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「世界中のごはんを食べ尽くす!」——追放令嬢の食い倒れ世界制覇、始めますわ  作者: 歩人


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第13話: 味を失ったエルフ

 街道に出て二日目の昼過ぎ。焚火の残り香が指先にまだ残っている。


 鍛冶山脈は背後に遠ざかり、道の両側には夏草の野原が広がっていた。風が南から吹いている。乾いた草と、どこかの畑から漂う麦の匂い。マリカは歩きながら、その匂いの奥を嗅いだ。麦——だけではない。甘い。だが麦の甘さとは違う。


「ルカ、鉄鍋の焼き方、昨日から変えましたわね」


 マリカは革の手帳を開きながら続ける。


「今朝の鹿肉、鉄鍋を先に空焼きしたでしょう? 溶岩窯の応用ですわ」


「ああ。だが均一じゃない」


「ですわ。溶岩窯の本質は全方向均一加熱——」


「おい」


 ガルムが低い声で遮った。


「前方。休憩所がある。——人がいる」


 マリカが顔を上げた。街道が曲がった先に、石造りの屋根付き休憩所が見えた。木のベンチが三脚。石積みの水場。そして——


 一人の旅人が座っていた。




 休憩所のベンチの端に、フードを深く被った人物がいた。


 深緑のローブ。旅装束。腰に小さなポーチ。背は高い——マリカより頭一つ以上。だがその体は細く、ローブの中で輪郭が消えている。


 マリカの足が止まったのは、その旅人の手元を見た瞬間だった。


 硬いパン。水の入った革袋。それだけ。


 旅人はパンを一口大にちぎり、口に運んでいた。咀嚼は均等で、一定のリズム。水で流し込む。また一口。また水。


 ——食べている、のではなかった。


 マリカの絶対味覚は、他人の食べ方にも反応する。咀嚼のリズム、嚥下のタイミング、顎の動き。味わう人間には無意識の揺らぎがある。美味しい部分で遅くなり、そうでない部分で速くなる。


 この旅人には、その揺らぎが一切なかった。水を飲む時も、パンを噛む時も、顎の速度が変わらない。


「ルカ」


 マリカは小声で呼んだ。


「あの人の食べ方、見てくださいまし」


「……ただの旅人だろう」


「違いますの。あの咀嚼のリズム——味を感じている人間の食べ方ではありませんわ」


 ルカが目を細めた。


「……確かに。噛む速度が一定すぎる」


「ですわ。食事ではなく——燃料補給ですの」


 マリカは休憩所に向かって歩き出した。ルカが「おい」と呼び止めようとしたが、もう遅かった。


 ガルムが鼻をひくつかせた。風下からフードの旅人の匂いを嗅ぐ。


「……森の匂いがする。古い森だ。薬草の匂いも混じってる」




「こんにちは。お隣、よろしいですの?」


 マリカはフードの旅人の隣のベンチに、何の躊躇いもなく座った。


 旅人の手が止まった。ちぎりかけのパンが指の間で揺れた。フードの奥から翡翠色の瞳が覗く。薄い——瞳の色が、本来の濃さを失っているように見えた。


「……どうぞ」


 低く、穏やかな声だった。だがその声には温度がなかった。敵意でも歓迎でもなく、ただ事実を述べている。


 ルカが荷物を下ろし、ガルムが背負い籠を置いた。三人分の昼食の支度を始める——いつもの手順だ。ガルムが食材を出し、ルカが調理する。


「ルカ、今朝の残りの鹿肉と、山菜がありますわね。あと、鍛冶町で手に入れた山鳥の燻製——ガルムさんがドワーフと交換した分ですわ」


「ああ。燻製は薄く切って、山菜と合わせる。鹿肉は焼き直す」


 ルカが包丁を取り出し、手際よく燻製を薄く切る。鹿肉に粗塩を振り、鉄鍋で焼き始めた。脂が弾ける音。肉が焼ける香り。山菜の青い匂い。


 マリカは調理の音を聞きながら、隣の旅人を見ていた。


 旅人は——何の反応も示さなかった。


 焼けた肉の匂いが漂っても、鼻が動かない。燻製の煙の香りにも、山菜の瑞々しさにも、フードの奥の表情が変わらない。普通なら、いい匂いがすれば鼻が反応し、空腹なら唾が出る。


 この旅人は、食べ物の匂いに対して死んでいた。「美味しそう」「食べたい」に変換される回路が、ない。


「あの」


 マリカは旅人に向き直った。


「お食事中に失礼しますわ。よければ、一緒に食べませんこと? ルカの料理は量がいつも多すぎますの」


「多くない。お前が追加するからだ」


「わたくしが追加するのは食材であって量ではありませんわ」


 フードの旅人が、二人のやり取りを見ていた。翡翠色の瞳がわずかに動く。フードを押さえる指が、ほんの少しだけ——力を緩めた。


「……お気持ちは、ありがたいのですが」


 旅人は手元のちぎりかけのパンを見下ろした。


「わたしには、これで十分です」


「十分かどうかは問題ではありませんわ。美味しいかどうかが問題ですの」


「……美味しい、ですか」


 旅人の声が、ほんの一瞬だけ揺れた。




 ルカが鹿肉を木の皿に盛り付けた。燻製の薄切りを添え、山菜を脇に置く。表面はこんがりと焼き色がつき、中は薄紅色。


 マリカは一切れを口に入れた。


「——七十六点。脂の乗りが落ちていない。ガルムさんの保存が完璧ですの。ルカ、今朝の鉄鍋の実験が活きていますわ。溶岩窯の原理を応用した余熱焼き——表面の旨味層が昨日より一・五倍厚い!」


「……わかるのか。一・五倍まで」


「わかりますわ。ですわ! 効果が出ていますの!」


 マリカの声が跳ね、目が輝いていた。


 フードの旅人が——じっと、マリカの顔を見ていた。


 パンをちぎる手が、止まっていた。




 マリカは食べながら、旅人を観察し続けていた。


 匂いに反応しない。声や気配には正確に反応する。嗅覚が死んでいるのではない——食の匂いだけが意味を成さない。そして咀嚼に揺らぎがない。


 マリカの目が旅人の手元に吸い寄せられた。硬いパンを割るために両手の指先に力が入っている。その右手の指先に——薄い傷痕が見えた。火傷に似ている。だが通常の火傷ではない。紋様のような、均一な痕。パンをちぎるたびに傷痕が白く浮き上がる。


 マリカは静かに皿を置いた。


「あの」


 旅人がこちらを見た。


「ひとつ、伺ってもよろしいですの?」


「……何でしょう」


 マリカはまっすぐに旅人のフードの奥を見つめた。


「あなた、食べる時——味が、わからないんですの?」


 休憩所の空気が凍った。


 ルカの手が止まった。ガルムの耳がぴくりと立った。


 旅人のちぎりかけのパンが、膝の上に落ちた。


「……なぜ」


 声が震えていた。穏やかだった声の底から、押し殺した何かが滲み出ている。


「なぜ、わかるのですか」


「あなたの食べ方ですわ」


 マリカの声は穏やかだった。責めているのではない。ただ見えたものを、見えたままに言っている。


「咀嚼のリズムが完全に均等ですの。味がわかる人間は——人間に限らず、食べ物を味わう生き物は、噛む速度に揺らぎが出る。美味しい部分では遅くなり、そうでない部分では速くなる。あなたにはそれがない」


 旅人は黙った。


「それに、匂いへの反応がありませんわ。ルカが肉を焼いた時も鼻が動かなかった。でも声や気配には反応していらっしゃる。嗅覚ではなく——味覚がないから、食の匂いが意味を成さないんですの」


 旅人の手が、膝の上で握りしめられていた。


「……二十七年間、旅をしています」


 旅人が、ゆっくりと口を開いた。


「この……ことに気づいた人は、あなたが初めてです」


 フードの奥で、翡翠色の瞳が揺れていた。




 フィリアは——自分でも驚いていた。


 二十七年間、大陸を渡り歩いた。人間の町で食事を取ることは何度もあった。宿の食堂。街道沿いの屋台。誰もフィリアの食べ方に疑問を持たなかった。


 当然だ。


 食事を機械的に処理する旅人など珍しくもない。兵士も傭兵も商人も、移動中の食事は効率を優先する。フィリアの均等な咀嚼は、彼らと見分けがつかない。


 だが、この令嬢は——咀嚼のリズムの「揺らぎの有無」で見抜いた。


 食べ方を、そこまで見ている人間がいるのか。


「わたしは……味覚がありません」


 なぜこの見知らぬ令嬢に話しているのか、自分でもわからなかった。だが、この令嬢のまっすぐな目は——嘲笑でも同情でもなかった。純粋な、食に対する興味だった。


「いつから?」


「……四十七年前です」


 マリカが息を呑んだ。ルカもガルムも、旅人を見ていた。四十七年。人間の一生の半分以上。


「四十七年間、味がわからないまま食事を——」


「食事というより……摂取です。パンと水があれば、生きていけます。味がなくても、栄養は摂れますから」


「それは食事ではありませんわ」


 マリカの声に、静かな怒りが混じった。食に対する冒涜への怒りではない。この旅人が四十七年間、「食べる喜び」を奪われてきたことへの——悔しさだった。


「食事は栄養を摂ることではありませんの。味と香りと温度と食感があって、それを誰かと一緒に囲んで——初めて食事ですわ」


「……そうですか」


 フィリアの口癖が出た。肯定でも否定でもない、考えている時の返答。


 だが——この令嬢の言葉は、ただの綺麗事とは違った。あの熊獣人が食材を出し、あの料理人が焼き、この令嬢が一口で分析する。言葉は少ないが、食卓を中心に回っている信頼がある。


「お名前を——」


「あ、申し遅れましたわ。マリカ・ベルモントですの。こちらがルカ。そしてガルムさん」


「……ルカさん。ガルムさん」


 フィリアはフードの奥から三人を見た。名乗るべきか。名前を言えば素性を訊かれる。フードの下で、指が無意識にローブの裾を掴んでいた。


「あなたのお名前は?」


「……」


 フィリアは迷った。だがマリカの琥珀色の瞳に詮索の色はなかった。食材の品質を知りたいのと同じ純度の、濁りのない好奇心。


「フィリア、と申します」


 姓は言わなかった。ルーンリーフの名は、氷雪の隠れ里に繋がる。


「フィリアさん」


 マリカがその名を呼んだ。初めて会った相手の名を、もう三度目の呼吸のように自然に口にする。


「フィリアさん、一つだけ。味がわからなくなる前——最後に味わった食事は、何でしたの?」


 フィリアの指が震えた。


 四十七年前。あの日の朝。里の食堂で——精霊が宿る古木の実を清水で炊いた粥。あの味を最後に、その日の午後、全てが壊れた。


「……木の実の、粥です」


 声が掠れた。


「エルフ——」


 ガルムが呟いた。フィリアのフードの下から、風に煽られて銀に近い薄緑の髪が一筋覗いた。フィリアは反射的に手でフードを押さえた。指に力が入る。——もう二十七年、こうしてきた。隠すことに、慣れたはずだった。だが今、この令嬢の前では——押さえた指が、震えていた。


「……気づいていましたか」


「匂いでわかっていた。だが——踏み込む気はなかった」


「ガルムさんは鼻がいいですの。大陸一かもしれませんわ」


 マリカが当たり前のように言った。熊獣人が大陸一の鼻を持つことも、旅人がエルフであることも、マリカにとっては「興味深い事実」でしかない。種族の壁が、この令嬢の前では最初から存在しない。ガルムはそれを知っている。あの森で初めて会った時——鹿しか見なかった令嬢だ。


「フィリアさん」


 マリカが立ち上がった。


「木の実の粥。それが最後のお食事なんですわね。四十七年間、ずっと」


「……ええ」


「フィリアさんの右手の指の傷痕——パンをちぎる時に見えましたわ。通常の火傷ではありませんの。味覚を失った原因と関係が?」


 フィリアは右手を見た。四十七年経っても消えない魔法火傷の痕。里の誰もが目を背けた傷を——この令嬢は見ている。


「……はい」


「それは——ご自分の意思で?」


「いいえ。事故です」


 マリカは黙って頷いた。それ以上は訊かなかった。


 代わりに——ルカの方を向いた。


「ルカ」


「何だ」


「木の実の粥。作れますの?」


 ルカが眉を上げた。フィリアの目が大きくなった。


「今から?」


「今からですわ。正確なレシピはわかりませんけれど——ガルムさんの山栗がありますわね。清水はこの水場ので代用して。ルカの腕なら——」


「待ってください」


 フィリアが遮った。声が、初めて強くなった。


「わたしには味がわからないんです。作っていただいても——」


「味がわからなくても、食事はできますわ」


 マリカはまっすぐにフィリアを見た。


「四十七年間、味のない食事を続けてきたんですの。その間ずっと——一人で。でしたら、今日だけ。誰かと一緒に食べてみませんこと?」


 フィリアの翡翠色の瞳が、揺れた。


 一人で。


 その言葉が——正確だった。里にいた時ですら、壊れてからは一人だった。食堂で隣に座る者はいなくなり、薬草園に来る者は減り、やがて誰もフィリアの名を呼ばなくなった。里を出てからは、文字通り——


 二十七年間、誰ともこうして食卓を囲んだことがない。「一緒に食べる」という行為そのものを、味覚と一緒に失ったのだ。


「……わたしが食べても、何もわかりませんよ」


「わたくしがわかりますわ。フィリアさんの代わりに味を見て、全部お伝えしますの。——ルカ、お願いします」


 ルカは溜息をついた。だが、もう山栗の殻を剥き始めていた。


 ガルムが背負い籠から水場の近くで見つけた野草を出した。黙って、ルカの横に置いた。


「……使えるか」


「山栗と合う。粥なら悪くない」


 フィリアは——座ったまま、三人の動きを見ていた。


 この人たちは、見知らぬエルフのために粥を炊こうとしている。味がわからないと言っているのに。意味がないことを、この令嬢は知っている。知った上で——「一緒に食べましょう」と言っている。


 ルカが小鍋に水を張った。山栗を崩し入れ、弱火にかける。野草を刻み、鍋の縁に添える。湯気が立ち始めた。甘い、穀物の匂いが——


 フィリアの鼻が、微かに動いた。


 匂いはわかる。意味を持たないだけだ。この匂いが「美味しそう」に変換されることは——もう、ない。


 だが。


 湯気の向こうで、マリカが鍋を覗き込んでいる。琥珀色の目が、粥の表面を見つめている。その目には——四十七年間フィリアが失っていたものが、溢れるほどに灯っていた。


 フードを押さえた手を、フィリアは静かに膝に下ろした。


 ——湯気が頬に触れた。温かかった。味のない温かさ。それなのに、どうしてだろう。視界が少しだけ、滲んだ。


 四十七年ぶりだった。食べ物の前で涙が出たのは。


 マリカが匙で粥をすくい、一口含んだ。目を閉じた——ルカの料理を味わう時と同じ、あの表情で。


「……五十八点。山栗の甘みは悪くありませんわ。でもエルフの古木の実とは別物。水場の硬水も、里の清水とは——」


 マリカは目を開けた。


「だから、いつかフィリアさんの里の木の実で作りたいですわ」


 フィリアの息が止まった。


 いつか。この令嬢は——もう先のことを見ている。今日この場で終わる出会いではなく、続く旅を見ている。


「フィリアさん」


 マリカの声が、柔らかくなった。けれど目だけは——研ぎ澄まされた琥珀色のまま、フィリアの瞳を見つめていた。


「エルフの木の実の粥。四十七年間、あなたの最後のお食事のまま止まっていますの。——わたくし、それを更新したいですわ」


 フィリアは何も言えなかった。


 胸の奥で、四十七年かけて凍りついた何かに、小さなひびが入る音がした。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


フィリアの初登場回。書いている間ずっと、「咀嚼のリズムに揺らぎがない」という着眼点が出てきた瞬間に鳥肌が立ちました。マリカは味覚の天才ですが、それは「自分が食べる」だけじゃない。他人の食べ方を見て、その人の味覚の状態まで読み取ってしまう。絶対味覚の怖いところです。


フィリアの「最後に味わった食事は木の実の粥」という設定。四十七年前の朝食の味を最後に、それ以降すべてが「摂取」になった。書いていて、自分がもし明日から味がわからなくなったら——と想像して、しばらくキーボードが打てませんでした。


マリカが「味がわからなくても、食事はできますわ」と言い切るシーン。この子の凄さは、相手の欠落を「問題」ではなく「事実」として受け取るところ。だからフィリアは心を開きかけた。説教でも同情でもなく、「一緒に食べましょう」。食卓に種族も身分も、味覚の有無も関係ない。


◇◆◇ 歩人の連載作品 ◇◆◇


▼ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ

婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。


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