第12話: ドワーフの溶岩焼き
鍛冶山脈が見えたのは、昼前だった。
稜線に沿って煙が立ち上っている。ただの焚火の煙ではない。黒く重い、鉄を溶かす炉の煙だ。その煙の合間に——別の匂いが混じっていた。
「ルカ」
マリカは立ち止まった。鼻を上げ、風を吸い込む。
「この匂い、何ですの? 鉄じゃない。焦げた穀物の——いえ、焦げてない。高温で一気に火が通った穀物の香り。表面だけが焦がされて、中の水分が蒸気になって膨らんでいる」
「……パンだろ」
「パンですけれど、パンじゃありませんわ! この温度の香り、通常の石窯では出ませんの。千度を超えている。千度で焼いたパンの匂いですわ!」
マリカの足が、もう動いていた。
「待て。坂道で走るな」
ルカの声は届いていなかった。
ガルムが低い声で言った。
「……止まらんぞ、あれは」
「知ってる」
鍛冶町は——轟音の街だった。
山の斜面を削って作られた段々状の街並み。石と鉄で組まれた建物が崖に張りつくように並んでいる。通りの両側で鍛冶の音が鳴り響き、足元の石畳が微かに震えている。
そして——熱い。
街のどこからともなく熱気が立ち上っている。火山帯の地熱が建物の壁を温め、通りに面した工房の炉から赤い光が漏れている。ドワーフたちが炉の前で汗を流しながら鉄を打っている。百二十センチから百四十センチほどの小柄な体躯に、腕だけは異様に太い。
マリカは走りながら左右を見回していた。目がきらきらしている。
「ルカ、見て! あの工房の炉の横に——溶岩窯ですわ! パンを焼いていますの!」
通りの角に、窯が据えられていた。赤黒い溶岩石で組まれた円筒形の窯。開口部から揺らめく陽炎が立ち上り、窯の中は橙色に輝いている。
窯の前にドワーフが一人。禿げ上がった頭に赤い革のエプロン。腕は丸太のように太い。手にした鉄の柄杓で、窯の奥から丸いパンを掻き出しているところだった。
マリカは窯の前に立った。
「——千二百度」
窯の中を覗き込みながら呟いた。
「嘘。千二百度ですわ、この窯。溶岩の輻射熱が窯壁に蓄えられて、表面温度だけが一瞬で——だからこの焼き色。通常の石窯では絶対に出ない」
ドワーフの窯焼き師が、マリカを見下ろした——いや、見上げた。マリカのほうが背が高い。
「嬢ちゃん、何もんだ?」
「わたくし、マリカ・ベルモントですわ。このパンを一つ、いただけますの?」
「一つ三銅粒。焼きたてだぞ」
マリカは財布から銅粒を出す前に、ルカが三銅粒を置いた。
「早く食え。道の真ん中で立ち止まるな」
マリカは溶岩窯パンを受け取った。
掌に乗せた瞬間、目が変わった。
表面は黒に近い焦げ茶。指で押すと硬い。だが——割った瞬間、中から蒸気が噴き出した。断面は白く、気泡が大きい。
「……っ」
鼻を近づけた。焦がされた麦の香ばしさ。酵母の発酵臭。そしてその奥に——微かだが、硫黄を含んだ鉱物質の匂い。溶岩から滲み出たミネラルがパンに移っている。
一口、噛んだ。
外皮が割れる音がした。カリッ——ではない。バキッ、に近い。歯が外皮を突き破ると、中の柔らかい生地が舌を包んだ。
「んまぁ〜〜〜っ!!」
マリカの声が鍛冶町の通りに響き渡った。
「何ですのこれ!! 外はバキバキなのに中はもっちもちですわ!! この食感の落差——千二百度で表面だけを一瞬で焼き固めるから外皮が殻のようになって、中の水分が逃げずに蒸気で膨らんで——ルカ!! ルカ!! 食べて!!」
マリカはルカの袖を引っ張った。パンを突き出す。
「いや、俺は自分で——」
「いいから食べて!! この食感! 噛むたびに変わりますの! 最初にバキッ、次にもちっ、最後に麦の甘みがじわ——っと! 三段階ですわ!」
ルカはパンを受け取り、一口噛んだ。
眉が上がった。
「……なるほど。外皮の厚みが均一じゃない。窯の中で回転させながら焼いてるな。だから一口ごとに外皮の硬さが変わる」
「そうですの! 窯焼き師さん、このパン、窯の中で何回転させますの?」
ドワーフの窯焼き師は目を丸くしていた。こんな分析をする客は初めてらしい。
「……三回だ。入れて二十秒で一回、その十秒後にもう一回、出す直前にもう一回」
「三回! だから外皮に三つの層ができていますのね! それぞれの層で焼き加減が違うから、噛んだ時に——」
「マリカ、道を塞いでる」
ルカが肩を掴んで横にずらした。鍛冶師たちが通りを行き来している。立ち止まって食べている客はいない——皆、歩きながら、あるいは立ったまま、溶岩窯パンを齧っている。
マリカは周囲を見回した。
「……立って食べていますわ。椅子もテーブルもない。全員、立ったまま」
「鍛冶の合間に食うんだ」
ガルムが低い声で言った。
「炉を離れられない。だから——立って、片手で食える物を食う。それがドワーフの流儀だ」
「効率的ですわ。でも——」
マリカは溶岩窯パンを見下ろした。
「このパンの外皮がこんなに硬い理由、わかりましたわ。片手で持って歩きながら食べるために——中身がこぼれないよう、外皮が器の役割を果たしているんですの。機能から生まれた食文化ですわ」
ルカが足を止めた。
「……なるほど。だから割って食べるんじゃなく、齧って食べる」
「齧るために設計されたパンですわ。ルカ、これを石窯で再現する方法——」
「溶岩窯がないとな」
「だから面白いんですのよ! 溶岩窯でしか作れないパン。ここでしか食べられない味。これが——旅をする理由ですわ」
通りの奥に、広場があった。
広場の中央に巨大な鉄板が据えられている。厚さ三寸はある鉄の塊。その下から赤い光が漏れている——鍛冶の炉と同じ構造だ。火山の地熱を鉄板に伝え、千度を超える温度で肉を焼く。
鉄板の前にドワーフの料理人が立っていた。鍛冶師と見分けがつかない。同じ革のエプロン、同じ太い腕。違うのは——手に持っているのが槌ではなく、巨大な鉄のヘラだということだけ。
「アイアン・グリルですわ!」
マリカの声が跳ねた。
「鍛冶師の肉焼き! 文献でしか読んだことがありませんの! ルカ、ガルムさん、食べましょう!」
「……まだ昼を食ったばかりだろう」
「パンは前菜ですわ」
ルカは溜息をついた。三人は鉄板の前に並んだ。立ったまま——ここにも椅子はない。
ドワーフの料理人が分厚い肉の塊を鉄板に叩きつけた。
——ジュウッ!!
凄まじい音がした。煙が一瞬で立ち上り、肉の表面が一秒で焼き固められた。脂が鉄板の上で弾け、火花のように散る。
マリカは目を見開いた。
「一秒ですわ……表面が焼けるまで一秒。千度を超える鉄板だから——メイラード反応が瞬間的に起きている。この香り、通常の焼き方では絶対に出ない」
ドワーフの料理人は鉄のヘラで肉を裏返し、両面を焼いた。全工程が三十秒もかからない。焼き上がった肉を木の板に載せ、三人の前に滑らせた。
「一切れ五銅粒。塩はそっちの壺だ」
マリカは肉を一切れ手に取った。焼きたての表面は黒い殻のようになっている。だが中は——赤い。ほぼ生に近い赤身が、黒い殻の中に閉じ込められている。
一口、噛んだ。
表面の焦げた殻がバリッと割れ、中から肉汁が溢れた。舌の上で甘い脂と、焦がされた旨味が同時に広がる。
「——っ……八十二点」
マリカは目を閉じなかった。だが手が震えていた。
「素材は七十点台の肉ですわ。だがこの焼き方——千度の鉄板で一秒。表面を炭化に近い状態まで焼き締めることで、肉汁が一滴も逃げていない。中は完全にレア。この焼き技法だけで十二点を加算している。ルカ」
「ああ」
ルカも肉を噛んでいた。咀嚼しながら、目が鋭くなっている。
「……表面の焦げ方が均一だ。千度の鉄板に肉を叩きつけた時、全面が同時に接地している。つまり——鉄板の温度ムラがゼロ。火山の地熱を均一に伝える鉄板の鋳造技術がないと、この焼き方はできない」
「ですわ! これは料理の技法であると同時に、鍛冶の技術ですの! パンの溶岩窯もそう——ドワーフの食文化は、鍛冶と不可分ですわ」
「……うまい」
ガルムが言った。低く、短く。だが肉を噛む速度が、いつもより遅かった。味わっている。
「うまいぞ、これは」
三語。ガルムにしては饒舌だった。
広場の隅に、酒を出す屋台があった。
巨大な樽が三つ並び、ドワーフの酒番がジョッキに琥珀色の液体を注いでいる。甘い発酵臭が漂っている。蜂蜜と穀物を混ぜて醸した醸造酒——溶岩蜜酒の簡易版だ。
「ルカ、あの匂いを嗅いでくださいまし。蜂蜜の発酵臭の奥に——鉱物質の匂いが混じっていますわ。火山の地下水で醸しているんですわね」
「飲むなよ」
「なぜですの?」
「お前、酒に弱いだろう」
「飲んだことがありませんわ」
「だったらなおさら——」
「飲んだことがないから、飲むんですの。未知の味ですわよ? それが許せませんの」
マリカはもう屋台の前にいた。
「一杯くださいませ!」
ドワーフの酒番がジョッキを差し出した。ドワーフサイズのジョッキは人間の子どもの頭ほどの大きさがある。
マリカはジョッキを両手で持ち上げた。琥珀色の液体が揺れる。鼻を近づけ、匂いを嗅いだ。
「蜂蜜。麦。……それと、硫黄。火山の地下水に含まれるミネラルが発酵を助けている。普通の蜜酒とは全く違う醸造プロセスですわ」
一口、飲んだ。
甘い。舌の上で蜂蜜が溶け、喉を滑り落ちる。だが——その後に、熱が来た。胃の底から這い上がるような、ゆっくりとした熱。
「——美味し」
マリカの頬が、一瞬で赤くなった。
「これ……美味しいですわ。蜂蜜の甘みの後に、穀物の深みが追いかけてきて……最後に火山のミネラルが舌に残る……三層ですわ、ルカ、三層の——」
マリカのまぶたが、ゆっくりと落ちた。
「……あれ」
ジョッキを持った手が傾いた。ルカが素早くジョッキを受け取った。
「言っただろう」
マリカは赤い顔でルカを見上げた。目の焦点が合っていない。
「ルカ……この酒……三層ですの……三層……」
「聞いた。座れ」
「座る場所がありませんわ」
確かに、ここにも椅子はなかった。ドワーフたちは全員立ったまま飲んでいる。巨大なジョッキを片手で持ち上げ、鍛冶の合間に一息で飲み干す。
マリカの膝が笑い始めた。
「あら……おかしいですわ。地面が……揺れて……」
「揺れてない」
ルカがマリカの肩を支えた。広場の端の石壁に背をもたせかけさせる。マリカは石壁にずるずるとへたりこんだ。
「ガルムさん……ドワーフの酒は……こんなに強いんですの?」
「……ドワーフの酒は人間には強い。あれは蜜酒の薄めだ。本物の溶岩蜜酒は——」
「本物があるんですの!?」
マリカが目を輝かせた。酔っているのに、好奇心だけは死んでいない。
「火山の最深部で、百年かけて醸す酒があると聞いたことがある。神の酒と呼ばれていた。飲んだ者は——」
「飲んだ者は?」
「……知らん。飲んだ者がいないから、伝説なんだ」
「それですわ」
マリカの声が、酔いの中でも鋭くなった。
「まだ誰も飲んだことがない酒。——いつか、飲みに行きますわ」
ガルムの耳がぴくりと動いた。この令嬢は、酔い潰れながら次の冒険を語っている。
ルカはマリカを石壁に座らせたまま、広場を見渡した。
ドワーフたちは三人に対して特に敵意を見せなかった。獣人のガルムにも、人間のマリカとルカにも、等しく無関心だった。鉄を打つ。パンを焼く。肉を焼く。酒を飲む。それだけだ。
種族への関心より、鉄と食への関心のほうが強い種族。
ルカは屋台の一角を借りた。荷物から包丁と小鍋を取り出す。
「何を作る気だ」
ガルムが訊いた。
「あいつが起きた時に食うもの」
ルカの手が動いた。朝、森を出る前に採っておいた野蒜の球根を刻む。ガルムが今朝の鹿肉の残りから薄切りを出した。何も言わず、ルカの横に置いた。
「……使えるか」
「ああ」
ルカは鹿肉を薄く切り、軽く炙った。鍛冶町の水——火山の地下水は石灰岩系ではなく、鉄分を含む硬水だった。出汁を取ると独特の鉱物質の深みが出る。
小鍋に水を張り、鹿肉の端切れと野蒜を入れて弱火にかけた。
ポーチから——マリカのポーチではなく、自分のコートのポケットから——粗塩と乾燥タイムを出した。
「……お前もスパイスを持ち歩いてるのか」
「料理人だからな」
嘘だった。ツェーレンの村を出る前は、こんなものは持ち歩いていなかった。マリカと旅を始めてから、いつの間にかポケットに入っていた。マリカが「この野草は使える」と言うたびに少しずつ集めた——意識してそうしたわけではなかった。
塩加減を調整した。〇・七パーセント。マリカの好みの濃度だ。普通の食事なら〇・八パーセントが適正値だが、酔った後の胃には薄めがいい。マリカは酒を飲んだことがないから、胃が荒れているはずだ。
鹿肉のスープに野蒜の甘みが溶け、タイムの清涼な香りが乗った。小さな椀に注ぎ、鹿肉の薄切りを二枚だけ浮かべた。
マリカの横に置いた。水の入った革袋も。
ガルムが見ていた。
「……手が込んでるな」
「何がだ」
「酔い覚ましに、鹿肉のスープを作る料理人はいない」
「余った食材を使っただけだ」
「塩を減らしたろう。あいつの胃に合わせて」
ルカは答えなかった。鍋を洗い始めた。
ガルムは鼻を鳴らした。鼻の良い獣人には、スープの塩分濃度が通常より低いことなど匂いでわかる。
——こいつは、あの令嬢の好みの塩加減を知っている。
十二年間、一人で食事をしてきたガルムには、それがどういう意味なのか——言葉にはできなかった。だが、わかった。
マリカが目を覚ましたのは、日が傾き始めた頃だった。
「……あら」
石壁にもたれたまま、自分の横を見た。小さな椀にスープ。革袋の水。
スープはまだ温かかった。
マリカは椀を持ち上げ、一口啜った。
「……〇・七パーセント」
呟いた。
「酔い覚まし用に塩を落としていますの。タイムの香りで胃を落ち着かせて——鹿肉は薄切りにして消化しやすく。……ルカ」
ルカは三歩離れた場所で、壁にもたれて腕を組んでいた。
「起きたか」
「このスープ、誰が頼みましたの?」
「誰も頼んでない。余った食材を処理しただけだ」
「余った食材で、わたくしの好みの塩加減に仕上げる料理人が、どこにいますの」
「……飲め。冷める」
マリカはスープを啜った。目を閉じた。
——分析ではなく、味わっている。
ルカの料理を食べる時だけ、マリカは目を閉じる。マリカ自身は、その意味に気づいていない。
椀を空にして、マリカは立ち上がった。まだ少しふらつく。ルカが無言で肩に手を添えた。
「一杯で潰れるな」
「初めてでしたもの。次は二杯飲みますわ」
「飲むな」
「三杯かもしれませんわ」
「だから飲むな」
ガルムが広場の向こうから戻ってきた。背負い籠に何かを入れている。
「ガルムさん、それは?」
「鍛冶町の乾燥肉だ。ドワーフに鹿の干し肉を渡したら、代わりに山鳥の燻製をくれた」
「ドワーフが? ガルムさんの鹿の干し肉と物々交換ですの?」
「……ここの連中は、うまい肉なら誰から買っても構わんらしい」
ガルムの声が、わずかに揺れた。
十二年間、人間の街で獣人の食材は買い叩かれてきた。だがドワーフの鍛冶町では——食材の質だけが問われた。種族は問われなかった。
「でしょう?」
マリカが笑った。まだ赤い頬で。
「言いましたでしょう、ガルムさん。食卓に種族は関係ありませんわ」
ガルムは何も言わなかった。だが耳が——両方とも、前を向いていた。
日が沈む頃、三人は鍛冶町の外れで野営の支度を始めた。
宿はあったが、天井が低すぎてガルムが入れなかった。ドワーフサイズの宿は、百九十八センチの熊獣人には拷問に等しい。
「ガルムさんが入れないなら、わたくしたちも外で寝ますわ」
マリカがそう言った時、ガルムの耳がまた動いた。ルカは何も言わず、焚火の準備を始めた。
夜空に鍛冶の炉の明かりが映えている。ドワーフたちの槌打つ音が遠くから響く。彼らは夜も鉄を打つ。夜も焼く。夜も飲む。
「ルカ」
焚火の前で膝を抱えたマリカが言った。
「今日食べたもの、全部覚えていますの。溶岩窯パンの三層の外皮。アイアン・グリルの一秒の焼き。蜜酒の三層の味。——全部、ドワーフの鍛冶と繋がっている」
「ああ」
「食文化は技術文化ですわ。鍛冶がなければ溶岩窯は作れない。溶岩窯がなければマグマ・ブレッドは焼けない。千度の鉄板がなければアイアン・グリルはできない。火山の地下水がなければ蜜酒は醸せない。——全てが、この土地でしか成立しない」
マリカは焚火の炎を見つめた。
「だから旅をするんですの。本で読んでも、人から聞いても、この味は再現できない。ここに来て、この窯の前に立って、この空気の中で食べなければ——本当のマグマ・ブレッドにはならない」
「再現できないってことは、ルカの腕でもか?」
ガルムが訊いた。
「ルカの腕は大陸屈指ですわ。でも——溶岩窯がなければ、あのパンは焼けない。それが悔しいのではなく、嬉しいんですの。世界にはまだ、わたくしの舌でも予測できない味がある」
ルカは焚火に枝を足した。
「……お前がそう言うなら、溶岩窯の代わりになる方法を考えるしかないな」
「考えるんですの?」
「千二百度は無理だ。だが表面を一瞬で焼き固める原理は応用できる。鉄鍋を限界まで熱して——」
「ルカ!」
マリカが身を乗り出した。酔いは完全に覚めている。
「それですわ! 溶岩窯の原理をルカの技術で翻訳する! ドワーフの食文化をルカの料理に取り込む! それが旅の意味ですわ!」
「……まだ思いつきだ。実験してみないとわからない」
「実験しましょう! 明日の朝食で!」
「気が早い」
「食の計画に——」
「早すぎることはない。わかった」
ガルムが鼻を鳴らした。この二人のやり取りは、もう何度聞いたかわからない。だが——不思議と、飽きなかった。
火が爆ぜた。鍛冶の槌が遠くで鳴った。
ガルムは焚火の向こう側で、マリカが革の手帳を取り出すのを見ていた。今日食べたものを、全て書き留めている。溶岩窯パンの温度。アイアン・グリルの焼き時間。蜜酒の三層構造。
手帳を閉じた時、マリカが呟いた。
「明日の朝食が楽しみですわ」
ルカが「寝ろ」と言った。
マリカは笑って目を閉じた。
ルカは焚火の番をしながら、小鍋の底に残ったスープの痕を見ていた。椀は空だった。マリカが全部飲んだ。〇・七パーセントの塩加減を、一口で看破された。
——あいつの舌には、何も隠せない。
だが、それでいい。
ルカは鍋を洗い、明日の朝食のために鉄鍋を荷物から出した。千二百度は無理だ。だが五百度なら——焚火を工夫すれば、いけるかもしれない。
溶岩窯の原理を翻訳する。マリカはそう言った。
面白い、と思った自分に、少し驚いた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
鍛冶町の溶岩窯パン。書いている最中、無性にパンが食べたくなりました。千二百度で焼くパンは現実には存在しませんが、ナポリピッツァの窯は四百度超え。あの表面のパリッとした食感は、高温一気焼きの賜物です。それを三倍にしたら——という妄想がマグマ・ブレッドの原点でした。
マリカが一杯で沈没するシーン。お嬢様なのにお酒が弱いという設定、書いていて楽しかったです。酔っても好奇心だけは死なない。「まだ誰も飲んだことがない酒」の話を聞いた瞬間、酔いの中で目が光る。この子は本当にブレません。
ルカが黙って〇・七パーセントのスープを作るシーン。誰にも頼まれていないのに、マリカの胃の状態を計算して塩を落としている。本人は「余った食材を処理しただけ」。ガルムの鼻は全部お見通しなんですけどね。
◇◆◇ 歩人の連載作品 ◇◆◇
▼ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
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