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「世界中のごはんを食べ尽くす!」——追放令嬢の食い倒れ世界制覇、始めますわ  作者: 歩人


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第8話: まだ食べたことがない味

 夜が明ける前に、ルカは厨房に立っていた。


 村の酒場の厨房。三日前までわざとまずい飯を作っていた場所。今は——違う。鍋が温まり、包丁が研がれ、まな板の上に新しい食材が並んでいる。


 蕪。昨日の宴で使い切らなかった分の最後の一箱。芯はまだ生きている。


 ルカは蕪を薄く切った。昨日のスープとは違う切り方。薄く、均等に、表面積を最大にする切り方。焼くための切り方だ。


 鍋に油を引いた。弱火。じっくり。蕪の水分を飛ばしながら、甘みを凝縮させる。その間にパンの生地を練る。昨日の芋フラットブレッドの残り生地に、新しい芋を足して練り直す。チーズを細かく刻んで混ぜ込む。


 石窯に火を入れた。


 昨日のヨルグの火入れは見ていた。薪の組み方、空気の入れ方、温度の上がり方。あの老人は石窯の癖を知り尽くしている。ルカは同じやり方で薪を組んだ。


 窯が温まるまでの間に、干し肉を薄く削いでスープの出汁を取る。根菜と合わせて、澄んだスープに仕立てる。昨日の大鍋のスープとは方向が違う。あれは二十人を満たすための「量」のスープ。これは——。


 ルカの手が一瞬止まった。


 ——何のスープだ。


 二人分。マリカと自分の分。旅立ちの朝に飲むスープ。塩加減は昨日より少し薄い。朝の体に優しい濃度。蕪の甘みが前に出るように。


 ……いつも通りだ。腹が減った奴がいたら作る。それだけだ。


 ルカは鍋に向き直った。




 空が白み始めた頃、広場にマリカが現れた。


 昨日の宴が嘘のように静かな広場。長テーブルはまだ組まれたまま、朝露に濡れている。花が一輪、萎れかけて残っている。


「——いい匂いですわ」


 マリカの鼻がひくひくと動いた。寝起きの顔。髪が少し乱れている。だが鼻だけは正確に機能している。


「蕪を焼いてますわね。油は少なめ。弱火でじっくり。……あら、スープも。昨日と違う。澄んでいますわ」


「起きたのか」


「この匂いで起きない人間がいますの?」


 ルカは何も言わずに椀を出した。


「ルカさん、随分早起きだったね」


 声の方を見ると、トマスが畑に向かう途中で足を止めていた。ルカの手元——新しく仕込まれた朝食の一式を見ている。


「……残り物の処分だ。昨日の食材を使い切る」


「残り物にしちゃ、ずいぶん手が込んでないか?」


「うるせぇ。行けよ、畑」


 トマスは肩をすくめて畑に向かった。その背中が笑っているように見えたが、ルカは無視した。




 広場の長テーブルに、朝食が並んだ。


 焼き蕪のスープ。薄切りにした蕪をじっくり焼いて甘みを凝縮させ、澄んだ出汁に浮かべたもの。表面にほんのり焦げ目がついた蕪が、スープの中で琥珀色に輝いている。


 焼きたてのチーズパン。昨日の芋フラットブレッドとは違い、今朝のは小ぶりで丸い。外はカリッと、中はもちもち。チーズが溶けて生地に絡んでいる。


 二人分。


 マリカが椀を持ち上げた。匂いを嗅いで、一口。


 目が閉じた。


「……七十二点」


 ルカの手が止まった。


「何だと」


「昨日のスープは七十点でしたわ。今日は七十二点。蕪の焼き加減が絶妙ですの。甘みが凝縮されて、スープの旨味と層を作っている。——でも塩がほんの少しだけ弱い。あと0.05%。朝だから薄めにしたんでしょうけど、蕪の甘みに対してはもう少し塩を立てた方がバランスが取れますわ」


「……あの時の六十八点から四点上がったのか」


「あら、覚えていらしたの?」


「忘れるか、あんな偉そうな採点」


「偉そうではありませんわ。正確なだけですわ」


 マリカはパンを千切った。一口齧り、目を細める。


「パンは七十五点。昨日のフラットブレッドより確実に上ですわ。生地の練り方を変えましたわね? チーズの混ぜ込みが均一になっている。——ルカ、あなた昨日の反省を朝のうちに修正したんですの?」


「別に。生地が余ってたから練り直しただけだ」


「四時間で修正できる人間を天才と呼ぶんですの」


「……食え。冷める」




 食事を終えたマリカが、スープの最後の一滴まで椀を傾けている時。


「お嬢さん——じゃなかった、マリカさん」


 ヨルグが杖をつきながら歩いてきた。木こりの老人は帽子を目深にかぶり、白い息を吐いている。


「ヨルグさん。おはようございます」


「昨日の礼を言いに来たんじゃが、もう一つ。あんたたち、この後どうするんだ」


 マリカは椀を置いた。


「……まだ決めていませんの」


「ほう。あんたにしちゃ珍しいのう、即断即決じゃなかったか」


「食の旅に出たいとは思っていますわ。でも、どこへ行くべきか——」


「なら一つ教えてやるわい」


 ヨルグはテーブルの向かいに腰を下ろした。


「若い頃、木を伐りに大陸中を歩いとった。南の砂漠の手前まで行ったこともある。その途中で立ち寄った街があった」


「……どんな街です?」


「食の都、と呼ばれていた。アペティアという街だ」


 マリカの瞳が、一瞬で変わった。


「アペティア」


「大陸中の食が集まる中立都市じゃ。ドワーフの窯焼きパン、エルフの薬草料理、ナジール族の砂漠の蒸し料理、ハーフリングの薬膳——全種族の料理人が腕を競い合っとる。料理ギルド《グランテーブル》の本拠地でもある」


 ルカが釜を拭く手を止めた。


「……グランテーブル」


「知っとるのか、兄ちゃん」


「料理人の格付けをする組織だ。星の数で料理人の社会的地位が決まる」


「そうじゃ。あそこには三つ星の料理人が——確か三人おるはずだ。食べた者の人生を変える一皿を作れる連中だと聞いとる」


 マリカは立ち上がっていた。


 いつの間に立ったのか、本人も覚えていない。椀をテーブルに置いた記憶がない。体が勝手に動いている。


「ヨルグさん。アペティアは、ここからどのくらいですの?」


「徒歩で十日。馬があれば五日じゃ。街道沿いに行けば迷わん」


「十日」


 マリカの目が爛々と輝いていた。


 ——全種族の料理が集まる街。食べたことがない味の宝庫。三つ星の料理人。食べた者の人生を変える一皿。


「ルカ」


「……嫌な予感しかしない」


「アペティアに行きますわ」


「おい。今すぐとか言うなよ」


「今すぐですわ」


「聞けよ人の話を」


「何か問題がありまして?」


 ルカはマリカの顔を見た。琥珀色の瞳が燃えている。昨日の宴の夕暮れの光とは違う、朝日に透けた金色の光。この目をした時のマリカは止まらない。三日間の経験でそれは十分にわかっている。


「……準備がいる。食料、水、野営の道具。最低限、昼までかかる」


「では昼に出発しますわ」


「おい、俺は行くとは——」


「ルカ」


 マリカが真っ直ぐにルカを見た。


「わたくし、まだ食べたことがない味があるんですの」


 その声は、怒りでも、興奮でも、命令でもなかった。


 ただの事実。マリカにとっての、世界で最も許せない事実。


「世界中にまだ知らない食卓がある。食べたことがない料理がある。味わったことがない調理法がある。——それが、許せませんの」


 ルカは黙ってマリカの顔を見ていた。


 三日前、酒場に乗り込んできた令嬢。わざとまずく作った料理を一口で見抜いた舌。六十八点という容赦のない採点。二十人の村人を三秒で配置した指揮力。腐った食材を前に、初めて見せた本気の怒り。蕪のスープを飲んで叫んだ歓喜。


 ——そして、冷めた弁当を食べて「おいしい」と言った声。


「……お前の舌だけは信用してる」


 ルカの声は低かった。


「俺の料理がまともかどうか、まだ自分じゃわからん。味覚が狂ってるかもしれない。——だがお前が七十二点だと言うなら、まあ、食えなくはない出来なんだろう」


 初めてだった。ルカが自分の料理を、否定しなかった。


「百点じゃないのが悔しいとは思わないんですの?」


「百点を取りたいとは思わん。——ただ、お前がまだ食べたことがない味を、俺の手で作れたら」


 言いかけて、口を閉じた。


「……勝手にしろ。行くぞ、アペティアとやらに」




 昼前。


 広場には村人が集まっていた。誰が呼んだわけでもない。マリカとルカが旅立つという噂が、小さな村を一周するのに半日もかからなかった。


 トマスが背負い袋を差し出した。


「蕪が入ってる。日持ちするやつを選んだ。十日は保つ」


「トマスさん……」


 トマスは袋の口を丁寧に結び直して、マリカの手に押し付けた。日に焼けた指先が少し震えている。


「あんたが見つけてくれた食材で、俺の蕪はスープになった。そのスープが光った。——蕪農家として、これ以上のことはない」


 ヨルグが布に包んだ何かを渡した。


「干し肉と木の実じゃ。あと、アペティアまでの道を描いた。婆さんが生きとった頃に歩いた道だから、少し古いがの」


「ヨルグさん、茸は——」


「森に行けばまた採れると言うたじゃろ。若い連中が旅に出るのに手ぶらで送り出せるかい」


 猟師の妻が水筒を持ってきた。子どもたちが花を一輪ずつ差し出した。年配の女性が野営用の毛布を畳んで渡した。


 マリカは、一人一人の手を取った。


「ありがとうございます。——必ず、また来ますわ。その時は、わたくしがまだ食べたことがない味を、持って帰りますの」


 トマスが笑った。ヨルグが帽子を上げた。子どもたちが手を振った。




 村を出て、街道に入った。


 春の風が吹いている。道の両脇に若草が芽吹き、遠くの山に雪が残っている。空は高く、雲が白い。


 マリカが先を歩いている。ルカが三歩後ろを歩いている。


 背負い袋が揺れる。蕪と干し肉と木の実と、水筒と毛布。それが二人の全財産。


「ルカ」


「何だ」


「アペティアまで十日。道中に何か食べられるものはありますかしら」


「……まだ出発して半刻も経ってないぞ」


「お腹が空きましたの」


「朝あれだけ食っただろ」


「あれは朝食ですわ。今はもう昼前ですの。別腹ですわ」


「別腹って概念を初めて食に適用する人間を見たぞ」


「ルカ、あの丘の向こうに何か匂いませんこと?」


「お前の鼻はどうなってるんだ」


「匂いますわ。煙と……何かを焼いている匂い。甘い。蜂蜜? いえ、違う。果実を煮詰めた匂い……」


 マリカの足が速くなった。


「おい、待て。計画が——」


「計画は後ですわ! あの匂いの正体を確かめるのが先ですの!」


「話を聞け——」


 マリカはもう走り出していた。街道を外れ、丘の向こうへ。スカートの裾を両手で持ち上げて、侯爵令嬢にあるまじき速度で。


 ルカは足を止めた。


 走っていくマリカの背中を見た。


 三日前と同じだ。酒場に乗り込んできた時も、倉庫に潜り込んだ時も、村人を集めた時も。この令嬢は、いつも走り出してから考える。計画を立てない。後先を考えない。止まらない。


 ——だから、厄介なんだ。


 ルカの口の端が、ほんのわずかに上がった。


「……勝手にしろ」


 そう言って、ルカも走り出した。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第1アーク「追放と辺境の味」、これにて完結です。


振り返ると、たった八話で——婚約破棄、まずい飯の酒場、塩0.8%の証明、六十八点の一皿、食材が腐る村、倉庫への潜入、みんなの食卓、そして旅立ち。マリカとルカの物語は、ここから始まります。


今朝のスープが七十二点。四日前の六十八点から、四点上がりました。百点はまだ遠い。でも、マリカが百点をつけない限り、ルカは料理を作り続ける。そして、ルカが料理を作り続ける限り、マリカは食べ続ける。——たぶん、それが二人の旅の形なんだと思います。


次回から第2アーク「食の都への道」。アペティアを目指す道中で、新しい仲間と新しい味が待っています。マリカの丘の向こうの匂いの正体は——次回をお楽しみに。


◇◆◇ 歩人の連載作品 ◇◆◇


▼ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ

婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。


・「お前は道具だった」と笑った婚約者が〜【知略型】

 → https://ncode.syosetu.com/n5906lu/

・毒が効かない体になるまで〜【断罪型】

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