第56話: お前の舌だけは
封印庫の光が、揺らいでいた。
ルカの手は、塩をつまんだまま鍋の上で止まっていた。
あと、ひと匙。それだけで、一皿が完成する。それだけで、扉が開く。
なのに、その手が動かなかった。
「ルカ」
マリカが静かに呼んだ。
「どうしましたの」
「……わからねえ」
ルカの声は掠れていた。
「この塩が、正しいのか。——わからねえんだ」
ルカは自分の指先を見ていた。
「二年前、宮廷で言われた。お前の味覚は狂ってる、と。あの晩餐で俺の料理を食べた貴族が、全員、味がおかしいと言った。料理長も、首を横に振った」
ルカの指がわずかに震えた。
「あの日から、塩を振るたびに、怖い。——これは、本当に正しい量なのか。俺の舌が、また、間違ってるんじゃないか」
封印庫の冷たい空気の中で、ルカの息だけが白く揺れていた。
「旅のあいだは、ごまかせた。お前が、うまいと言ってくれたから。みんなが、食ってくれたから。——でも、ここは宮廷だ。俺が、追われた場所だ」
ルカは目を閉じた。
「この扉の向こうに、答えがある気がして。——怖くて、手が動かねえ」
誰も、何も言わなかった。
二年間この男が抱えてきたものの重さが、地下に満ちていた。
マリカが鍋に近づいた。
ルカが作りかけた、その一皿。仕上げの塩を、まだ振っていない一皿。
マリカは、スプーンでひと匙すくった。
そして——目を閉じた。
ルカの手が止まった。
マリカが目を閉じるのは、分析する時ではなかった。信頼した料理人の料理を、ただ味わう時だけ。出会った日、ルカのポトフを食べて初めてそうしたように。
マリカは、長いあいだ目を閉じていた。
それから、ゆっくりと目を開けた。
「ルカ」
マリカは、まっすぐルカを見た。
「あなたの味覚は、狂っていませんわ」
ルカの息が止まった。
二年前と、同じ言葉だった。旅が始まった日に、マリカがルカへ言った、あの言葉。
「あの日は、賄い飯の塩加減を、証拠に出しましたわね。塩が0.8%。狂った舌では出せない精度だと」
マリカは薄く笑った。
「でも、今は——証拠なんて、いりませんの」
「……マリカ」
「わたくしが、知っていますもの。出会った日から、ずっと。あなたの舌が、世界一だってことを。——証明する必要なんて、もう、どこにもありませんわ」
ルカはマリカを見ていた。
二年間、自分の舌を信じられなかった男が。
その舌を誰よりも信じている人が、目の前にいた。
「……ああ」
ルカの声が震えた。
「俺の舌は、もう、わからねえ。自分じゃ、信じられねえ。——でも」
ルカは息を吸った。
「お前の舌だけは、信用してる」
その一言を、口にした瞬間。
ルカの手が動いた。
塩を振る。迷いなく。出会った日から何千回も繰り返してきた、その手つきで。
ひと匙の塩が鍋に落ちた。
一皿が完成した。
封印庫の光が変わった。
揺らいでいた光が、すっと強くなる。爆ぜるのでも、轟くのでもなく。ただ静かに、満ちていった。
石の扉が、音もなく開いた。
その奥に、黄金色の麦の穂がひと束、眠っていた。
黄金小麦。最後の、神の食材。
五十年、誰も開けられなかった封印が、今、開いていた。
封印が解けたのは、魔法のせいでは、なかった。
ルカの手の震えが、止まったからだ。
ルカは、開いた扉をただ見ていた。
その手が、まだわずかに震えていた。恐怖の震えではなかった。何か、別のものだった。
その手に、そっと別の手が重なった。
フィリアだった。
フィリアが、ルカの震える手を両手で包んでいた。
「ルカさん」
フィリアの声は静かだった。
「わたしは、味が、わかりません。あなたの料理が、おいしいのかどうか、一生、わからないんです」
フィリアは、ルカの手を握ったまま言った。
「でも、ルカさんの料理は——味のわからないわたしにも、温かいんです。味じゃない。もっと別のものです。あなたが誰かのために作っている——それが、伝わってくるんです」
ルカはフィリアを見た。
味を失ったエルフと、味を疑った料理人。
欠けたものの種類は違った。けれど二人とも、同じ場所に立っていた。
「……ありがとな」
ルカが、ぽつりと言った。
フィリアが、フードの下で小さく笑った。
笑うのが下手な、そのエルフが。
黄金小麦が、マリカの手に渡った。
六つの、神の食材。森の心臓茸。溶岩蜜酒。深海真珠貝。黒胡椒。精霊の雫果。そして、黄金小麦。
すべてが、揃った。
マリカは、その麦の穂をそっと撫でた。
「これで、最後の食材ですわ」
「……ああ」
ルカが頷いた。
その横顔から、二年間こびりついていた何かが、剥がれ落ちていた。
「あとは」
マリカは麦の穂を掲げた。
「『心を一つにして食す者のみ』。——六つの種族を、ひとつの食卓に、集めるだけですわ」
マリカの目が輝いていた。
最後の、いちばん大きな旅が始まろうとしていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
「お前の舌だけは」、この物語で、いちばん書きたかった回です。
ルカの、最後のトラウマ。二年前、宮廷で「味覚が狂っている」と告発された。あの日から、塩を振るたびに怖い。この量は、本当に正しいのか。旅のあいだは、ごまかせた。マリカが「うまい」と言ってくれたから。でも、追われた宮廷の地下で、最後のひと匙を前に、その手が止まる。
マリカが、ルカの一皿を一口食べて、目を閉じる。この「目を閉じる」が、大事でした。マリカが目を閉じるのは、分析する時じゃない。信頼した料理人の料理を、ただ味わう時だけ。出会った日、ルカのポトフを食べて、初めてそうしたように。
そして、二年前と同じ言葉。「あなたの味覚は、狂っていませんわ」。でも、今度は証拠を並べません。あの日は、賄い飯の塩加減を証拠に出した。今は、いらない。「わたくしが、知っていますもの。出会った日から、ずっと」。証明から、確信へ。これが、二年の旅の重さです。
ルカの「お前の舌だけは、信用してる」。自分の舌を信じられない男が、マリカの舌を信じることで、自分の舌を取り戻す。封印が解けたのは、魔法のせいじゃありません。ルカの手の震えが、止まったからです。
最後、フィリアがルカの手を握る。「味のわからないわたしにも、温かいんです」。味を失ったエルフと、味を疑った料理人。欠けたものの種類は違っても、二人は同じ場所に立っています。
六つの神の食材が、揃いました。次は、いよいよ、世界中の人々が、集まり始めます。
ここまで読んでくださったすべての方に、深く感謝します。次回、「あなたの料理を食べに来ました」。
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