あの仲買人が買い叩いていたのは、差別ではなく仕組みですの。もっと正確に言えば——」
「マリカ」
ルカが遮った。
「話が長い。まず座れ」
マリカは口を閉じた。自分は立ったまま、初対面の獣人にべらべらと喋り続けていた。
ガルムは焚火の前に座り直し、解体の続きを始めていた。腿肉を切り分け、薄い切り身にしていく。手つきに迷いがない。
「……お前たちも、食うか」
ガルムが言った。低く、短く。
マリカの目が輝いた。
「いただきますわ!」
「お前に聞いてない」
ガルムはルカを見た。
「料理人。お前はどうだ」
ルカは焚火の前に腰を下ろした。
「……もらう」
ガルムが腿肉の薄切りを炙り台に並べた。じわりと脂が滲み出す。ガルムは肉を一枚、手に取った。
「悪いな」
声は肉に向けられていた。
「だが、お前は美味く食ってもらえる」
マリカが息を呑んだ。ルカも手を止めた。
ガルムは肉を炙り台に戻した。脂が炭に落ち、煙が立つ。その煙に目を細めながら、黙って肉を見つめている。
——命をいただく、という所作。
マリカは、この獣人がただの猟師ではないことを理解した。食材に語りかける。命を奪ったことへの敬意を、言葉にする。獣人の食文化だ。命の一欠片も無駄にしない。
「焼けたぞ」
ガルムが肉を差し出した。木の葉の上に、薄切りの鹿肉が三枚。塩も香辛料もない。ただ炭火で炙っただけの肉。
マリカは一枚を手に取り、口に運んだ。
噛む。
——七十六点。
脂の甘みが舌に広がった。木の実で育った鹿の上品な甘さ。噛むほどに旨味が溢れる。血抜きが完璧だから臭みがない。炭火の香ばしさが表面だけに乗り、中は柔らかいまま。
調味料なしで七十六点。
マリカは目を閉じなかった。ルカの料理ではないから。だが——素材として、これは破格だった。
「七十六点ですわ」
「……何の点数だ」
「わたくしの絶対味覚による評価ですの。調味料なしでこの点数は驚異的ですわ。素材の力が九割。残りの一割は——ガルムさん、あなたの腕ですわね。血抜きの速度、解体の精度、炙りの火加減。食材の旨味を損なわない技術が点数を押し上げていますの」
ガルムの耳が——ぴくり、と動いた。
丸い熊耳が、一瞬だけ前に傾いた。
ガルムはすぐに顔を背けた。耳を手で押さえようとして、途中でやめた。
「……人間にしては、鼻が利く」
低い声だった。だがマリカには、その言葉の重さがわかった。嗅覚に自信を持つ獣人が、人間の鼻を認める。それは最大級の賛辞だ。
ルカも肉を食べていた。無言で咀嚼し、飲み込んでから言った。
「……この腿肉、外側と内側で火の通りを変えてるな」
ガルムがルカを見た。
「外側は脂が多い。強火で脂を落とす。内側は赤身だ。火を通しすぎないように。……わかるのか」
「俺は料理人だ。火の入れ方くらいわかる」
「……そうか」
ガルムの口元が、わずかに緩んだ。
三人は黙って食べた。焚火が爆ぜる音だけが森に響く。鹿肉の炙りと沢の水、それだけの食事。だがマリカは思った——この焚火で、この三人で食べる鹿肉は、王宮の晩餐より贅沢だと。
「ガルムさん」
食事を終え、マリカが口を開いた。
「あなたの食材は、正当に評価されるべきですわ。獣人だからという理由で買い叩かれるのは、食材に対する侮辱ですの」
「……慣れている」
「慣れるべきではありませんわ」
マリカはまっすぐにガルムを見た。
「わたくしたち、食の都アペティアに向かっていますの。大陸で一番食が集まる街。そこでなら——ガルムさんの食材も正当に評価されるかもしれませんわ」
「……アペティアは人間の街だ」
「食卓に種族は関係ありませんわ。少なくとも、わたくしの食卓では」
ガルムは焚火を見つめていた。
「ルカ」
マリカがルカを見た。
「この鹿肉、ルカが調理したら何点になると思いますの?」
「知らん」
「わたくしの予測では——八十五点は超えますわ。ガルムさんの食材にルカの調理が加われば、もっと上を目指せます」
「……勝手に人の食材で点数をつけるな」
ガルムが言った。だが声に怒りはなかった。
「勝手に、ではありませんわ。ガルムさんの食材の価値を正しく伝えているだけですの」
ガルムは立ち上がった。背負い籠を肩に掛け、残った鹿の骨と皮を革袋に丁寧に包んでいく。骨まで無駄にしない。
「……アペティアは、遠いのか」
「あと七日ほどですわ。ルカの見積もりでは」
「……道を知っている」
マリカが息を呑んだ。ルカが眉を上げた。
「この森を抜ければ、鍛冶町に出る。鍛冶町からアペティアまでは三日だ。街道より二日早い」
「ガルムさん! それはつまり——」
「……道案内だ。それだけだ」
ガルムは背を向けた。歩き出す方向は、二人と同じだった。
マリカはルカを見た。にこにこしている。
「ルカ、聞きましたの? 二日も早くアペティアに——」
「聞いた。だが道案内と言っただろう。ついてくるわけじゃない」
「ついてきますわ」
「何でわかる」
「ガルムさんの耳が動きましたもの。あの方、嬉しかったんですわ」
ルカは何も言わなかった。
三人は森の中を歩き始めた。先頭はガルム。無言で確実に道を選んでいく。時折立ち止まり、風の匂いを嗅ぐ。
マリカは二歩後ろを歩きながら、ガルムの背中を見ていた。背負い籠の中には鹿の骨と皮と乾燥させた肉が詰まっている。命を一欠片も無駄にしない男の背中だった。
マリカのポーチから、乾燥ローズマリーの匂いが漏れた。
ガルムの耳が動いた。
「……いい匂いだ」
「あら、わかりますの? ベルモント家のローズマリーですわ。明日の朝食に使いましょう。ルカ、ガルムさんの鹿肉にローズマリーを合わせたら——」
「もう計画を立てるな。まだ朝食の話をする時間じゃない」
「食の計画に早すぎることはありませんわ」
ガルムが、小さく鼻を鳴らした。
笑ったのかもしれなかった。
——その時、風向きが変わった。
ガルムの足が止まった。耳が後ろに倒れた。
風の下に、異質な匂いが混じっていた。仲買人の残り香ではない。鉄錆びた匂い。帳簿に使う鉄粉インクの匂いだ。仲買人の体臭には混じっていなかったものが、轍の先の風から流れてきた。
あの仲買人は、誰かと合流した。
「覚えてろよ」——あの時の目は、脅しではなかった。報告する先がある人間の目だった。
「ガルムさん? どうかなさいましたの?」
「……急ぐぞ。日が落ちる前に沢を越えたい」
ガルムは足取りを速めた。二人には言わなかった。今はまだ、ただの匂いだ。
だが——ガルムの鼻は嘘をつかない。
背後の風に、ローズマリーの甘さと鉄インクの冷たさが、溶け合っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
ガルムの初登場回。書いている最中、ガルムが鹿に「悪いな」と語りかけるシーンで手が止まりました。命を食べること——その重さを、この寡黙な獣人はたった一言で表現する。台詞を書いたのは自分のはずなのに、ガルムに教えられた気分です。
マリカが獣人の巨体を一切気にせず、鹿しか見ていないシーン。この子は本当に「食べ物フィルター」で世界を見ている。百九十八センチの熊獣人より、吊るされた鹿のほうが大事。ルカがマリカの前に出て守ろうとしたのに、「邪魔ですわ」と押しのけられる——ルカの苦労が偲ばれます。
ガルムの耳が動くシーン。書いていて一番楽しかったです。褒められると耳が動く。本人は隠しているつもり。ローズマリーの匂いにも反応する。……ガルムさん、バレバレですよ。
◇◆◇ 歩人の連載作品 ◇◆◇
▼ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
・「お前は道具だった」と笑った婚約者が〜【知略型】
→ https://ncode.syosetu.com/n5906lu/
・毒が効かない体になるまで〜【断罪型】
→ https://ncode.syosetu.com/n6633lu/
・公爵家の家政を10年回した私が〜【静かな離脱型】
→ https://ncode.syosetu.com/n5918lu/
・「お前の取り柄は計算だけだ」と笑った公爵家が〜【知略型】
→ https://ncode.syosetu.com/n6262lu/
☆評価・ブクマ・感想をいただけると次作の励みになります!




