第6話: わたくしがそうしたいので
朝もやが晴れる前に、マリカはもう歩き出していた。
腰のポーチに非常食。靴紐を結び直して、酒場の裏口を音もなく抜ける。空はまだ薄い灰色で、村の通りには人影がない。
計画はある。行って、見て、帰ってくる。——完璧だ。
村の北の外れ、丘の上に領主クラウスの屋敷がある。その東側に倉庫が三棟。トマスが「良いものは全部あそこに入る」と言っていた。昨日のうちに、酒場の常連から倉庫の位置だけは聞き出してある。
見張りは夜明けの交代時に手薄になる。それも昨日、ヨルグから聞いた。
——だから、計画はある。
「おい」
背後から声がした。
振り返ると、ルカが立っていた。くたびれた料理人のコートの袖を捲り、手には布に包んだ何かを提げている。
「……ルカ? 来ないと言っていたでしょう」
「来てねぇよ。朝の散歩だ」
「この方角に散歩する理由がありますの?」
「うるせぇ」
ルカは黙ってマリカの横に並んだ。手に持った布包みを、ぶっきらぼうにマリカに差し出す。
「……これは?」
「弁当だ。腹が減ったら食え」
マリカの目が布包みに向いた。開けようとして——やめた。
普段のマリカなら、もう嗅いでいる。布越しに中身を当てて、「パンですわね、焼きたて。チーズも入っている——ルカ、これ新しい食材で作りましたわね」と一分以内に分析している。
だが今日のマリカは弁当を腰に括りつけただけで、前を向いた。
「ありがとうございます」
ルカの眉が動いた。
マリカが食べ物を目の前にして無反応。——それが何を意味するか、三日間一緒にいればわかる。
こいつは本気で怒っている。
丘を登る途中、マリカは一度も立ち止まらなかった。
普段なら道端の草を嗅ぎ、木の実を摘み、「この土壌なら蕪の甘味が変わるはずですわ」と語り出す。それが止まっている。琥珀色の目は前だけを見ていて、口元が引き結ばれている。
「おい」
「何ですの」
「見張りのことは考えてあるのか」
「交代は夜明けの鐘と同時。今の時間なら倉庫の裏に回れば死角がありますわ。——ヨルグさんに聞きました」
「……それを計画って言うんだよ」
「あら、わたくしの計画、進化しましたわね」
ルカは溜息をついた。進化も何も、昨日までは「行って、見て、帰ってくる」が全てだった。一晩で情報を集めたのは認めるが、それでも計画と呼ぶには穴だらけだ。
「見つかったらどうする」
「走りますわ」
「……それは計画じゃねぇ」
「ルカ。——見つからなければいいんですの」
マリカの声に、いつものコメディの余裕がなかった。ルカは黙った。
領主の屋敷は、村の規模に不釣り合いな大きさだった。
石造りの二階建て。壁は苔むしているが、門だけは新しい鉄で補修されている。東側に、木造の倉庫が三棟並んでいる。一番手前の倉庫は扉に鍵がかかっていたが、二棟目と三棟目は掛け金だけだった。
マリカは裏手の林から倉庫を観察した。見張りは一人。屋敷の正門側に立っていて、倉庫の裏側には目が届いていない。
「ルカ。ここで待っていてくださいませ」
「は?」
「わたくし一人で行きますわ。足音を立てなければ——」
「お前の靴、底が硬い旅装束だろうが。俺のほうが足音を殺せる」
「でも——」
「行くなら二人で行く。帰るなら二人で帰る。——一人で行かせるほど俺はお人好しじゃねぇ」
マリカが目を丸くした。ルカが視線を逸らす。
「……ほら、さっさと行くぞ。見張りが戻る前に」
二棟目の倉庫の掛け金を外し、扉を引いた。
匂いが来た。
マリカの足が止まった。ルカの足も止まった。
料理人の鼻は、この匂いを知っている。腐敗。発酵を通り越して崩壊した有機物の、甘ったるい悪臭。
だが、ただの腐敗ではなかった。マリカの嗅覚が、その奥にある匂いを拾っている。
蕪。芋。葉物。干し肉。チーズ。薫製。漬け物。木の実。——春茸。
食材だ。
「……何だ、これは」
ルカの声が掠れた。
倉庫の中は、食材で埋め尽くされていた。
木箱が壁際に積み上げられ、樽が通路を塞ぎ、棚には袋が隙間なく詰め込まれている。春の収穫物。森の恵み。猟師の獲物。——この村の農夫と猟師が育て、採り、獲ったもの。
そのほとんどが、腐っていた。
蕪は黒ずんで溶け始めている。芋は芽が伸び放題で、表皮に黴が生えている。干し肉は変色し、チーズは割れて異臭を放っている。木箱の底から腐汁が滲み出し、床板を染めていた。
マリカが倉庫の奥に進んだ。
三棟目の扉も開けた。同じだった。いや、もっとひどかった。こちらは古い食材がそのまま放置されていて、春茸は原形をとどめていなかった。白い菌糸が樽を覆い、空気そのものが重い。
「……これ、全部この村から上納させた食材ですわ」
マリカの声が低い。
「蕪。芋。木の実。干し肉。——トマスさんの蕪も、ヨルグさんの茸も、全部ここに来ていたんですわ」
ルカは棚の奥から木箱を引き出した。蓋を開ける。中身は漬物だった——いや、漬物だったもの。塩が足りず、保存に失敗して液がにごり、異臭を放っている。
「保存の仕方がなっていない」
ルカの声にも怒りが滲んでいた。
「この漬物、塩を増やして甕に移し替えれば半年保つ。干し肉も、定期的に風を通せば——。……こいつら、食材の扱い方を知らねぇんだ」
「知らないのではありませんわ」
マリカが振り返った。
「知ろうとしていないんですの。——集めることだけが目的で、使うつもりがない」
マリカの手が、黒ずんだ蕪に触れた。指先が震えていた。
「この蕪は、トマスさんが畑で育てたものですわ」
声が変わった。いつもの「ですわ」が、薄い膜一枚で保たれている。
「水をやって、土を耕して、虫を取って、日当たりを確認して、収穫の時期を見極めて——やっと実った蕪ですわ。あの子どもたちが食べられたかもしれない蕪ですわ」
蕪を持ち上げた。半分溶けて、指の間から黒い汁が垂れた。
「こんなに……」
お嬢様の口調が崩れた。
「こんなに、腐らせて——」
マリカの手が震えた。蕪を持つ指に力が入り、腐った表皮がぐしゃりと潰れる。
「食べ物を」
声が割れた。
「食べ物を腐らせるなんて……」
ルカはマリカの横顔を見た。
泣いてはいなかった。目が潤んでもいなかった。代わりに、琥珀色の瞳に灯った光は——ルカが三日間見てきたどの表情とも違った。
好奇心でも、分析でも、興奮でもない。
怒りだ。
食を愛する者だけが持つ、純粋な怒り。食材に命があることを知っている者の、裏切られた痛み。
「……ルカ」
「何だ」
「わたくし、この倉庫の食材を、全部外に出しますわ」
「は?」
「腐っていないものがあるはず。まだ間に合うものがあるはず。——それを村の人に返しますわ」
「待て。領主の——」
「領主がどうしましたの」
マリカが振り返った。目が据わっている。
「この食材は、この村の人たちのものですわ。トマスさんの蕪。ヨルグさんの茸。猟師の肉。——それを腐らせて放置している人間に、所有権を主張する資格がありますの?」
「理屈はそうだが——見つかったら——」
「見つかりますわ」
「わかってて——」
「ええ。見つかっても構いませんわ。わたくしがそうしたいので」
ルカの口が止まった。
わたくしがそうしたいので。
これがマリカだ。根拠はある。理屈もある。だが最後の最後を動かしているのは理屈ではなく、この女の「そうしたい」だ。
ルカは倉庫を見回した。腐った食材の山。その中に——まだ生きている食材がある。鼻が教えている。蕪の一部はまだ硬い。芋は芽を欠けば食える。干し肉の表面を削れば中は生きている。
料理人の目が、使える食材を選り分け始めていた。
「……勝手にしろ」
「ルカ——」
「ただし、食材の選別は俺がやる。お前は見た目じゃ判断できねぇだろ」
「わたくし、匂いでわかりますわ」
「嗅覚だけじゃ駄目だ。触れ。押せ。切れ。——中の繊維がまだ生きてるかは、包丁を入れなきゃわからねぇ」
ルカがコートの内ポケットから、折りたたみの小刀を取り出した。調理用ではない。旅の携帯刃物だ。だが、その手つきは紛れもなく料理人のものだった。
蕪を一つ取り上げ、小刀で断面を見る。
「……この蕪、表面は腐ってるが、芯はまだ生きてる。皮を厚めに剥けば使える」
次の蕪。
「駄目だ。中まで黴が回ってる」
次。
「これはいける。——こっちの芋も、芽を取って火を通せば問題ねぇ」
ルカの手が加速していく。料理人の目で、生きている食材と死んだ食材を分けていく。
マリカはその手を見ていた。
ルカが食材に触れる時の——あの、無意識の真剣さ。素材を見極める目。生かすか殺すかを一瞬で判断する手つき。この人は、食材の命がわかる人だ。
「ルカ」
「何だ。手を動かせ」
「……ありがとうございます」
「礼を言う暇があったら木箱を運べ」
朝日が倉庫の隙間から差し込んだ時、二人は倉庫の中の食材を三つに分けていた。
まだ使えるもの。処置すれば救えるもの。もう駄目なもの。
使えるものは全体の三割ほどだった。残りの七割は手遅れだった。
マリカは「もう駄目なもの」の山を見ていた。
蕪。芋。干し肉。薫製。漬物。茸。木の実。——村の農夫が汗を流して育て、猟師が命を賭けて獲り、木こりが森を歩いて集めたもの。
それが、ここで朽ちていた。
誰にも食べられることなく。
「……腐った食材って」
マリカの声が小さかった。
「元に戻せないんですわね」
ルカは答えなかった。料理人として、それが最も残酷な真実だと知っている。
食材は時間を巻き戻せない。腐った蕪はもう蕪には戻らない。干し肉の変色は取り消せない。——人の手で育まれ、命を削って得られた食材が、ただ放置されて消えていく。
「ルカ。わたくし、もう一度言いますわ」
マリカが立ち上がった。
「この倉庫の——まだ生きている食材を、全部村の人に返します。領主が何と言おうと。見張りが来ようと。——わたくしがそうしたいので」
その声には、いつもの軽やかさがなかった。重い。でも、ぶれていない。
「わたくし、追放されたばかりの侯爵令嬢ですの。権力もない。兵もいない。あるのは鼻と舌だけ。——でも、食材が腐っていく匂いを嗅いでしまった以上、知らないふりはできませんの」
「……お前は本当に——」
「わがままですわね。知ってますわ」
マリカが微笑んだ。だがその目は笑っていなかった。琥珀色の瞳の奥に、静かな炎が燃えている。
「でもね、ルカ。食べ物が腐る匂いって、この世で一番悲しい匂いですわ。誰かのお腹を満たすはずだったものが、誰にも届かないまま消えていく匂い。——わたくし、その匂いを嗅いだまま黙っているほど、大人にはなれませんの」
ルカは黙って小刀をコートにしまった。
「……わかった」
「来てくれますの?」
「最初から来てるだろうが」
マリカの目が——ほんの一瞬だけ、和らいだ。
「では、使える食材を全部運び出しますわ。ルカは保存処理を。わたくしは村の人を呼んできます」
「おい、計画を——」
「計画はありますわ。運んで、配って、食べる。完璧ですわ」
「進化してねぇ!」
だがルカの足はもう動いていた。使える食材の木箱に手をかけ、倉庫の入口に向かって引きずり始めている。
マリカが倉庫を飛び出した。丘を駆け下り、村に向かって走る。朝日が差し込んで、マリカの栗色の髪が跳ねた。
ルカはその背中を見送った。——そして、小さく舌打ちをした。
「……弁当、食ってねぇだろうが」
怒っている時のマリカは、食べ物を忘れる。
それがどれほど異常なことか、マリカ自身は気づいていない。だがルカにはわかる。この女が飯を忘れるのは、飯よりも大事なものを見つけた時だけだ。
ルカは木箱を持ち上げた。腐りかけの蕪の箱。表面を削れば、まだ使える。
料理人にできることは一つだ。生きている食材を、生きているうちに、誰かの腹に届けること。
それだけだ。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回、食事シーンがゼロです。「食い倒れ世界制覇」という作品で食事シーンがない——それ自体が、マリカの怒りの深さを表現しています。あの食いしん坊が、ルカの弁当すら開けない。書いている最中、「この子、本気で怒ってるな……」と自分でもぞくっとしました。
ルカが夜明け前に作った弁当、マリカは結局開けていません。次回、この弁当がどうなるか——ちょっとだけ楽しみにしていてください。
腐った食材の描写は、書いていて一番つらかったです。「トマスさんの蕪」が黒ずんで溶けている。あの農夫が汗を流して育てた蕪が、誰にも食べられずに消えていく。マリカの怒りは作者の怒りでもあります。
◇◆◇ 歩人の連載作品 ◇◆◇
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