第11話: 三人の食卓
ガルム・バルドゥクは、二人の足音を聴いていた。
前を歩く自分の足音は、ほぼ無い。三十年間、森で獲物を追い続けた足裏は、枯葉の一枚も鳴らさずに歩くことを覚えている。だが後ろの二人は違う。
令嬢の足音は不規則だった。三歩歩いて立ち止まる。何かの匂いを嗅ぐ。また歩く。今度は五歩で止まる。地面にしゃがみこんで何かを摘んでいる。
料理人の足音は重かった。背負った荷物の中で、鍋だか何だかが微かに鳴っている。時折、令嬢が急に止まるたびに、苛立った息を吐く。
「マリカ、また立ち止まるな。日が高くなる」
「ルカ、見てくださいまし! この山菜、クレスナ草ですわ! 辺境の東斜面にしか自生しない——しかも今の季節だけ!」
「……知ってる。で?」
「で、って——ルカの料理に使えますでしょう? ガルムさんの鹿肉にクレスナ草の付け合わせ、想像しただけで——」
「朝食の話はもうした。昼食の計画まで立てるな」
「食の計画に——」
「早すぎることはない、だろ。聞いた」
ガルムは立ち止まらなかった。だが、耳だけが後ろに傾いていた。
——こいつらは、いつもこうなのか。
十二年間、人間の街で食材を売ってきた。会話らしい会話は値段交渉だけだった。三粒銀。五粒銀。たまに十粒銀。それが全てだった。
こんな——食い物の話で笑い合う人間を、見たことがなかった。
森が拓けた場所に、小さな沢が流れていた。
ガルムが足を止めた。鼻を上げ、風を嗅ぐ。
「……ここで休む」
「まだ日は高いですわよ?」
「沢の上流に鹿が来る。水場だ。昼前に一頭、仕留められる」
マリカの目が光った。ルカが溜息をついた。
「やれやれ。昼飯は鹿肉か」
「鹿肉ですわ! ルカ、ガルムさんの鹿肉にクレスナ草と、さっきわたくしが見つけた木の実を——」
「まだ仕留めてない」
ガルムが言った。低く、短く。だが——声の端に、何かが混じっていた。
呆れか。苦笑か。ガルム自身にもわからなかった。
仕留めてもいない獲物の調理法を、もう語り始めている。この令嬢は頭がおかしいのか、それとも——信じているのか。自分が必ず獲ると。
「ガルムさんなら仕留められますわ。だってガルムさんの鼻は、わたくしの舌と同じですもの。嘘をつかない感覚器官ですわ」
ガルムは背を向けた。
耳が動いた。
——二人に見られていないことを祈った。
一刻もかからなかった。
ガルムが戻ってきた時、背には若い牡鹿が担がれていた。前脚の付け根を一撃。急所を外さない狩りは、獲物に苦痛を与えない。
沢のそばに鹿を降ろす。ガルムは三本のナイフを革袋から取り出し、黙々と解体を始めた。
マリカはその手元を、息を詰めて見ていた。
「……見るのか」
「見ますわ。食材がどこから来るのか、知らない食通は食通ではありませんもの」
ガルムの手が止まった。一瞬だけ。
再び動き始めた手は、さっきより丁寧だった。
皮を剥ぐ。内臓を取り分ける。腿肉、背ロース、肩肉——部位ごとに切り分けていく。骨は別にまとめる。命の一欠片も無駄にしない。
「ガルムさん、その腿肉——外側と内側で筋繊維の走り方が違いますわね。この個体、北東の斜面を走っていた子ですわ」
「……わかるのか」
「わたくしの舌が言っていますの。この筋肉は、急斜面を駆け上がる時に鍛えられたもの。だから——」
「脂の回りが速い」
ガルムが言った。マリカが目を見開いた。
「そうですわ! 外腿から先に使わないと——」
「脂が酸化する。わかっている」
二人が同時に鹿の腿を見た。同じ箇所を。同じ理由で。
ルカが荷物から鍋を取り出しながら、その光景を見ていた。
マリカは、自分のポーチから乾燥ローズマリーを取り出した。
「ルカ。ガルムさんの鹿肉に、ローズマリーを合わせてくださいまし。それと——」
ポーチの中をかき回す。乾燥タイム。粗塩。黒胡椒。小さな革袋に入った木の実。
「マリカ。お前のポーチ、どうなってる」
「旅に出る時、ベルモント家の厨房から少しだけ拝借しましたの」
「少しだけ、か」
ルカはポーチの中身を一つずつ確認した。眉が動いた。
「……品揃えは悪くない」
マリカが嬉しそうに笑った。ルカはすぐに目を逸らした。
「で、何を作る」
「鹿肉のロースト。付け合わせはクレスナ草の炒め。ソースは——」
マリカが木の実を掲げた。
「この木の実、潰してソースにできますわ。甘みと酸味のバランスが——ルカ、一つ齧ってみて」
ルカが木の実を齧った。噛んだ瞬間、眉が上がった。
「……悪くない。渋みが先に来て、後から甘みが追いかける。鹿肉の脂に合う」
「でしょう? ガルムさん、この木の実、この森にたくさんありますの?」
「……北斜面に群生している」
「ではソースの材料は確保ですわね。ルカ、お願いします」
「待て。俺はまだ作ると言ってない」
「作りますわよね?」
ルカは何も言わなかった。鍋を掴んで沢へ向かった。
マリカが勝ち誇った顔をしている。ガルムは鼻を鳴らした。
——あの料理人の口癖は何だったか。「勝手にしろ」。言わずに動くのも、同じ意味なのだろう。
ルカが動き始めた。
焚火の傍らに調理場を作る。平たい石を二つ並べ、まな板の代わりにする。沢の水で洗った鹿肉を石の上に置いた。
ガルムは黙って見ていた。
——料理人の手だ。
ルカのナイフ捌きは、ガルムの解体とは異質だった。ガルムのナイフは命を絶つ道具だ。一撃で急所を貫き、苦痛なく命をいただく。だがルカのナイフは——命を変える道具だった。
肉の筋を読み、繊維に沿って刃を入れる。一切れごとに厚みが揃っている。
「ガルム」
ルカが言った。名前を呼ばれたのは初めてだった。昨日までは「猟師」だった。
「この腿肉。外から先に焼くか、内から先に焼くか」
問いかけだった。料理人が猟師に訊いている。食材を一番知っている者に。
「……外からだ。脂が回る前に表面を焼き固めろ。中の水分が逃げない」
「わかってるな、猟師」
ルカの口元が、ほんの僅かに緩んだ。
ガルムは「猟師」と呼ばれたことに、不思議と腹が立たなかった。昨日までの「猟師」と、今の「猟師」は、同じ言葉なのに違うものだった。
——こいつは、敬意を込めて呼んでいる。
肉が焚火にかけられた。ローズマリーの香りが立ち上る。ルカが火の傍で肉の焼き色を確認しながら、片手でクレスナ草を炒め始めた。同時に、木の実を石で潰してソースを仕込んでいる。
三つの作業を同時にこなしている。一つも手を抜いていない。
ガルムの耳が、微かに前に傾いた。
「ガルムさん、耳が動いていますわよ」
「……動いてない」
「動きましたわ。ルカの調理を見て感心なさったんですわね」
「してない」
マリカが嬉しそうに笑った。ガルムは顔を背けた。
鹿肉のローストが焼き上がった。
ルカが肉を焚火から下ろし、大きな葉の上に並べた。クレスナ草の炒めを添え、木の実のソースをかける。
野外の、焚火の、葉の上の料理だった。
だが——匂いが、違った。
ガルムの鼻が捉えた。ローズマリーと鹿脂の混じった香り。クレスナ草の青い苦味。木の実のソースから立ち上る甘酸っぱい湯気。それらが一つに溶け合って、森の空気を変えていた。
「いただきますわ」
マリカが手を合わせた。
ガルムも黙って手を合わせた。一族の作法だ。命をいただく前に、感謝を示す。
マリカがそれを見ていた。一瞬だけ目を伏せ——すぐに開けた。肉と、焚火と、ルカの横顔を、見届けるように。
一口、噛んだ。
マリカの動きが止まった。
咀嚼が止まり、目が見開かれた。口元に運んでいた手が、そのまま宙で固まっている。
「——っ」
声にならなかった。ゆっくりと噛み直す。もう一度。もう一度。確かめるように、三度噛んで——
「八十九点」
自分の声に驚いたように、マリカが一度瞬きした。
「……八十九点ですわ」
ルカが眉を上げた。ガルムも顔を上げた。
「昨日の七十六点から十三点も——ルカの火入れが完璧ですわ。外腿の表面はカリッと焼き締めて、中は薄桃色。脂が閉じ込められていますの。それにクレスナ草の苦味が鹿脂の甘みを引き立てて——木の実のソースが全体を束ねている。ルカ、あなたこの木の実を初めて使ったんですわよね?」
「ああ」
「初見の食材でこの完成度——やはりルカの調理技術は規格外ですわ」
「食材がいいんだ」
ルカが言った。ガルムを見た。
「筋繊維の走り方が素直な肉だ。火の通りが均一になる。解体も丁寧だった。変な刃跡がない」
ガルムは黙っていた。
「……褒められている、んですのよ? ガルムさん」
「わかってる」
ガルムの耳が動いた。今度は隠そうともしなかった。
三人は黙って食べた。焚火が爆ぜる音。沢の水音。風が木々を揺らす音。
ガルムは肉を手づかみで食べた。一族の作法だ。ナイフもフォークも使わない。手で触れて温度を確かめ、口に運ぶ。
マリカも——手づかみだった。
「おい」
ルカが呆れた声を出した。
「わたくし、ガルムさんの一族の作法に敬意を表していますの」
「お前は元々手づかみで食うだろう。敬意じゃない、いつも通りだ」
「……バレましたわ」
ガルムは鼻を鳴らした。
——この令嬢は、嘘をつかない。
十二年間、人間の街で嘘ばかり聞いてきた。「獣人の肉は臭い」——嘘だ。「市場の規則で値段は決まっている」——嘘だ。「お前の食材は二級品だ」——嘘だ。
だがこの令嬢は、八十九点と言った。七十六点から八十九点に上がったと、具体的な数字で言った。食材の価値を、舌で証明した。
嘘をつかない舌。嘘をつかない鼻。
——同じだ。
ガルムのSS級嗅覚は嘘をつかない。マリカの絶対味覚も嘘をつかない。だからあの瞬間、鹿の腿肉を見て同じ箇所を指したのだ。
感覚器官は——正直だ。
「ガルムさん」
マリカが、最後の一切れを飲み込んでから言った。
「この食卓、素晴らしかったですわ。ガルムさんの食材とルカの調理が合わさると、わたくしの舌が喜びますの。明日の朝食も、昼食も、夕食も——ガルムさんに食材を任せてよろしいかしら?」
「……勝手にしろ」
口をついて出た。
言ってから、気づいた。それは料理人の口癖だった。「勝手にしろ」——拒絶ではなく許可の意味で使う、あの不器用な言い回し。
ルカが顔を上げた。マリカも目を丸くしている。
ガルムは黙って前を向いた。なぜ自分がその言葉を使ったのか、わからなかった。ただ——口から出た時、不思議と収まりが良かった。
食事を終え、三人が出発の支度を始めた時だった。
ガルムの鼻が動いた。
人間の匂い。古い革。香辛料——各地を回る商人の匂いだ。それと、もう一つ。微かだが、鉄錆びた匂いが混じっている。帳簿に使う鉄粉インクの匂い。どこかの組織に報告を上げる人間の匂い。
獣道の先に、荷馬車を引いた小柄な男がいた。帽子を目深に被っている。ガルムは反射的に気配を消しかけた。十二年間の習慣だ。獣人は人間の目に触れないほうがいい。
だが——もう遅かった。
旅商人はこちらを見ていた。焚火の残り香。ローズマリーと鹿脂の匂い。葉の上に残った食事の痕跡。三人の姿。全部、見られている。
旅商人の口が動いた。何か呟いたようだったが、風に溶けてガルムの耳には届かなかった。
帽子の奥で、目が細められた。笑っているのか。値踏みしているのか。ガルムの嗅覚は表情までは読めない。
旅商人は荷馬車を引いて去っていった。ガルムの鼻が、遠ざかる香辛料の匂いを追った。あの匂いは、街の酒場で嗅ぐ匂いだ。各地の話を仕入れ、各地で話を売る——そういう人間の匂い。
鉄インクの匂いが気にかかった。ただの旅商人なら、あの匂いはしない。
——見られた。
だがガルムは、それを二人に言わなかった。言えば令嬢が立ち止まる。料理人が警戒する。せっかくの食卓の後味が変わる。
言わないほうがいい——そう判断した自分に、少し驚いた。昨日までなら、こんな判断はしなかった。守るべき食卓など、なかったから。
森の道を再び歩き始めた。
先頭はガルム。二歩後ろにマリカ。その横にルカ。
昨日と同じ隊列だった。だが——距離が、少しだけ縮まっていた。
「ガルムさん、鍛冶町まであとどのくらいですの?」
「……明日の昼には着く」
「鍛冶町! ドワーフの街ですわよね? ルカ、ドワーフの溶岩窯パンを食べたことありますの?」
「ない」
「わたくしもありませんの! 文献では読みましたわ。溶岩の熱で焼くパンは、表面の温度が——」
「まだ着いてない」
「食の計画に——」
「早すぎることはない。わかった。もういい」
ガルムの耳がぴくりと動いた。
「ガルムさんは鍛冶町のパンを食べたことありますの?」
「……ある」
「どうでしたの?」
ガルムは少し考えた。低い声で、短く答えた。
「……硬い。だが——うまい」
自分の声が、妙に低く響いた。喉の奥に、何かが詰まったような感覚があった。
十二年間、自分で焼いた肉を齧ってきた。焦がすか、生焼けか。味など考えたことがなかった。食材は売るものだ。自分の腹を満たすものではない。
だが今、口の中に残っているこの味は——そうではなかった。
マリカが声を上げた。
「聞きましたの、ルカ? ガルムさんが『うまい』と! ガルムさんがうまいと言う食べ物——それはもう、絶対に食べなければなりませんわ!」
「お前の論理がわからん」
「ガルムさんの舌——いえ、鼻は嘘をつきませんもの。ガルムさんがうまいと言うなら、うまいんですわ」
マリカの目が輝き始めた。ガルムは嫌な予感がした。この令嬢の目がこう光る時は——
「ルカ! 鍛冶町に着いたら、まずパンですわ! それからドワーフの醸造酒! 鍛冶師の肉焼き! 溶岩窯の温度を確認して、ルカの技術で応用できないか試して——ガルムさん、鍛冶町にジビエを卸せる市場はありますの?」
「……知らん」
「ないなら作りますわ! ガルムさんの食材を正当な値段で売れる場所を——」
「マリカ、まだ着いてない。そして鍛冶町はドワーフの街だ。獣人の市場参入を認めるかどうかも——」
「ルカ、ドワーフは酒を飲んで鉄を打つ種族ですわ。おいしい酒の肴になるジビエを拒む理由がありますの?」
ルカが口を閉じた。反論が見つからなかったのか、反論する気力がなくなったのか。
「ガルムさん、鍛冶町のドワーフは——ジビエを食べますの?」
「……食う。鍛冶の合間に、立ったまま。山鳥を丸ごと窯の余熱で焼く。うまいぞ」
言ってから、自分の口数の多さに驚いた。こんなに喋ったのは、十二年ぶりだった。
「うまいぞ、って——ガルムさん、もうそれ、おすすめしていますわよね?」
ガルムは前を向いたまま歩き続けた。
耳が——両方とも、前に傾いていた。
隠そうとは、しなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「三人の食卓」——書きながら、自分でも腹が減りました。
ルカがガルムを「猟師」と呼ぶシーン。昨日までの「猟師」と、料理の腕を認めた後の「猟師」は、同じ言葉なのに全然違う。ガルム自身がそれに気づく瞬間を書けた時、「ああ、この二人は噛み合うな」と確信しました。
マリカが手づかみで食べるシーン。「ガルムさんの一族の作法に敬意を表しています」と言い張るんですが、ルカに「お前は元々手づかみだ」と即バレする。この子の嘘は、いつも3秒で崩壊します。
ガルムが「勝手にしろ」と言った瞬間。ルカの口癖が、いつの間にか伝染していた——本人も気づかないまま。食卓を共にすると、言葉まで移るんですね。
◇◆◇ 歩人の連載作品 ◇◆◇
▼ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
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